一、目標を目指す考え方、或は、心の受け止め方 二、私は「眼に触れるものは一切が学習なり」という、韻を踏んだ言葉にひかれる。 ( 一 ) 心が目標を目指す 目標を目指す心について、最初に理解しておかなければならないことは、その心を持っため に必要なのは、知り、気付く智慧であり、欲しいとか望みたいとかいう気持ちではない。例え ば、この仏法の修行において、仏陀はああいう風に、こういう風になりたい、したいなど欲し と言われている。もしそうなら間違っている。欲して行うときは、修 て修行すべきではない、 行していない。修行しているときは、欲する気持ちはない。欲するときは、心は修行から離れ 8 て欲するに留まっている。心の修行をしているときと修行には、欲する気持ちが入る余地はな これは重要である。だから、仏陀は欲するなかれ、と注意されたのである。 目的、目標を持っということは、それを欲しなさいということではなく、知りなさいという ことである。すなわち、私たちは修行しようとすれば、目標を知らなければならない。まず、 しつかりと目標を心に留めることだ。それから、実行する。しつかりと目標を心に留めれば、 そのままことは目標に向かって進む。歩いているときに、目的地を知らなければ、正しくは歩 けないようなものだ。きっと混乱する。目標を知れば、目標に行きたくなる。しかし歩かなけ れば何の役にも立たない。従って、目標を心に留めて、それからは実行する。目標を心に留め て実行すれば、一つのことを成し遂げられる。真っ直ぐに目標に突き進んで成就する。だから、
示された。私たちも出来ることを示された。修習が時には非常に困難で躊躇することがあるか イ陀は私たち以上に大きな困難を経験されたが、それを突き進んで達成されたこ もしれない。 とを思えば、私たちも自己修習する力が湧いてくる。 ( 四 ) 仏陀の経験から近道を得る。仏陀は大きな困難の中で修行され、試行錯誤しながら、波 羅蜜を修行されて、仏陀になられた。大悟されてからその経験を順次基本としてまとめられて、 私たちが理解しやすいように教えられた。それは仏陀の経験から私たちが成功できる近道を教 えられたのと同じことで、私たちは直ちにそれを用いて仏陀ほど難渋することはない。 仏陀を念じ帰依することは、この四種のように役立つ。そこで私たちは仏陀を三宝の第一位 として、帰依の第一項とする。 (n) まず、仏陀をお手本として、自己修習、開発を考える。次に自己開発をするには、自然 界の法則の真理、基本、すなわち、法を知り、その法に従って修行しなければならない。だか ら、仏陀は私たちを法に導く出発点である。簡単に言えば、仏陀との繋がりによって「法」を 求める。それは人間が知り修行しなければならない自然界の真理である。 (O) 一般の人間は、三藐三仏陀が知り自ら修行されたような段階まで自己修習をしていない から、そのように法を知り法に従って修行する必要はない。というのも、私たちには法を知り、 道を知り方法を告げてくれる三藐三仏陀がおられる。その仏陀の教えを聞き、その仏陀を模範 として修行すればいい。 0 ・ 4
という言葉になる。仏教のすべての修習、すべての修行の過程は三学と呼ばれる。「 SikkhäJ は、勉学、留意、修習の意味である。 上記のすべての言葉はすべて修習の意味である。知り理解しなければならない三種の言葉が セットとしてあるということだ。仏教とは自己開発、或は、自己研鑽、勉学の宗教と言うこと も出来る。ここの講演の演題と一致させて、自己開発の宗教と言おう。このように呼ぶのも裏 づけのある理由がある。 第一、自己開発に関する法の基本は仏教の重要な中心の軸であり、法の修行のすべてである。 先ほど例に上げた「 Bh a 品」という言葉は、すべての仏法の修行で使う。先ほど述べたよう に、「ヂャルーン・ MettäJ は「 Mettä-bhävanäJ であり、「ヂャルーン・ Kusala は「 Kusala ・ BhävanäJ であり、「ヂャルーン・Ä品 na ・ sa ( 一」は「Ä品コ a ・ sa 早 b く a コ巴である。すべてこれらの善行 を生むための自己開発、自己研鑽ばかりである。「 Bh a コ巴はすべてを包含する修行である。 学 (Sikkhä) についても先ほど述べたように、三学 (T 「 ai sikkä) は仏教のすべての修行を含 んでいる。簡単に言えば、戒 ( a ) 、定 (samädhi) 、慧 ( P 当謌 ) である。「調御」 (Dama) ついては、次の第二項で述べるように、仏陀は人間の徳性を示す形で多く使われている。 第二、仏教の最高の人、或は、仏教の目標を達成した人は、自己開発した人、開発した自己 を持つ人、修行した人であると一一一一口う。一注こ 4
しかし、私たちは仏陀から遠く離れている。仏陀は般涅槃されているから、私たちは仏陀の 教えを受け継ぎ維持してきた僧伽 (safigha 、そうぎや ) に聞いて学ぶことになる。 僧伽が受け継いできた仏陀の教えに耳を傾けても、一般に普通の人間は、自分一人だけで法 を実践し修行して前進することは難しい。一般の人は、多くの人々と環境に依存して援助して もらう必要がある。特に最も善い援助を与えてくれるのは、「僧伽」と呼ばれる、善く設立され た集団である。 僧伽の集団の中には、私たちを助け助言を与えてくれる教師、これまでにすでに法を聞き、 知り、修行された阿闍梨、などといった方がおられるほか、生活と生き方、集団を共にする友 人との関係、環境の選択、そして集団の雰囲気、それら一切のことに、私たちが法を知り、法 を修行し前進するのを最も善く助けてくれる善友 ( Ka 一 yäparn a 、ぜんう ) たる方々がおられる。 この僧伽の集団は、私たちが法を知り法に従って修行し進歩するのを善友となって助けてく れるが、私たち自身も進歩したときは、善友となって他人を援助するのである。また、僧伽は 世に善く楽ある生活と生き方を維持する場所でもある。 一方、人間は仏陀と同じようになる潜在力があるとはいっても、修行中には色々な段階での 開発がある。突如、仏陀になるわけではない。色々な段階で開発しながら法に従って修行して いる多くの人間は、集まって善い集団を結成する。この僧伽のことである。現代の言葉で言え ば、「理想の社会」だ。 私たち人間は各人が、各人の自己修習、開発によって、参加し依存しこの集団を作り上げる べきだ。
に聞きに行ったように、自分に役に立つ、内容のある善いことに気付いて、選んでいる。そし て、それを取り出して自己改良に用いる。これを「サムニアック」と呼んでいる。自分の役に 立てる。機会に関わらず、どういうことに関しても、気に留めることを知っていれば、選ぶこ とを知る。自分にとって役に立っ良いことを、選び利用することができる。この「留意」とい うことは非常に重要なことである。勉学という言葉の意味に最適な、修行の基本である。勉学 とは、「気付く、留意する」ことである。 勉学が「留意する」という意味であれば、私たちは勉学の二つの面を見る。 一、私たちが「留意」して、役に立つものを選ぶなら、何に役立て、どうしようとしているか、 という目標を知り理解しなければならな、 二、私たちは何が得られるか、何を得てくるか、もし、学習と呼ぶのなら、何を学ぶか。 第一項目は、何のため、第二項目は目的を果たすため何を選び役立てるかである。 従って、勉学は二つの段階に分けられる。 一、目標、または、目的をはっきりと定めること。 二、何かを捉えて利用しようとするものは、その重要な本質に気付くこと。 従って、この勉学、或は、「サムニアック」には、修行の方向を作るために、二種、二面、或 は、二段階ある。勉学をする人、修行をする人、自己調御をする人は、精神の中に基本的な、 重要な二つのことを意識しておかなくてはならない。 107
自己開発 はじめに 本日、私 ( 拙僧 ) は、これまですでに佛教を学ばれて知識もあり、修行もされて法界に関係 されている皆さんの会合でお話するので、多くの方々はもうすでに広範囲な知識を持ち、かな り深い修行をされてこられたのだと思っている。こう思うので、少々重くて多少退屈なことを お話しても恐らく大丈夫だろう。そこで、学問的に堅苦しい話、或は、経典の内容に忠実な、 つまり、多少文献学者のような話になるかもしれない。 実際のところ、法の本質は、それを用いることにある。つまり、用いて役に立てる、苦を滅 し、煩悩をなくすことである。この面から言うと、教科書はそれほど重要ではない。薬を正し く飲むのと同じように、教科書を知らなくても病気は治る ( しかし、教科書なしに薬をどう作 るかはまた別の話である ) 。ともかく、法の知識があり、修行してきた人にとっては、教科書の 知識は、軸、或は、基本となって、意味を伝達して、相互理解を容易にしてくれる。教科書、 或は、経典に従って話すなら、何について話せばよいかと考えたが、私が知る限り、本日の会 は「自己開発」と呼ばれる計画に関係するか、多少ともそのことに関係するもののようだ。よ って、この自己開発について話すことにする。つまり、学問的に、或は、経典の内容に従って、 自己開発ということについて話す。そこで、今度はこの会の計画名、或は、参加された方々の
性格の人になることである。だから、自己修習、開発の過程が、完全に起こる。 従って、私は次のことを提案したい。 この三学についての基本は、三学に何があるかを知る だけではなく、学 (Sikhä) 、或は、留意、或は、学習と呼ばれる修行方法はどういうものか、 この人格形 特に、意識、或は、人格形成と呼ばれる修行方法について知らなければならない。 成性はどうしても創造する必要がある。自己開発における人格である。もし、これがなければ、 戒、定、慧のような修行の項目の基本を知っても、時にはそれは創造できなし のよ一フに創 造したらいいか分からないからである。今度は、もし、私たちが完全に自我を持っていて、あ の二項目が助けず、凡人の煩悩で自我を増やし受け続けて、何かがあれば常に自我を出して影 響を受ければ、恐らく自我は膨れ上がってくる。影響を受ける機会があればあるほど、病んで 苦悩が増える。自己開発をしない人間は、多くの自我があり苦悩がある。本当のところ、開発 。自己開発とは、智慧を開発 とは自分を軽くすることであり、自分を大きくすることではない することを意味している。生命に関する智慧、自我に関する智慧があるとき、執着は減る。自 己開発して自我の執着を断ち切ることは苦悩を減らすことである。今度は、自己開発をしなか ったら、自我の執着が増えて、自我が常に影響を受け続け苦悩が増える。ずっといつも増え続 ける。今度は、自己開発において人格を完成させ、高い意識が得られたら、「三学」と呼ばれる 良く知られた勉学の段階に入る。三学は三つの項目からなる。易しい言葉で言えば、戒、定、
心の開発について一言えば、これは奥深い内部の問題であり、人間各自が自ら行うことで他人 が開発できることではない。よき環境を整えてやるとか、何かアドバイスを与えるとか、手助 けすることはできる。しかし、本当のことを言えば、各人が自らを開発するものである。だか ら、「心の開発」は「自己開発」のことである。自己開発が皆さんの今回の計画の名称と一致す るということは、自己開発ということが今の時代に繰り返し、強調されるべき重要なことだと いうことである。そこで、自己開発ということが、仏法の言葉、或は、仏法のどの項目と一致 するかについて調べることから始めよう。 開発 ( パッタナー ) とは何か、その語源、関連語を探る 「開発」 ( パッタナー ) は、繁栄、増進、進歩 ( ヂャルーン ) させるという意味である。法に について見ると、この「ヂャルーン」という言葉は、古い時代から、法の世界で非常に多く使 われている。例えば、「観想」 (Vipassanä) の修行では「観想」を深める ( ジャルーン ) と言っ ているし、「慈愛」 (Mettä) の修行では、精神に慈愛を生じさせることを「慈愛」精神を増進す る ( ヂャルーン ) と言っている。「安那般那観想」 (Änäpäna vipassanä、あんなばんな・かんそ う ) でも、呼吸を定めて精神を静め三昧することを「安那般那観想を深める ( ヂャルーン ) 」と 言うし、「善」 ( グソン ) を多くなすことも、「善を増進する ( ヂャルーン・グソン ) 」と言う。 「ヂャルーン」という言葉は、大昔からあって使ってきた言葉で現在も使われているのだ。 だから、「開発」が「ヂャルーン」という意味であるなら、私たちは本当は「開発」という一一一一口 0 9
陀と同じように自分自身を修習する能力、潜在能力があると、自分自身を信じることができる。 私たちは仏教が仏陀の修行の歴史に重点を置いていることを知っている。五百五十もの「本 生経」 ( ジャータカ ) の重要な目標は、凡人から、畜生から仏陀として完成するまでの自己修習、 或は、仏陀の自己開発の過程を見せるためである。だから、私たちが仏教徒であれば、気力を 持ち、自己開発が出来ないと怯むことなく、波羅蜜を修行すべきである。そうすれば仏陀にな ることすら望みうるのだ。仏陀の功徳は三宝の第一項目に「仏 , をおかれて、私たちでさえ仏 陀になりうるということを確信させるものである。 以上、述べてきたことは、まったく初歩的な基本である。仏教は、これらに関する法の基本 8 を数多く教えている。例えば、人間を四種に分け、四種の蓮花に喩える。人間の差異を教える ために、仏陀自身でさえ人間の差異を推し量る智慧を持たねばならない。 これを仏陀は「根上 下智力」 (lndriya-pa 「 opariyatta ・ fiäna 、こんじようげ・ちりき ) と呼ばれる。多くの衆生の信、進、 念、定、慧の「五根」の上下優劣を推し量る智力である。その人間の自己開発の段階がどの程 度違っているか、どの人間がどのように根を鋭く強くしなくてはならないか知らねばならない。 仏陀には仏陀の方法がある。仏陀は人間を調御する最高の馭者である。仏陀は、人を十分に調 御する方法を、根を次第に鋭く強める方法を求められる。或は、仏陀には仏陀の十力の一つと して、「種種勝解智力」 (Nänädhimuttika-fiäna 、しゅじゅしようげ・ちりき ) があ . り、人間の性格
れたのはこの事実に基づいている。すなわち、 (<) 仏陀は帰依すべき模範である。つまり、私たちが一人の人間であることを気付かせてく れる器である。仏陀は修習される以前は私たちと同じような人間であられた。だから私たちも 修習して仏陀のように最勝の人になる潜在力がある。仏陀は最勝者で大悟され、あらゆること に完全な徳性を持たれた。そのような高い徳を持たれたのは、多くの波羅蜜を完全になるまで に修行されたと言われているように、自らを修習されたからである。 だから私たちは仏陀をお手本として取り上げ、「見よ、最高に良く修習し良く開発した人間は、 智慧を有し正法を知る、清純で解脱し自由となり、世間法を越え、楽と善なる命、完全な善美 の得を有し、世の人々の頼るところとなる。かように最勝である」と一言う。 このように思えば、如来菩薩信 (Tathägatabodhi saddhä) と言われる信仰心が生じる。仏陀 の大再の智慧を信じることで、これはさらに人間を仏陀にする智慧を信じることを意味する。 だから、仏陀に帰依することは、この意味にある。すなわち、 ( 一 ) 私たちを仏陀に結びつける信仰を生む。仏陀は私たちのような人間から、波羅蜜を修行 して仏陀になられた。私たちも同じ人間として、真剣に限界まで自己修習すれば、仏陀のよう になれる。仏陀のように修習する潜在力があるとの確信を生む。 ( 一 l) 自己の義務を気付かせてくれる。私たちは自己開発して最勝の人間になれる。修習し自 己開発することは、私たちが生きる義務である。私たちは常に自己修習し開発しなければなら ( 三 ) カ付けてくれる。仏陀は自己修習、開発を完全に成し遂げられて最勝の人間となる例を