動物の訓練に倣って「調御」という言葉を使われた。動物の訓練を見て理解して欲しい。まず、 密林で暴れている動物を捕らえてきて慣らして、本来できるはずのないことを仕込んで仕事に 使えるようになるまで訓練する。その訓練には二段階ある。 第一段階、凶暴さを抑える。凶暴さを抑えつけるとか取り除くことである。この面で「調御」 は精神を抑え付ける意味で、凶暴性を取り除くことと同じである。野生の動物は、森から連れ 出した当初は、凶暴性を取り除き、馴らさなければならない。野生の本能の力を取り除く。第 一段階は、訓練の始まりの過程である。さて、それで凶暴性はなくなった。 第二段階、今度は、訓練して改良し、何でもよく出来るようにする。動物は多くの特別な資 質を持っている。例えば、象は仕事に使える。丸太を曳かせたり、多くのことをさせることが 出来る。動物踊りをするように、楽しく遊ばせることも出来る。象を後ろの二本足で立たせた り、前の二本足で鼻を掴んで振ったり、或は、四本足を一ヶ所に集めたりさせる。このことは、 皆さん方の方がよくご存知のはず。私自身は皆さん方ほど見ていないし、話したこともない 要約すれば、この動物は訓練すれば変わったことを何でも出来る。象でも馬でもどんな動物で も、悪戯だと言われる猿でもだ。人間は訓練すれば仕事が出来るし、変わったことも出来る。 仏陀はこれは訓練次第だと言われる。訓練すれば何でも不思議なほど良くできる。畜生に過ぎ ない多くの動物も、訓練すれば役に立つ、良い資質を多く持っている。良く調御された人間で 100
定の利用は注意が要る。使い方を知らなければ誤る。 タイ社会ではあるいは法を、過程を通じて学んでいないかもしれない。考えるに、基本がな 。少なからずのタイ人が定を用いて、ただ穏やかで気持ちのいい幸せだけを求めている。確 心を休めるか、或は、 かに、それも一つの段階として使える。仏陀も否定はしておられない。 苦の問題を解決する。少なくとも安らかに眠る。心がすっきりする。しかし、それだけの役で はなく、定はさらに前方へ向かって進んでいく堅固さを与えてくれることを見るべきだ。 そこで、前進するために、定から如何なる法が結果を受け取るかを、さらに見る必要がある。 三学の基本を見れば、結果を智慧に受け取らせて前進するとある。 定の重要な効果は、心を「適業」 (Kammaniya) にする、仕事に適した状態にするという点に ある。これは仕事をすることに使える。智慧がうまく働いてくれて、例えば、はっきり見える、 順次に調べる、深く調べる、詳細に分析して、真理がはっきりと見える、といったようなこと ができるようになる。 定が人間に学ぶことを止めさせれば、それは定の間違った使い方である。 定によって心に智慧が働き前進できる準備が完了するように 知足によって精進を目指す準備が完了し迷うことはない もう一つ例を上げると、知足 (santosa 、ちそく ) である。これは自ら消費する物質に満足す ることである。あるだけで喜ぶことだ。多くの人が知足すれば幸せであると言う。その通りで
の平和賞を受賞六れ、師の業績が広 / 、国にも知られたことだけ記しておこう。 現在、ナコンパトム県、ヤ 1 ナウェーサカワン寺の住職である。 僧位としては、六九年にすでにソムデット・プラサンカラ 1 ト ( 法王 ) とソムデット・ラーチャーカナ に次ぐプララーチャーカナの高い僧位である。師の僧位については詳しく書いておく必要がある。何故な ら、僧位が上がると欽賜名、わっており、師の著作の名がそれに従って変わっているからである。 例えば、後述の『仏教辞典ー体をの著者名はプララーチャ・ウォーラムニー、『体の董頃名はプ ラタマ・ピドックとなっているが、両書ともに、パュットー師のである。 六九年僧位、プララーチャ 1 カナ・サーマン欽賜名プラシー・ウイスティモリー 七三年僧位プララーチャーカナ・ラーチャ欽賜名プララーチャ・ウォーラムニー 八七年僧位プララ 1 チャーカナ・テープ欽賜名プラテープ・ウェーティー 九三年僧位プララーチャーカナ・タマ 欽賜名プラタマ・ピドック これまでの著作は、ユネスコ賞受賞を記念したコ小ー・オ 1 ・パュットー』の巻によると、九四 年時点で、英文、災凸めて百六十五冊である。この後、現在までに何冊のがあるか、正確にはよく分か らないが、各所での講演記録まで含めれば、さらに膨大な数のがあるものと墾疋される。九九年に編 集六」れた、フラタマピドック師の法見解の十年』によると、寺から譲り受けた本は、一一百五十冊と膨大で ある。さらに注目すべきことは、著書が仏教に限らず、多くの分野にわたっていることである。九四年に 出版されたフラタマピドック師の伝の巻 ~ に、師の著作が分野別に分類されているが、文化、 145
さて、私 ( 拙僧 ) は仏教の心髄についての前置きを長々と話したが、これはただ仏教の要諦 はどのように話してもいいと言いたかったからである。昨日の万仏節の説戒のように、多くの 長老たちが信者に話されるすべての基本は、すべてが色々の角度から言われる仏教の要諦であ るが、繋がりをつけて明確な基本にし、真剣に実践しなければならない。ぼんやりと眺めて何 かを喋る、ということではない。 仏教は世の暗い面を見ると言う知識を欠く人に、愚鈍に従うなかれ 仏教の基本。苦は見るべきもの、楽は持つべきもの、感じるもの ここまで話して脇道に逸れるが、ちょっと気付いたことを話そう。四聖諦の基本を見ると、 仏教は苦で始まる。あるいは外部の人、いや内部の人でさえ、仏教は苦だけを教えるもので、 すべてが苦、人生も苦だと見るものだと考えている。 西洋人もあるいは仏教は悲観主義であると一言うだろう。世を悪い面で見る。百科事典と西洋 人の教科書を見てみると、多くのもの、大部分のものが、仏教について触れて、仏教は人生を 苦と見ている。人生や生存が苦である、といったことが書いてある。しかし、これは大きな誤 解を招く。 この点を仏教徒自身が明確にしなければならない。 このことを説明する前に、もう一つ気付いたことを述べておこう。教科書、或は、理論で仏 教を学んだことのない人たちが、ふらりとタイへやって来て、タイ仏教について見る光景は、
、と述べている。 出来ると考える思想を持っていることを認めなくてはならない この西洋の自然克服の思想、見に対する反省、失望によって、彼らは西洋の思想、東洋の思 想、アメリカ・インディアンの思想さえ探し求めて調べ、解決方法を求めることになった。 現在、かって軽蔑されていたアメリカ・インディアンは逆に称賛されている。多くのアメリ カ人、例えば、ゴアはアメリカのシアトルの町名になっているアメリカ・インディアンの酋長 のシアトルを取り上げて言及している。それによると、フランクリン・ピアス大統領が、アメ リカ・インディアンの土地を買いたいと交渉した際に、この酋長は大統領に次のような回答書 を寄越したという。 「何たることを。この天と地を、貴下はいかにして売買なさろうとするや。まったくもって 奇怪なるお考えかな」 今や、現在のアメリカ人はアメリカ・インディアンが正しい思想を持っていたと逆に称賛し ている。 このことである。 ・「最も多くの消費に耽ることが、最も幸せである」という信仰に基づ いて、人間が物質的に豊になることを目指し、経済を繁栄させるために、科学の知識でテクノ ロジーの部品を作りエ業を開発するという自然克服の思想が、工業時代に極度に繁栄する現代 文明の背後にある。 この意業の思想、見、信仰が生活方法と社会を定める最も重要な影響力になる。もし、タイ 社会におけるタイ人が、自然界の上に力を振ることから成果が得られるという信仰を持つなら、 もし、タイ人がこのように信じるなら、タイ社会はどうなる。よく考えていただきたい。 9 6
範囲内で、それだけの行動を決意して行為をするだけである。もし、まったく知識がなければ、 行為を行おうとする決意は行き当たりばったりでだらだらして意味がない。多少知識があれば、 行動する決意をして多少実のある行為をする。多くの知識があれば、行動する決意のあとの行 為は複雑になり、非常に多くの結果をもたらす。 だから、知識が行為関係の重要な構成要素になる。それによってどこまでどのようにするか の意図を固める。そしてそれに従って行動し行為する。だから、知識の領域は生命の大きな領 域の一つであり、それが智慧 (Paöfiä) である。 もし、私たちが智慧を開発すれば、私たちは心と行為の両面で次元と範囲を広げられる。 自然に打ち勝ちたいという願望が西洋の文明を現在のように繁栄発展させたように、集団と して発展して文化、文明となった人間の行為は、心を引きつける力に従って、意図から生まれ る。この意図とは心に潜むものである。 しかし、意図は知識の条件内で生まれる。彼がどのような知識を持ち、どのように理解して いるか、そのような、それだけの信念、信仰、考えがあれば、その範囲内での行為をする意図 が生まれる。だから、行為関係における智慧の領域、すなわち、知識の領域は非常に広い 人間が生きていく過程の重要な特徴は、生命を維持して生き残り、幸せな善き生活をできる ように潜在力を開発することである。或は、さらに最勝の生き物へ、最高の仏陀になるまで開 発することである。 結局、この環境の下で動く過程である人間の生き方は、以下の三つの面に分けられる。 ( 一 ) 行為関係 -4
体と接触する ( 触 ) など、外部のさまざまなものとの善き関係がある。これが仏法における身 体の開発である。易しく一言えば、私たち自身と外部の環境、或は、すべての物質との関係を善 く開発することである。 この項は私は初歩の基本で重要なものだと思う。色々の律儀の基本がこの項にすべて入って いる。だから、現在、この項を詳しく考慮し、身体開発を行うべきだと思う。身開発は単に身 体を鍛えるのみならず自分と環境との関係がいいかどうか、自問すべきものである。身体は強 健でも環境との関係が善くなく、強健な身体を持って諍いを起こし、奉仕するものを求めるよ うなことがあっては、学んだとは見なされない。 ( 一 l) 「戒開発」これは戒律を開発することである。身体の面の開発、および他人、或は、友人 との会話の関係を開発することである。前項は物質的、或は、物理的な環境との関係であった が、この項は社会環境との関係である。つまり、同じ人間同士の友人との関係である。すでに 述べたような善き関係があると、戒律というものは、人に迷惑を掛けないということだ。こう 言ったり、ああ言ったりすれば、嘘になるか嘘ではないか、疑わしいという妄語戒でも、もし、 戒律の本質が、迷惑を掛けないということにあると知っていれば、気が楽になる。特に、医者 には問題が多いように感じる。多くの医者が患者さんに、嘘をついて妄語戒を犯しているので ーないかと疑問を持たれる。しかし、本当は、この戒律にこそ基本がある。仏陀は場所によっ ては妄語戒ですら例外があると説かれている。つまり、自分の利益のために嘘をつくことを控 124
自己開発をするときは三学に入る。それは自ら善き徳性を増やし、資質を善くし、善になる 様々な行をおこない、善い成果を上げる。多くのことをする能力がよく備わったとき、自分に 自由になって他人が 頼ることが出来る。自分に頼ることが出来れば、他人に頼る必要はない。 頼れるものになれる。 だから、三学の実践は自己開発であり、自己開発とは自分に頼れることであり、自分に頼れ ることと自由とは同じことである。 この自由は他人に頼る必要がないだけではない。物質に頼る必要がないことも意味する。だ から、自由の一つの意味は、消費物質を受用することを減らして、自分に幸せを持っ能力があ ることを意味する。簡単に幸福になれる人間であり、物質に頼る生活をする必要はなく、楽を これは社会において奪い合い苦しめ合うことを減らす。 消費物資の受用に預けることもない。 同時に、自己開発すれば、自由な幸福を持っことと色々の創造活動をする能力が増え、自分 の生活を良くし、他人や社会を同時により多く助けることが出来る。 仏教のことわざを上げて、もう一度繰り返して注意を促そう。 「自己の依所は自己のみなり。他に如何なる依所あらんや。自己のよく調御せられたる時、人 は得がたき依所を獲得す」法句 この四基本は一つのものに繋がる。しかし、実践面では分けて適切に真の成果を上げるよう 使う。すべての基本を実践することで一つのものに統合される。 もう一度繰り返させてもらう。この四基本は仏教の大基本であるし、今の時代に適切だと思
んじゃくじよう ) に至ると。 一切法が執持できないかもしれないと知る、つまり、苦である状態を知る。捨てるべき執持 は集であり、その執持を捨てる智慧は道である。執持を捨てれば、涅槃寂静、すなわち、滅で ある。 この基本は智慧に至る一切のものに対する実践の最高到達点であると見なされる。それは、 例えば、自然界の真理はそのもの自体の因縁に従っており、私たちが執持してそのものを定め ることは出来ないだろうというような、一切のものが自然界の実相に従い、そのもののあるが ままであるという真理を覚知させる。 多くの形式、方向で仏教の要諦について述べてきたが、これらすべては同じ一つのことであ り、結局、それらが包含する大きな基本は、この四聖諦であり、他にどこにも行きようがない A 」い一つこレ」」。 これまで述べてきたことのすべては、様々な言葉で表現される仏教の要諦は、本当は一つの 原理で、違うのは表現の仕方だけであるという分析であり、それを関連づけてはっきりさせる ことであった。 繰り返すと、あれでもいし これでもいいとばかり言っていないで、基本をしつかりと把握 して、最初に述べたように断固としてしつかりと実践していただきたい。 基本を学ぶことが終わっても、四聖諦に対する義務を知らなければ、 正しい実践は出来ないし、法を達成する道はない。
しなければ、真の仏教を理解する日はない。 仏教の真の姿が見られるように努力して話した。すなわち自然界の真理を深く理解すること である。そして自然界の真理の知識を用いて人間の生命の開発に役立て、善き生命にし、平和 な社会を作ることである。 人間は最初、生まれ落ちると同時に生きていく道具である根を持つ。それは環境、外部の世 界と交渉するのに用いる。その時に、正しい生き方と過った生き方の選択が直ちに始まる。 これまで話してきたことを要約すると、学習と受用の両方の領域である六処、或は、六根を 通じて世間と交渉する道を、私たちは人間の開発においては、学習のためにより多く使い、知 を望み、善を望み、善くするように望みながら用いるべきである。つまり、学習を望み、創造 を望むことである、知を望むことは学習、善を望み、善くすることを望むは、創造を望むこと である。 人間の開発は意業 (Mano-kamma) に大きな場所 この重要点を間違えば、大きな道は破滅する 卩 (Dvä「 a) 、或は、道というものがあると言った。身、ロ、 人間が行為を行うにあたって、日 意を通じて行為することである。 智慧が生じ、善き欲求が生じると、私たちは私たちの行為を三面で開発して善くする。 意業 : 私たちの考えが善くなる