るものがなくなる。苦悩がなくなる。煩悩と苦から脱するという、仏教の目標に達したという 煩悩に従わない。 真 ことだ。それからは何をしても、解決するにしても、因縁のままに行い、 の自由である。 自己開発を果たさなければ逆である。無我であることを知らず理解せず、執着心が増して自 我が拡大増加する。日がたつにつれて自我がますます大きくなり、大きくなれば苦も増える。 自我がこれだけなら、影響もこれだけ受け、苦もこれだけ。長くなればそれは拡大する。大き くなってこの物だとか、あの物だとかに執着する。すなわち、もし、私たちが世の中に生きて いけないなら、世に執着し、世の中のすべてのものに執着する。私たちが持っているもの、保 持しているものすべてに執着する。何を持っていても、私たちの自我はそれに執着してしまう。 それは私たちの自我に加わってしまう。コップを一つ持っている。そのコップも私たちの自我 だ。私たちの自我が拡大してコップにある。家を一軒持っている。私たちの自我が拡大して家 を包む。私たちは何を持っているか知らなくても、自我が拡大して捉える。自我がどんどん大 きくなると、今度は影響を与えるものが入ってきて大きな影響を与え、受け止めることができ 一日に、どれだけ影響を受けるか分らない。自我が大きくなればなるほど、影響を受け る範囲、領域は大きくなる。だから、苦も大きくなる。何をして、何を解決するかも利己的な 煩悩で行う。苦に苦しめられている感情の力に従って行う。因縁のままには行わない。だから、 ますます問題が沢山生じる。 従って、無我を覚知し理解し、自我のないことを見るために、自己開発を行う必要がある。 130
〔注一〕自己開発についてのパーリ語 タイ語の三蔵を見てもあまりはっきりしないから、タイ語は見ずに、。、 ーリ語での意味 を見ると、 パ 1 リ語の三蔵では、仏教の目標を達成した、自己開発した人を呼ぶ言葉と して、「 Bh く a コ巴と「 Dama 」一一つの言葉の活用がある。「 Bh く a コ巴を使一フ言葉は、「 p く一 ( a a 」 で、開発した自己を持つ人という意味だである。「 p 一 ( a 計」は「 BhävanäJ の分詞形で、 「 Pävita 」と「 A a 」 ( 自己 ) を合わせて、「 Päミ ( a a 」と言い 「開発した自己を持つ人」 という意味になる。仏陀にものを訊ねに来た人が、「 p 一 ( a 計」のお方と呼びかけること があった。つまり、「自己開発をされたお方」ということである。一方、「 Dama 」の方も 同様な使い方をする。分詞形は「 Danta 」である。活用形の「 Attadanta 」は「自己修習を したお方」という意味である。「 A a 」は自分、「 Danta 」は修習である。「 Päミ ( a a 」と 「 Attadanta 」の二つの言葉は、阿羅漢と合わせて、仏陀の呼ぶ呼称として最も多く使わ れている。所々では、預流果 ( よるか ) を得た一般の聖人にも使われているが、阿羅漢 と仏陀に関して好まれて使われている。 イ侶が唱える偈に、「正覚者は人間であられても、修習し自己開発され不抜の精神の人になら れ・ ・」 (Manussabhutam sambuddharh attadantarh samähitaril ・ ・ ) から始まって、「諸 天ですら敬う」 (devapi namassanti) に至るものがあるが、これは自己開発をされた方を尊敬、 9
私たちは他人に頼られ、他人に頼ることが出来る。社会は、各自が何かを持っていれば、他 人に頼らせ、めいめいが助け合い、社会を幸せにする。そして各自が心と智慧の面で、真に自 分に頼る自由を得るために、各自が三学で開発できる機会を持たせる。このようなことが善き 社会であろう。 僧侶の律を見ていただきたい。仏陀が定めたことに従う僧伽の生活である。はっきりとこの ことが分る。 仏陀は形式を定められた。僧伽の社会は、各人が心と智慧の面で自由を持つように、自己開 発に精進する模範となる社会である。行為である生活面では、お互いに依存し助け合う。助け 合って前進させる。相手がすることなく、助けを受けるのを待つのではない。 心と智慧の自由を得た人間だけが、このような社会を創造できる、このような社会に善く生 きていくことが出来る。 「仏教の心髄」について、「生き方のための法の原理」についてお話した。本当はまだ話した いことが二つ、「社会のための法の本質」と「世のための法の本質」と二つあるが、時間の関係 があり、これで終わらせていただく。 『訳者注一』 Sabbe dhamma コ a ョ abhinivesäya 一切法は、この後本文で説明されるように、一切の現象界で、五蘊、十二処、十八界のこと である。これらは無常であり、苦であり、無我であるがゆえに、固執すべきではないとされ
目標を目指すとは、心に留めることである。欲しいとか、望みたいということではない。 目標を目指すことは、自己修習の非常に善い特質である。何か高尚な仏法修行について語る ことはない。 日常生活においてさえ、進歩する人間は一つの特質を持っている。つまり、目標 を目指すことである。例えば、物を売る人は、心に目標を定めて自分の商品を売る。目標は物 を売り金を得ることであり、がたがたした小さなことには気分を乱されない。昔、物を売る中 国人をよく引き合いに出した。彼らは物を売る。子供や大人がからかって両親まで貶すが、彼 らは知らぬ顔、始終笑い笑顔を浮かべている。というのは、彼らの心は目標にあるからだ。っ まり、物を売ることである。人が買いに来れば、お金を持って来てくれ、こちらにお金が入る。 ものが売れてお金が入ればそれでよし。嬉しい。目標達成である。耳に入ってくる言葉など的 9 外れで平気の平左ということだ。 だから、自己修習、自己開発をする人は、この特質を持たなければならない。すなわち、目 標を目指す心である。このように心を定めれば、細かなことは何でも断ち切ってしまい、気持 ちは快適で、つまりは善い結果が多く得られる。 よい結果の一つは、つまりは、心を乱すことは何もないということである。誰が何を言おう と平気、心は乱されない。、 心を乱すものが何もなければ、なすべきことをやろうと決心できる。 書物に関する仕事をする人のように、心を専一に定めて、目標を目指す。心ははっきりとして いる。何かドタンバタンと物音がしても、時には聞こえず、何も知らない。 これが心を専一に
戒、定、慧は、すなわち、行為、心、智慧を開発すること、すなわち、すでに述べた三面で 学ぶことである。実践面に拡大すれば、それは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正 念、正定の八正道 (Attafigika ・ magga) のことである。 同様に八正道も要約すれば、三つの項目、戒、定、慧になる。 だから、三学の戒、定、慧の三種と道の八項目は一致する。 「戒の面」は、正語 (sammä-väcä) 、正業 (sammä-kammanta) 、正命 (sammä-äjjiva) に広げ られる。これは一般の行動、接触関係、生活において身と口を正しく善く使うことである。 「心の面」は、広範囲にわたる。しかし、重要なのは三つである。正精進 (sammä-väyäma) と 呼ばれる努力。待ち受けて仕事することを定め、ぼんやりして失敗しないように注意する正念 (sammä-sati) と呼ばれるもの、心を集中して静かに安定して過ごす正定 (sammä-samädhi) と呼ばれるものである。 「慧の面」は、二つに分けられる。正しい見方と正しい理解を意味する正見 (sammä-ditthi) 、 正しく考える、正しい方向に生き方を持っていく正思惟 (sammä-sapkappa) である。 正し考え方をして、これに意図と精進と、命じる念などが応じて、知り理解する過程から始 め、学習して生活し、色々な経験と状況とに対して正しく実践して善い結果を生む。三学が道 と結合するのである。 「三学」は、すなわち、正しく善い生き方をするように人間を開発し、 Magga ( マッカ ) のあ る生き方をする。 Magga は道という意味である。生きる道である。人間の正しく善い生き方で
とで、「 P 一 ( a 」という語も出てきて、この場合に使いたいもう一つの偈がある。 「百年もの間、月々に、祭祀に、千もの金を使って物をもって献じる人があるとしても、そ れは少しも最勝ではない。わずかな間といえども、自己開発した人の献じることに敵わない」 「 Mäse mäse sahassena YO yajetha ekaöca bhävittatänaril mufuttamapi püjaye yafice vassastam hutaril 」 säyeva pujana seyyo この大意は、これ以上にうまく訳せるかもしれないが、それは皆さん方にお任せしよう。こ のような内容を知れば、仏陀は祭祀のお供え物を称賛していないということがわかる。崇拝す べき人間を崇拝せよと言うのは、台座の上に乗せて称賛するということではない。努力する一 人の男がいて財を貯めて身を立てた。王は彼を富豪大臣に任命した。当時は富豪という役職が ーリ語の経典の中にあるが、この あったので、富豪の地位に任命して崇拝した、という話がパ 話のように、崇拝するというのである。ここでの崇拝は称賛という意味である。花、ロ 1 ソク、 。自己開発し 線香を持って何かの上に座っていただき、平伏して崇拝するということではない た人間を称賛するということである。それを仏教は、社会の善き方向だと「吉祥三十八」の第 一偈の三項で讃えている。 「諸の愚者に近接せず。 諸の賢者に近接し、 128
自己開発をするときは三学に入る。それは自ら善き徳性を増やし、資質を善くし、善になる 様々な行をおこない、善い成果を上げる。多くのことをする能力がよく備わったとき、自分に 自由になって他人が 頼ることが出来る。自分に頼ることが出来れば、他人に頼る必要はない。 頼れるものになれる。 だから、三学の実践は自己開発であり、自己開発とは自分に頼れることであり、自分に頼れ ることと自由とは同じことである。 この自由は他人に頼る必要がないだけではない。物質に頼る必要がないことも意味する。だ から、自由の一つの意味は、消費物質を受用することを減らして、自分に幸せを持っ能力があ ることを意味する。簡単に幸福になれる人間であり、物質に頼る生活をする必要はなく、楽を これは社会において奪い合い苦しめ合うことを減らす。 消費物資の受用に預けることもない。 同時に、自己開発すれば、自由な幸福を持っことと色々の創造活動をする能力が増え、自分 の生活を良くし、他人や社会を同時により多く助けることが出来る。 仏教のことわざを上げて、もう一度繰り返して注意を促そう。 「自己の依所は自己のみなり。他に如何なる依所あらんや。自己のよく調御せられたる時、人 は得がたき依所を獲得す」法句 この四基本は一つのものに繋がる。しかし、実践面では分けて適切に真の成果を上げるよう 使う。すべての基本を実践することで一つのものに統合される。 もう一度繰り返させてもらう。この四基本は仏教の大基本であるし、今の時代に適切だと思
範囲内で、それだけの行動を決意して行為をするだけである。もし、まったく知識がなければ、 行為を行おうとする決意は行き当たりばったりでだらだらして意味がない。多少知識があれば、 行動する決意をして多少実のある行為をする。多くの知識があれば、行動する決意のあとの行 為は複雑になり、非常に多くの結果をもたらす。 だから、知識が行為関係の重要な構成要素になる。それによってどこまでどのようにするか の意図を固める。そしてそれに従って行動し行為する。だから、知識の領域は生命の大きな領 域の一つであり、それが智慧 (Paöfiä) である。 もし、私たちが智慧を開発すれば、私たちは心と行為の両面で次元と範囲を広げられる。 自然に打ち勝ちたいという願望が西洋の文明を現在のように繁栄発展させたように、集団と して発展して文化、文明となった人間の行為は、心を引きつける力に従って、意図から生まれ る。この意図とは心に潜むものである。 しかし、意図は知識の条件内で生まれる。彼がどのような知識を持ち、どのように理解して いるか、そのような、それだけの信念、信仰、考えがあれば、その範囲内での行為をする意図 が生まれる。だから、行為関係における智慧の領域、すなわち、知識の領域は非常に広い 人間が生きていく過程の重要な特徴は、生命を維持して生き残り、幸せな善き生活をできる ように潜在力を開発することである。或は、さらに最勝の生き物へ、最高の仏陀になるまで開 発することである。 結局、この環境の下で動く過程である人間の生き方は、以下の三つの面に分けられる。 ( 一 ) 行為関係 -4
心の面の開発 求めたい徳性は多くある。例えば、慈悲、信、報恩、尊敬、精進、堅固、忍辱、念、定、歓 喜、上機嫌、明朗、楽などで、これを「増上心学」 (Adhicitta ・ sikkhä) と呼ぶ。しかし、時には 重要な軸になる徳性を代表として取り出して、心のすべての面の開発を短く易しく「定」 (Samädhi) と言う。 どうして軸になる徳性が定で、心のすべての面の開発に用いる代表なのだろうか ? 答えはこうである。この人間の心の開発に最も重要な一つの徳性がある。それを欠いたら他 の徳性は守ることが出来ず、心の開発もすることが出来ない。 私たちが多くのものを持っているときと同じである。それを片付けるか、それで仕事をする か、或は、それらを増やすか、或は、その他何であれ、必要なことの一つは、それを置くもの、 安定して受けるものが必要である。例えば、テープルの上に物を置くとすると、テープルには 安定が必要だ。揺れれば物は倒れるか落ちてしまう。それを使って仕事をすると不便だし、う 十 ( し、刀 / し 、よ、。物を置くテープル、或は、受けるものが安定して揺れなければ、それはそこに 存在し続け、それで何かをすることが出来る。或は、増殖する行動も出来る。 心も同様である。心の開発で軸になる徳性は、居場所を得た心の状態であり、それが他の徳 性を受入れ、増やすのを助け、智慧が良く働けるようにさせる。このような軸になる徳性を「定」 と言う。しつかりと根拠を持っ心である。つまり、心が欲するものに従い欲するものと共にあ ることである。心が定でなければ、それは欲するものと共にいない。或は、欲するところに従
、と述べている。 出来ると考える思想を持っていることを認めなくてはならない この西洋の自然克服の思想、見に対する反省、失望によって、彼らは西洋の思想、東洋の思 想、アメリカ・インディアンの思想さえ探し求めて調べ、解決方法を求めることになった。 現在、かって軽蔑されていたアメリカ・インディアンは逆に称賛されている。多くのアメリ カ人、例えば、ゴアはアメリカのシアトルの町名になっているアメリカ・インディアンの酋長 のシアトルを取り上げて言及している。それによると、フランクリン・ピアス大統領が、アメ リカ・インディアンの土地を買いたいと交渉した際に、この酋長は大統領に次のような回答書 を寄越したという。 「何たることを。この天と地を、貴下はいかにして売買なさろうとするや。まったくもって 奇怪なるお考えかな」 今や、現在のアメリカ人はアメリカ・インディアンが正しい思想を持っていたと逆に称賛し ている。 このことである。 ・「最も多くの消費に耽ることが、最も幸せである」という信仰に基づ いて、人間が物質的に豊になることを目指し、経済を繁栄させるために、科学の知識でテクノ ロジーの部品を作りエ業を開発するという自然克服の思想が、工業時代に極度に繁栄する現代 文明の背後にある。 この意業の思想、見、信仰が生活方法と社会を定める最も重要な影響力になる。もし、タイ 社会におけるタイ人が、自然界の上に力を振ることから成果が得られるという信仰を持つなら、 もし、タイ人がこのように信じるなら、タイ社会はどうなる。よく考えていただきたい。 9 6