構成要素 - みる会図書館


検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

仏教は、人間の生命は色々なものが集まって構成し、それらが関係し合いながら体系を作り 過程を作ると見る。そのことを理解してから実際に構成要素を見る。まず最初は構成要素を分 けてみる。最初の簡単な方法は、この自動車が何から出来ているかと、一台の自動車を分解す るのと同じである。人間について最も簡単な分解は、色法 ( Rüpa ・ dhamma ) と名法 (Näma-dhamma) 、つまり身と心の二通りに分けることである。 さらに細かく分けると、色法、身体は色々な要素が集まっている。四大種 (Mahäbhuta ・ rüpa) と二十四所造色 ( Upad pa ) があり、それぞれがさらに細分される。名法、心の方は、受 ( vedan 巴、 想 (Saöfiä) 、行 (Sankhä「 a) 、識 (Viööäna) があり、受は三受、五受、六受のように分けられる。 想は六想に分けられる。行は六思 (saöcetanä) とか五十二心所 (cetasika) 、また、識は六識、 八十九心、百二十一心などに分けられる。このように人間は色、受、想、行、識の五蘊の体系 の中で数多くに分けられている。 これが分類体系であり、人間の生命の自然の研究である。科学者が色法の構成要素を分類す るのと同じである。しかし、ここでは簡単に身体と心の二分類にした。多く分ければ煩雑で難 しくなるし、そのことはまた後日の話にする。 しかし、人間の生命はじっとはしていない。死んでいないし、生活をするというように、生 命は動き回る。生命のない自動車ですら動く。自動車の構成要素を分けて、それからそれが走 るのを、どのように働いているか、仕事をしているときの構成要素間の関係を調べて研究する。 私たちの生命についても同様である。構成要素に分けてから、それらがどのように働くのか 調べなければならない。 この二通りの作業は同じではない。まず第二の作業に入る前に、第一

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

の作業を行おう。 医学が私たちの身体で生命を研究するのと同じである。まず解剖学 (Anatomy) で、身体の 部分がどのような器官から構成され、どのような働きをするか研究する。それから生理学 (Physiology) で、色々な器官がどのように働いているか、どのように関係しているか、その 過程と体系を研究する。 法の面では、じっとしている構成要素を身体と心に分けることから始めて、それから多くの 構成要素がどのように関係してお互いに因縁になっているか、その過程を作る働きを分けて見 る。縁起の基本に構成要素をこのように分けているのが見られる。それは十二の構成要素に分 けられ、互いに因縁として循環する。 人間の潜在力を開発して智慧の生命を持たせるには 勉学の働きをする生命の自然を知らねばならない しかしながら、人間の生命の働き方は、自動車などの働きとは異なり特別である。自動車の ような各種物質は動いても生命はない。意図、或は、意志がない。動いてどこへ行くのも人が 運転し制御する。自動車のような物質のすべての構成要素と組織は最初の目的通りに動くだけ である。しかし、人間の働きの組織はそのような最初の回路の通りには回らない。人間には意 図や意志があり、智慧のような特別な資質があって、人間の行動を改良する。自分で行動体系 を改良、発展させる。

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

これが自然界の法則の真理である。それを仏陀は「三相」 (Tilakkhana) という出色の基本と して教えられた。それは、無常、苦、無我である。すべてのものは無常 (Aniccam) である、生 じては滅し変化する、元の状態を留まることはない。苦 (Dukkaham) は、葛藤のある状態であ る。もし、人が欲望をもって関係しても、望み通りにはならない。無我 (Anattä) は、誰の自 ということである。誰かが所有、支配できない。なぜなら、それはそのものの因 我でもない、 縁、或は、そのものあるがままの状態に従っているからである。 人が法の真理に覚知しないときには、 自然界の苦を自分の苦として作りだす この三相における苦を、私たちは痛みと見がちである。本当は、苦はすべてのものの自然の 状態、或は、自然界の状態なのだ。すなわち、すべてのものが元の状態に留まれない症状で、 英語ではストレス ( 緊張 ) とかコンフリクト ( 摩擦 ) と訳されているが、常に抑圧や軋轢が生 成し、消滅する様々な因縁、或は、構成要素によって変化が生まれる状態であり、苦はそれら の関係から生じる総合的な状態である。 すべてのものは色々な構成要素が集まって生まれる構成物であり、それぞれの構成要素が常 というのは、もしそれぞれ に生成、消滅し変化するとき、構成物はもとの状態に留まれない。 の構成要素が変化すると、軋轢が生じて内部の圧力となり状態は安定できないからである。 この状態を苦と言う。自然界 軋轢、反発、圧力がある状態は、これ等すべては安定しない。

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

( 三 ) 智慧 これが仏教の基本に従い生命の構成要素を分けるもう一つの方式である。私たちは人間を身 体と心に分けることだけにこだわっているが、それは知識、理解のための分類であって、それ をもって実践することは少ない。もし、私たちが仏教を実践の面で用いようとするならば、色々 の仕事、特に人間開発、社会開発においては、生き方の過程に分類するところまでに踏み込ま なくてはならない。すなわち、先に上げた三面、或は、三領域である。 ここまで来れば、すべて終わりである。先ほど触れたように、自動車の例では、停車してい るときどのような要素があるか、働いているとき、つまり、走っているときどのように仕事し ているか、二段階に分けた。しかし、人間の生命においては、私たちはそれを三つの部分、或 は、三段階に分ける。すなわち、 ( 一 ) じっとしている状況、状態で構成要素に分ける ( 色と名、身体と心、五蘊のように ) ( 一 l) 関係する循環体系の中で各部分の働きを分けてみる ( 縁起のように原因結果に分けてみ る ) ( 三 ) 生命をより善い完全な生活の目標まで動かすためには、三つの面の構成要素が一緒にな って働く。すなわち、外部との関係、心、智慧の三面、或は、三領域である。生き方の体系と 過程をその三つに分けて見ることが必要であろう。 基礎的な理解をしていただいたところで、人間の自然に付いては、この辺りで終わらせてい

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

第三章生き方のための法の原理 三面での生き方が 学習を助ける要素である 一切の自然界と、人間の自然界とを知ったとき、この自然界の真理についての理解を、自己 開発に役立てる。 仏教の核心はこの点にある。すなわち、自然界と自然界の法則の知識をもって、私たちの目 標、すなわち、人間の開発に応えることである。というのも、これまで述べたように人間は、 無明、渇愛、取に頼ることなく生きていけるまでに自己開発できるからである。 行動する生命の過程が三面、すなわち、行為 ( 行為関係 ) 、心、智慧とに分けられるとき、私 たちはこの生き方の三面を開発して、目標のためにあらゆることを遂行する。行為を開発し、 心を開発し、特に最も重要な智慧を開発することによって、生き方を完成する。智慧が最も重 要だ、というのは、結局、知る限りのことだけが出来ると言われるように、すべては智慧の範 囲内にあるからである。 しかし、逆に、行為と心の働きの助けがなければ、人間は智慧を開発できない。 この、人間の生きていく過程の三つの構成要素は、お互いに相互依存関係にある。智慧の開 発が最高位にあるとしても、行為と心の交渉なく、智慧だけを生むことは出来ない。智慧は心 9 4

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

このような特別の特徴を持つ人間の生命のすべての構成要素の働きは、易しく言えば、「生存 の体系、または、生命維持の体系」である。私たちは研究して、その色々な構成要素が何であ るか、それらの構成要素が存在し、成長し、発展し、外部のものと接触して善い結果を生むた めにどのように関係しているか見なければならない このすべての生存の体系、または、生命維持の体系である人間の生命は三つの部分に分けら れる。 ( 一 ) 眼、耳、鼻、舌、身、意によって外部の世界と接触関係して行動し、身、ロ、意を通し て色々と表現する。新しい時代の言葉を使えば、「行為」だが、それではあまりにも意味が狭い ので、一一語組み合わせて「行為関係」 (Utti-sambandha) という新語を作らせていただく。 ( 一 l) 外界との接触関係と表に出る行為の背後には、意図から始まる心の働きの過程がある。 というのは、人間のすべての接触関係と表に出る行為は思 (cetanä) から生まれる。つまり、 決意、意図がある。これ以外に心を引きつける力があり、どのように決意するかというもう一 段階を決定する。この引きつける力には悪善両面がある。例えば、愛する、怒る、知りたい、 惚れる、尊敬する、嫉妬するなどがある。それから心の中にはまた楽も苦もあって、それらも 行為を決定、或は、決意させるもので、例えば、幸せになりたければ心が動いて幸せになるた めの行為をする。苦しみを逃れたければ心が動いて苦しみから逃れるための行為をするのだ。 だから、接触関係と行為とは何となくは生じない。背で因縁が動かしている。つまり、心 の過程である。これが生命の働きの過程の二番目であり短く「心」と呼ぶ。 ( 三 ) 接触関係から行為に移すためには、人間は知識を持たねばならない。持っている知識の

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

( 一 ) 精進、努力で行い、完成させる。 ( 一 l) 学習し、修習し、自己開発し、生活と社会を最高の善に向けて前進する。 ( 三 ) 不放逸に、熱心に探求して、善を創造する。 ( 四 ) 自立して、自由を持てば、他人に幸せを分け与えることができ、他人の頼るところと なれる。 この四項目が十分であれば、タイ国は発展する。 仏法の心髄は解脱と自立 善友の社会で助け合いの生活 「仏法の心髄」についての講演を終わらせていただくが、これらのことを「心材喩大経」 ( Mahä「。 pama ・ s a ) では、仏陀はこれらの仏教の心髄 ( 芯材 ) を、樹木の各種の構成要素に譬え ながら、最勝の生き方について話されている。 利得恭敬 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら小枝、木の枝葉を得た者。 戒 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、木片を得た者。 定 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、樹皮を得た者。 慧 ( 智見《天眼》に達し ) 、それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、辺材を得た者。 , つからだ。

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

ある。自己学習、修習、開発、すなわち、三学のある生き方でなくてはならない。道と三学と は一つに結合する。四聖諦の面から見れば、聖道である。すなわち、最勝の生き方ということ 道であれば、集をすべて駆除しながら、目標に進み、無明、渇愛、取に頼ることを段々と少 なくし、その力に支配力されないようになる。同時に、智慧を増やし智慧による生活をする。 そうすれば苦も減少し、楽が次第に増える。そして最後には集が滅し、苦が滅する。完全な目 標の滅尽に達する。 学の開始点には生命が準備している道がある その使い方を知れば、開発が起こる 話はまだ終わらない。 分析していくと私たちが最高に求めている心の構成要素に、智慧がある。すでに述べたよう に、人間は心の中に意図を持ち、どのような行為をするかは智慧の範囲にある。智慧が真に問 題を解決するものである。 しかし、智慧はどのようにして生まれるか。私たちは智慧の開発の過程を知らなくてはなら このことを理解するには、人間の自然についてもう一度戻って話す必要がある。 人間はどのように学習するのか、同時に、人間は世間と環境とにどのように関係するのか。 人間自体について振り返ってみると、人間と環境の関係を媒介する道具として、二通りあるこ ヾ一」 0

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

範囲内で、それだけの行動を決意して行為をするだけである。もし、まったく知識がなければ、 行為を行おうとする決意は行き当たりばったりでだらだらして意味がない。多少知識があれば、 行動する決意をして多少実のある行為をする。多くの知識があれば、行動する決意のあとの行 為は複雑になり、非常に多くの結果をもたらす。 だから、知識が行為関係の重要な構成要素になる。それによってどこまでどのようにするか の意図を固める。そしてそれに従って行動し行為する。だから、知識の領域は生命の大きな領 域の一つであり、それが智慧 (Paöfiä) である。 もし、私たちが智慧を開発すれば、私たちは心と行為の両面で次元と範囲を広げられる。 自然に打ち勝ちたいという願望が西洋の文明を現在のように繁栄発展させたように、集団と して発展して文化、文明となった人間の行為は、心を引きつける力に従って、意図から生まれ る。この意図とは心に潜むものである。 しかし、意図は知識の条件内で生まれる。彼がどのような知識を持ち、どのように理解して いるか、そのような、それだけの信念、信仰、考えがあれば、その範囲内での行為をする意図 が生まれる。だから、行為関係における智慧の領域、すなわち、知識の領域は非常に広い 人間が生きていく過程の重要な特徴は、生命を維持して生き残り、幸せな善き生活をできる ように潜在力を開発することである。或は、さらに最勝の生き物へ、最高の仏陀になるまで開 発することである。 結局、この環境の下で動く過程である人間の生き方は、以下の三つの面に分けられる。 ( 一 ) 行為関係 -4

10. 自己開発 上座部佛教の心髄

を知る手がかりとして、中堅の学僧として多くの分野で指暠なを果たしているパイサーン師が、パ ュットー師の還暦記念論文集 ( 一九九九年 ) に寄稿した「プラタマピドック師とタイ国における仏教の発 展」という論文がある。以下、その論点のいくつかを紹介しておこう。 パイサーン師は一一十世紀に入って以来、タイ仏教の歴史にとって重要な発展は、ワチラヤーン殿下とプ ッタタート師とこのプラタマピドック師のお一一一方によってもたらされたとし、中でもプラタマピドック師 は「仏教の法の基本を包括的に取り出して、これまでになく地局の繊細さで体系化した」と高く評価して いる。ここで本書の内容に関連すると思われる内容について一「三界しながら、少し解説を加えておこ まず、パュットー師の仏教の法の基本は「真法」 ( ー訐 m ) と「道徳」 ( ョ ma ) からな る。「真法」とは、自然し自然の法則に関する数んであり、「道徳」は「真法」の知識に基づいてなすべき 実践である。これは正に文字通り、真理 ( ー ) の法 ( m ) と何 0 ) の法 ( D 訐 m ) であ る。師はこの「真法」と「 ~ 」の一一法が、等しく重要であるという立場である。すでに説明したように、 師の『仏では、すべての項目が、この一一法に分けられて、説明されている。 仏教はこの世で生活するための数んである「世間法」と、俗世間を越えた「出世間」の部分で構成され ている。従来の仏教はそのどちらかに重点が置かれていたが、師のではその両方を含んでいる。特に、 物質と環境 A 」心に深い関心が示されている。師は一一一学が生まれるには、社会的要素に依存しなければなら ないとし、特に「他者の声」と「善友」に関する法を教えた最初の人である、という。また、「正見」のた 142