ば、私たちは自分に奉仕するものを求めて心配したり、いらいらしたりすることはない。何か を創造する仕事をし、一直線に目指していける。 仏陀は知足だけを独立して、ぼんやりとは言っておられない。仕事をすることとその仕事に 精進することとを一緒に言われている。例えば、僧伽については、鉢と衣と臥座所について知 足を教えられて、不善を捨て、善を増やすことを喜び、善を増やすことに知足するなかれ、と 教えられている。 簡単に言えば、消費物資の受用に知足し、すべての善に知足するなかれ、ということである。 善法、善きこと、優れた善きことを創造することであれば、仏陀も知足するなかれと教えら れ、仏陀自ら知足されず、怯むことなく精進された。この基本は経蔵にも論蔵にもある。何に 知足し、何に知足してはならないかを知るべきである。 ( 一 ) 自分に奉仕させ、個人の楽を求めて受用する物質に知足し、 ( 二 ) 善法、善きこと、創造を行うものには知足しない。 知足と不知足は共存して行く。知足は不知足を支援し、私たちが三学で進むことを助け、 生命と社会の開発においてますます善き業を作らしめる。 これが判断の基準の例である。 タイ人が四つの基本を守れば、危機に陥ることはない 踏み外しても、直ちに発展へと戻ることが出来る
定の利用は注意が要る。使い方を知らなければ誤る。 タイ社会ではあるいは法を、過程を通じて学んでいないかもしれない。考えるに、基本がな 。少なからずのタイ人が定を用いて、ただ穏やかで気持ちのいい幸せだけを求めている。確 心を休めるか、或は、 かに、それも一つの段階として使える。仏陀も否定はしておられない。 苦の問題を解決する。少なくとも安らかに眠る。心がすっきりする。しかし、それだけの役で はなく、定はさらに前方へ向かって進んでいく堅固さを与えてくれることを見るべきだ。 そこで、前進するために、定から如何なる法が結果を受け取るかを、さらに見る必要がある。 三学の基本を見れば、結果を智慧に受け取らせて前進するとある。 定の重要な効果は、心を「適業」 (Kammaniya) にする、仕事に適した状態にするという点に ある。これは仕事をすることに使える。智慧がうまく働いてくれて、例えば、はっきり見える、 順次に調べる、深く調べる、詳細に分析して、真理がはっきりと見える、といったようなこと ができるようになる。 定が人間に学ぶことを止めさせれば、それは定の間違った使い方である。 定によって心に智慧が働き前進できる準備が完了するように 知足によって精進を目指す準備が完了し迷うことはない もう一つ例を上げると、知足 (santosa 、ちそく ) である。これは自ら消費する物質に満足す ることである。あるだけで喜ぶことだ。多くの人が知足すれば幸せであると言う。その通りで
今は心を引きつける欲求力に二通りあることを知るべきだ。 第一は、受用への欲求力、それは感覚と共にやってきて渇愛 ( 巴と呼ばれる。 第二は、学ぶこと ( 創造 ) ( の欲求力、それは知識と共にやってきて意欲 (Chanda) と呼ば れる。 渇愛 ( かつあい ) は感覚の求めるものである。好き嫌いなものに対して応える。何かが好き なら渇愛が生じてそれを受用したいと希望する。嫌いなら無有愛 (Vibhava-taphä) が生じて逃げ たくなる。避けたり、破壊したくなる。感覚に受用するのが好きな人間は渇愛と呼ばれる欲求 力でぐるぐる回っている。 しかし、私たちが学ぶために根を使えば、学習が生じる。知識を得れば、何が何かますます 知りたくなる。知りたいことへ応えられれば楽 ( 幸せ ) が生まれる。 知ることを求めること ( 応えることから、楽が発展する。今や知りたいという熱望に応える ことから楽が生まれる。 それ以上に、何が何であるか知ると、彼は、ああ、このことはあるべき当然の状態であるの か、と分析し始める。知り分析した智慧によって求めるものが生まれ、あるいは、求めるもの はもう一段前進する。すなわち、そのものを当然あるべき状態に置きたいと求めるということ で、そうなるのは学習の当然の結果である。私たちは知識によって分析したり分類したりでき る。このテープルが完全であるのを見れば満足する。不完全で欠陥があれば、それを完全にし たくなる。 知識が分析をすれば、新しい種類の要望が出てくる。それがあるべき当然の状態にしたいと
( 一 ) 精進、努力で行い、完成させる。 ( 一 l) 学習し、修習し、自己開発し、生活と社会を最高の善に向けて前進する。 ( 三 ) 不放逸に、熱心に探求して、善を創造する。 ( 四 ) 自立して、自由を持てば、他人に幸せを分け与えることができ、他人の頼るところと なれる。 この四項目が十分であれば、タイ国は発展する。 仏法の心髄は解脱と自立 善友の社会で助け合いの生活 「仏法の心髄」についての講演を終わらせていただくが、これらのことを「心材喩大経」 ( Mahä「。 pama ・ s a ) では、仏陀はこれらの仏教の心髄 ( 芯材 ) を、樹木の各種の構成要素に譬え ながら、最勝の生き方について話されている。 利得恭敬 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら小枝、木の枝葉を得た者。 戒 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、木片を得た者。 定 ( を得て ) それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、樹皮を得た者。 慧 ( 智見《天眼》に達し ) 、それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、辺材を得た者。 , つからだ。
もっと意味が深い。仏陀は身開発をどう行うか、その意味を説いておられる。身体は「五門」 で捉える。これは「五根」とも呼ばれ、眼、耳、鼻、舌、身で、外部の世界と接触する道の関 所である。現代の言葉を使えば、自然環境、或は、物質面との関係である。この物理的な環境 と、私たちは眼、耳、鼻、舌、身で関係している。 身体を開発するとは、これ等の門と外部との関係を開発して善くし、罪を起こさないように することである。根律儀 (lndriya samva 「 a) もこの基本に入る。また、外部の環境との関係を 開発して良くすることである。例えば、私たちの眼は外部の環境を見る。どのように子供たち がテレビを見ることができるか。役に立って罪にならないような善いものを選ぶことを知るよ うにする。眼との関係を知り耳との関係を知る。聞くときは善いことを選んで聞く。役に立っ 3 ことを求めて聞く。悪いことは聞かない。鼻を開発し舌を開発する。この舌も重要である。「於 食知量」 (Bho 」 anemattafifiutä、おしよくちりよう ) の基本に合わせて、食べる適量を知る。例 えば、この僧侶には「省察」の基本があるを、「資具省察」 (Paccaya paccavekkhana 、しぐしょ うさっ ) と言い、資具を考慮することである。つまり、四依 ( しえ ) を用いるとき、理に叶う ように顧慮する。この食事を摂るのは、美味しさを求めるのではなく、贅沢で面白楽しくやる のが目的ではなく、健康と幸せを求めて、生命を維持するためにであり、自分の義務を果たす のだという如理作意がある。食事を摂るときは美味しさを求めるのではなく、利用価値に重点 を置くから、何を食べても価値があり、健康を良くし、生活を善くしてくれる。病に悩まされ ることも少ない。 この食事から来る面が、舌と味の関係における開発である。これ以外に、身
を遍知するには、この生命 ( 名色、五蘊 ) (Näma 7 Khandha) を知り、この生命を見なければな らない ( 一 l) 何の病気であるか知り分ると、次に病気の原因を探らねばならない。集とは、駆逐す べき病原菌であるか、或は、異常に機能する治療すべき身体の不完全さのことである。病気を 治療するとき、病気の根源を治していないことがある。例えば、頭痛は、頭痛の原因を駆除し なくては、ただ症状を治しただけのこと、薬を多くして症状を抑えるだけのことである。頭痛 の原因を取り除かない限り、頭痛の病を治すことは出来ない。 だから第一項において、医者が病気を研究するように私たちは苦を学ぶ。それから、病気の 原因や器官の不完全さを探る。病原菌だけではない。 この病気は環境の影響を受けたために生 じたのかもしれない。或は、他の原因があるとすれば、それは器官の不完全さか、異常な働き か、色々な変化なのか、それを把握せねばならない。病気であれば、原因、或は、集があるは ずだ。 この集こそが改善、もしくは、駆逐すべきものである。そして、集に対する義務を断と言う。 ( 三 ) 次に、病気を治したら、私たちは何をするか、どこまでやるかという目標を持たねば ならない。私たちが求める目標は何か、これを決める。これを滅という。何を求めているか、 どのように治療するかを知る。何を求めるか、どのようになるか明確でない人間は、何をやっ ても完成しない 医者はどのような状況になるか治療の目標を設定する。私たちは何を治療の目標とするか。
いうこと。簡潔に言えば、それに対して善くあって欲しいということである。もし、それがま だ善くなければ、善くあって欲しいと望む、それから善くしたいという望みに進む。そして、 それを善くするために、善くする行為にまで進む。その時善くしたいという行為が生まれる。 そして善く出来たとき、楽が生まれる。というのは、楽は要求に応じることから生まれるも のだからだ。新しい要求を開発できれば、楽も開発できる。 もし、私たちが要求を開発できなければ、私たちの楽は耽ることに限定される。すなわち、 好きなことを求め、嫌いなことを求めず、渇愛と共に回転する。 知識を開発すれば、学習、勉学的な処を使い、新しい要求として知識欲が生まれる。知りた い要求に応えるために知識を求めるときは、学習の楽しさが生まれる。 それを善くしたい、善くなって欲しい、そうした要求に応えることから、善くする楽が生ま れる。行為が楽に変わる。 だから、人間は学習と共に進歩する。行為を開発し、心を開発し、智慧を開発し、それによ って楽を開発することと共に自己の生命を開発する。 ここは、重要な点である。幸せを開発する、それは、知を望み、善を望み、善くすることを 望むという新しい要求に応えることである。あるいは、僧伽の言う、知りたい、善くしたいと いう意欲 (Chanda) は、新しい種類の欲求である。学習がなければ、この種の欲求はない。 だから、仏教は渇愛を減らし、渇愛を少なくするように努力することを教える。すなわち、 それに依存することを少なくすると共に、意欲を開発し、より多く使うことを教えるのである。 しかし、私たちは一面だけでものを言い勝ちである。渇愛を減らせと。しかし、これは要求、
あるが、間違いでもある。誰かが楽のための知足と答えれば、確実に間違いである。仏教はそ のようには教えていない、それだけのこととは教えていない。楽は知足の副産物である。知足 すればたちまちにして楽が得られる。自然にやってくる副産物だ。しかし、目的ではない。求 める結果はここにはない。知足から求める結果は何か。 知足すれば前進し、三学において前進を助けてくれる何が得られるか。 物質に知足すれば、その人は手にした、或は、手にした物質で楽が得られる。少ない物資で 簡単に満足する。 これだけの物資で楽が得られるが、逆に知足しないときには、少しも楽が得られない。私た ちの楽はまだ得られない物資にある。だから私たちはいらいらして受用する物資を探し求める。 自分たちに奉仕するために受用するものを求めることに私たちの時間を使ってしまう。労力も すべてこれに使う。受用するものを求めて、どうしたらあれやこれを得られるかと、心も考え も千々に乱れる。 知足しなければ時間を失う。労力を無駄にする。創造に用いることの出来る思考を無駄にする。 だから、仏陀は物質で簡単に幸せになれるように知足を与えられた。物質で簡単に楽を得ら れれば、私たちはじっとしていることはない。仕事や役目はすでにある。今は時間、労力、思 考を蓄えることが出来る。それらを仕事、役目につぎ込むことが出来る。仕事、役目は善く前 進する。 要約すれば、準備のための知足である。知足は準備段階の法である。前進する準備である。 法には準備をする段階と前進する段階とがある。知足は準備の種類の法である。準備が出来れ
情報を受け取ることは、学習の面と言い 感情を受け取ることは、受用 ( じゅゅう ) の面と言う。 このように処は二通りの働きがある。 人間の生活の中で、人間を開発しようとすれば、人間は知り学ぶために根を使う。開発しな い人間は根の大部分を感覚の受用のために使う。ほとんど学ぶことには使わない人もいる。た だ好きなこと嫌いなこと、耳に触れ、眼に触れ、美しい、面白いことなどを求める。 人間が自分の生命をどのように開発するかしないか、世、或は、社会をどうするか、決意す る重要な鍵は、この根をどう使うかにかかっている。開発しない人間は、感覚に耽るために根 を使う。快適か快適でないか、苦か楽か、好き嫌いか、そしてぐるぐると回る。彼らの苦、楽 は好きか嫌いかにある。好きなものに出会えば楽であり、嫌いなものに出会えば苦である。そ して、嫌いなものから逃げ、好きなものだけを求め、そこだけで回っている。 根を知りたいことに応えるために使うと、眼や耳などを学習に使う。開発を進めて智慧が生 まれ、何が何か知ることが出来る。それから、別れ道に来る。感覚の受用のために根を使う人 は、彼の楽しさは好きなものに限られる。しかし、学ぶために使う人には、楽を開発して範囲 を広げ、同時に欲求力が新たに生まれる。 学習を始めると、たちまち開発が始まる 新しい欲求もあり、新しい楽もある
希求する。 それはともかくとして、ちょっと付け加えさせていただくと、目標を目指す心を持っという ことと、何を眼にしても勉強という、この二つの特徴は二つが揃うことが肝要である。二つが 揃わなければ、悪い結果がもたらされる。とくに目標を目指す心という第一項は、その項だけ だと悪い結果となるだろう。目標を目指す心の持ち主は何かを見れば、それをやってやろうと 執拗になってやり遂げようとする。誰の意見も聞こうとしない。それから、次に自分の成功だ けを目指す。誰のことも考えない、 = 一ⅱがどうなろうと知ったことか。私は自分のことを成功さ せ目標を達成させる。誰がどうなろうとも、私には関係ない、となる。もっと悪いことには迷 3 惑を掛けて罪を犯すかもしれない。自分の成果を得たいので成功させたい。私はその成果のた めに悪いこと、罪になることをやって、他人に損害を当てるかもしれない。或は、誰かに迷惑 を掛けるかもしれない。 どうか私の目標を成功させてください、となる。 だから、目標を目指すことだけは、不十分である。第二項目によって制御する必要がある。 先ほど述べた、何を眼にしても学習ということは、自分だけ満足するということと逆のやり方 でもって、目標を目指して実行するのである。というのは、目標を目指すのにも他人の言葉を 聞き、知識を求め、自己改良に重点を置くから、大事な資質が新たに二つ生まれる。つまり、 法を求め、法を愛する「法欲」 (Dhamma ・ kämatä、または、 Dhamma ・ chanda) と素直に言うこ とを聞く「従順性」 (sovacassatä) とを身に付けると同時に、自らを呵責し、自らを点検する