するために、仏陀は実践の細目を作られた。その種類は数多くある。仏教で述べられている多 くの実践項目と徳性のことである。 三学によって生き方を開発するとき、生き方は聖道 (Ariya ・ magga) となる なぜなら善き生き方とは学ぶ生き方であるからだ 生きることはずっと継続しなくてはならない。生きていくことは行動して新しい経験、新し い状況に出会うことである。それらは知り理解し、実行し、何らかの処理をしなければならな このすべて 。或は、問題を解決してやりぬくか、成功する方策を見つけなければならない を短く「学または勉学」 (Sikkhä) と言う。 だから、生きるからには、常に学び、勉学をしなければならない。簡単に一一一一口えば、生きるこ とは、勉学することである。善く生きることは修習し自己開発する生活のことである。換言す れば、善く生きることは自己の中に勉学のある生活だということである。 西洋人が生きることは闘争なりとか、生きることは幻なりと言ったとか、かって聞いたこと がある。しかし、仏教の基本で言えば、「生きることは学ぶこと」であると言える。英語で言え ば、 ()o live is to learn) だろうか この基本は、「学」と呼ばれる人間の開発、或は、人間の学習、修習、開発と、「道」と呼ば れる人間の善なる生き方とを一つにする。すなわち、自己の生き方を学び開発する種類の生き 方をすれば、それが善き生き方となるのである。
第三章生き方のための法の原理 三面での生き方が 学習を助ける要素である 一切の自然界と、人間の自然界とを知ったとき、この自然界の真理についての理解を、自己 開発に役立てる。 仏教の核心はこの点にある。すなわち、自然界と自然界の法則の知識をもって、私たちの目 標、すなわち、人間の開発に応えることである。というのも、これまで述べたように人間は、 無明、渇愛、取に頼ることなく生きていけるまでに自己開発できるからである。 行動する生命の過程が三面、すなわち、行為 ( 行為関係 ) 、心、智慧とに分けられるとき、私 たちはこの生き方の三面を開発して、目標のためにあらゆることを遂行する。行為を開発し、 心を開発し、特に最も重要な智慧を開発することによって、生き方を完成する。智慧が最も重 要だ、というのは、結局、知る限りのことだけが出来ると言われるように、すべては智慧の範 囲内にあるからである。 しかし、逆に、行為と心の働きの助けがなければ、人間は智慧を開発できない。 この、人間の生きていく過程の三つの構成要素は、お互いに相互依存関係にある。智慧の開 発が最高位にあるとしても、行為と心の交渉なく、智慧だけを生むことは出来ない。智慧は心 9 4
範囲内で、それだけの行動を決意して行為をするだけである。もし、まったく知識がなければ、 行為を行おうとする決意は行き当たりばったりでだらだらして意味がない。多少知識があれば、 行動する決意をして多少実のある行為をする。多くの知識があれば、行動する決意のあとの行 為は複雑になり、非常に多くの結果をもたらす。 だから、知識が行為関係の重要な構成要素になる。それによってどこまでどのようにするか の意図を固める。そしてそれに従って行動し行為する。だから、知識の領域は生命の大きな領 域の一つであり、それが智慧 (Paöfiä) である。 もし、私たちが智慧を開発すれば、私たちは心と行為の両面で次元と範囲を広げられる。 自然に打ち勝ちたいという願望が西洋の文明を現在のように繁栄発展させたように、集団と して発展して文化、文明となった人間の行為は、心を引きつける力に従って、意図から生まれ る。この意図とは心に潜むものである。 しかし、意図は知識の条件内で生まれる。彼がどのような知識を持ち、どのように理解して いるか、そのような、それだけの信念、信仰、考えがあれば、その範囲内での行為をする意図 が生まれる。だから、行為関係における智慧の領域、すなわち、知識の領域は非常に広い 人間が生きていく過程の重要な特徴は、生命を維持して生き残り、幸せな善き生活をできる ように潜在力を開発することである。或は、さらに最勝の生き物へ、最高の仏陀になるまで開 発することである。 結局、この環境の下で動く過程である人間の生き方は、以下の三つの面に分けられる。 ( 一 ) 行為関係 -4
戒、定、慧は、すなわち、行為、心、智慧を開発すること、すなわち、すでに述べた三面で 学ぶことである。実践面に拡大すれば、それは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正 念、正定の八正道 (Attafigika ・ magga) のことである。 同様に八正道も要約すれば、三つの項目、戒、定、慧になる。 だから、三学の戒、定、慧の三種と道の八項目は一致する。 「戒の面」は、正語 (sammä-väcä) 、正業 (sammä-kammanta) 、正命 (sammä-äjjiva) に広げ られる。これは一般の行動、接触関係、生活において身と口を正しく善く使うことである。 「心の面」は、広範囲にわたる。しかし、重要なのは三つである。正精進 (sammä-väyäma) と 呼ばれる努力。待ち受けて仕事することを定め、ぼんやりして失敗しないように注意する正念 (sammä-sati) と呼ばれるもの、心を集中して静かに安定して過ごす正定 (sammä-samädhi) と呼ばれるものである。 「慧の面」は、二つに分けられる。正しい見方と正しい理解を意味する正見 (sammä-ditthi) 、 正しく考える、正しい方向に生き方を持っていく正思惟 (sammä-sapkappa) である。 正し考え方をして、これに意図と精進と、命じる念などが応じて、知り理解する過程から始 め、学習して生活し、色々な経験と状況とに対して正しく実践して善い結果を生む。三学が道 と結合するのである。 「三学」は、すなわち、正しく善い生き方をするように人間を開発し、 Magga ( マッカ ) のあ る生き方をする。 Magga は道という意味である。生きる道である。人間の正しく善い生き方で
るこの点が仏教の基本だと見なされている。 人間における特別な自然界は、訓練、或は、修習 ( しゅうじゅ ) できる生き物だということ である。この点が非常に重要である。新時代の用語で言えば、「開発できる生き物」ということ だ。一ヶ所に沈み込まないで質的に変化できる。あるいは、特別な生き物であると一一一一口える。特 別というのは、他の生き物と異なるということである。人間という生き物は他の生き物とは変 わっている。どのように変わり、どのように特別なのか。他の生き物は訓練できないか、或は、 ほとんど訓練できない生き物であるのに、人間は訓練 ( 修習 ) ができるという面である。 「訓練」 ( 修習 ) という言葉は、新時代の用語を使えば、学習と開発、真に基本的な用語とし ては、勉学、または、学、合わせて使えば、学習、修習、開発、或は、学習、修習、勉学、開 発であろうか 簡単に一一一一口えば、人間は修習できる生き物であり、修習せねばならない。他の生き物はほとん ど訓練する必要はない。なぜなら、それらは本能で生きている。生まれるやいなやすぐに両親 からちょっとだけ学習する。すぐに生きていける。子牛は生まれて、二、三分もすると立ち上 がって歩けて、母牛と行く。ガチョウは早朝に卵を産み、朝の少し遅い時間には母ガチョウを 追って走り、池に飛び込む。走ることも泳ぐことも出来る。親鳥に付いて行き、餌を探すが、 本能によって生きている。餌を食べるなどの学習はわずかだ。それ以後は修習も、学習も出来 ない。だから、それらは生きている間、本能に頼り、生まれたままの状態で死んで行く。 しかし、人間は修習し、学習しなければならない。それをしなければ、生きていけない。、 い生活ができるかどうか一一一〕うまでもない。生存も出来ない。だから、人間は十年以上も両親や
しなければ、真の仏教を理解する日はない。 仏教の真の姿が見られるように努力して話した。すなわち自然界の真理を深く理解すること である。そして自然界の真理の知識を用いて人間の生命の開発に役立て、善き生命にし、平和 な社会を作ることである。 人間は最初、生まれ落ちると同時に生きていく道具である根を持つ。それは環境、外部の世 界と交渉するのに用いる。その時に、正しい生き方と過った生き方の選択が直ちに始まる。 これまで話してきたことを要約すると、学習と受用の両方の領域である六処、或は、六根を 通じて世間と交渉する道を、私たちは人間の開発においては、学習のためにより多く使い、知 を望み、善を望み、善くするように望みながら用いるべきである。つまり、学習を望み、創造 を望むことである、知を望むことは学習、善を望み、善くすることを望むは、創造を望むこと である。 人間の開発は意業 (Mano-kamma) に大きな場所 この重要点を間違えば、大きな道は破滅する 卩 (Dvä「 a) 、或は、道というものがあると言った。身、ロ、 人間が行為を行うにあたって、日 意を通じて行為することである。 智慧が生じ、善き欲求が生じると、私たちは私たちの行為を三面で開発して善くする。 意業 : 私たちの考えが善くなる
取から離れて、自由になる、つまり、滅に到達する。 しかし、このように無明、渇愛、取がなくなるまで智慧を持つには、人間は自己開発をしな ければならない。それがすなわち道である。 道とは、無明、渇愛、取にではなく智慧に依存して生きていくことができるまで、智慧を持 っことができるよう人間開発をする過程のことである。 ここに至れば、四聖諦の話は終わる。 だから、仏教は自然界と、人間が自然界と関わることを教える。それだけである。もう一度 話せば、 ( 一 ) 自然界の真理、または、自然界の法則。 (ll) その真理を理解すること。そして役立たせること。ただし、私たちの生命に真に問題が ないように、自己の生命に役立たせること。 換言すれば、仏教が教えることは以下のことだけである。 ( 一 ) 自然界の真理、または、自然界の法則。それを学習して正しく実行して利用しなければ ならない ( 一 l) 人間はこの真理を学習し理解する。そしてその知識を利用する。私たちは人間の自然を 学ばなければならない 人間の自然は善の面で特別である すなわち、人間は学んで智慧を持っことの出来る生き物である
智慧が心に道を告げる これまで述べたように、智慧が道を示し、命じ、改良改善し、範囲を広げ、心を自由に解放 する。例えば、何かに出会い、その訳が分らなければ、たちまち障害が起こり行き詰る。何も 正しく出来ない。苦が生じて問題となる。だが、智慧が働いて、あれは何であり、どうなって いるのか、それに対して何をすればいいのか、それをどう使えばいいのかなどを知れば、ほっ として気分が善くなり、問題はなくなる。締め付けも障害も疑念もなくなる、心も晴れる。だ から、智慧は心を自由にする。楽しくほっとなって、問題を解決できる。智慧は心の解放者と 言える。 だから、三面、行為、心、智慧は相互依存して、人間の生き方の過程の体系における三面と して動いていく。人間はこの三種を同時に開発しなければならない。 生き方における三面の関係の基本の上に 三学の基礎を置き、総合的に人間を開発する 行為、心、智慧という三面の関係を理解したら、次にはその基本を生き方の開発に用いる。 それを三学と言い、戒、定、慧から成り立つ。 決意して修習し、理解して行為を善く開発し、善なる行為を助け起こして身に付ける。これ を戒という。 一般に修習して戒を身に付けるのに私たちは律 (Vinaya) を用いる。というのは、律が形を
欲するものといることが出来ない。たとえば、書物と共にいない。仕事と共にいない。す ぐにどこかへ行ってしまう。 この定こそが、心の開発の過程の代表である。だから、心のすべての面の徳性の開発の代わ りに定という言葉を使うのである。これは代表方式の呼び方であるが、この代表は軸でもある。 智慧の開発 省略せずに言うと「増上慧学」 (Adhipafiöä-sikkhä' ぞうじようえがく ) だが、ただ「慧」と だけ言うのが好まれている。知識、理解を開発する過程である。 つまり、人間の開発は三面、或は、三領域があり、それらは総合的に相互に助け合いながら 進むということだ。 人間の修習は様々な学習から始まる。これをパーリ語は三学 (Sikkhä) と言っている。だか ら、これまで話した三面の修習は、三学の三面である。。、 ーリ語では三は ti であり、サンスク リットは T 「 a 一である。ここでは、三は T 「 a 一を用いて、「三学」は T 「 a 〒 s 一 kkhäと言う。 三学は前述のように、戒、定、慧であるが、これは人間の生命を完全にするための行為、心、 慧の開発過程である。完全な生命とは、すなわち、明 ( みよう ) のある人間の状態、智慧のあ る生き方のことである。これは、無明、渇愛、取に頼らない生き方で、この先、これらに支配 されることはない。つまり、集を追い払って苦を脱し、目標の滅を達する生き方であって、道 を完全に実践するから、四聖諦はすべて揃うと言えよう。 三学、すなわち、行為、心、智慧を開発する内容は詳細を極めている。そこで実践を容易に
藐三仏陀も、業論者、業果論者であり精進論者である」 ( 増支部 ) ( 一 l) 自己学習、開発の基本 自己の修習のみならず、生命と社会とをより善くする様々の善をなすことで今後前進してい くという意識により自己学習、開発することを義務とする。これを三学の基本と言う。 人間は修習する最勝の生き物であると、最初に言った人間の自然の基本に従えば、善に前進 することで、その完全に優れた点を、生命は前進するために三学で開発しなければならない 生命は善くし、学習し、修習し、学び、開発し、立ち止まってはならない。仏語を一つ上げて 警告する。 「それゆえに、この世の人々は学ぶべし ( 三学の基本に従い ) 。何事であれ、世で善にあらず 悪と知ることはなすなかれ。そのことを知る故に、 ( 善をなすに ) 諸の賢人は命は短少 ( A a ョ 当 ( a ョ ) なりと言う・ 同時に、仏教のことわざを一つ。 「自己を調御せる人は、人中の最勝者なり」 ( 法句 ) ( 三 ) 不放逸の基本 何事かを精進して行い 、自己開発をする際には、不放逸にすべきである。時間と変化の重要 性を見て、気付くべきである。生きている今、私たちの身の回りのすべてのものは、間違いな