行為 - みる会図書館


検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

範囲内で、それだけの行動を決意して行為をするだけである。もし、まったく知識がなければ、 行為を行おうとする決意は行き当たりばったりでだらだらして意味がない。多少知識があれば、 行動する決意をして多少実のある行為をする。多くの知識があれば、行動する決意のあとの行 為は複雑になり、非常に多くの結果をもたらす。 だから、知識が行為関係の重要な構成要素になる。それによってどこまでどのようにするか の意図を固める。そしてそれに従って行動し行為する。だから、知識の領域は生命の大きな領 域の一つであり、それが智慧 (Paöfiä) である。 もし、私たちが智慧を開発すれば、私たちは心と行為の両面で次元と範囲を広げられる。 自然に打ち勝ちたいという願望が西洋の文明を現在のように繁栄発展させたように、集団と して発展して文化、文明となった人間の行為は、心を引きつける力に従って、意図から生まれ る。この意図とは心に潜むものである。 しかし、意図は知識の条件内で生まれる。彼がどのような知識を持ち、どのように理解して いるか、そのような、それだけの信念、信仰、考えがあれば、その範囲内での行為をする意図 が生まれる。だから、行為関係における智慧の領域、すなわち、知識の領域は非常に広い 人間が生きていく過程の重要な特徴は、生命を維持して生き残り、幸せな善き生活をできる ように潜在力を開発することである。或は、さらに最勝の生き物へ、最高の仏陀になるまで開 発することである。 結局、この環境の下で動く過程である人間の生き方は、以下の三つの面に分けられる。 ( 一 ) 行為関係 -4

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

心は行為の基礎 私たち人間の行動と行為は決意から生まれると話したが、私たちは心を引きつける力で成り 立つ意志を持たなくてはならない。もし、私たちが心を引きつける力と善き決意を持てば、出 てくる行為も善い 心も行為に依存する というのは、行為は心の求めるものに応える道具である。心が、あれが欲しい、これが欲し 見たい、聞きたい、或は、嫌いなものから逃げたい、壊したい、あのことやこのものから 離れて遠くに行きたいというとき、依存するのは行為である。すべて行為で完成せねばならな 智慧が案内役である。道を示し、明かりを点し、命じ制御し、管理し、改善改良し、範囲を 広げ開発し、行為と心を解き放って自由を与える。 智慧が行為を導く 制御し、命令し、範囲を広げ、行為を解き放つ。行為は何をどこまでするか。智慧が知る限 りのことである。もし知識がなければ、障害が起こって行き詰まる。もし、理解があれば、行 為は前方へ進むことが出来る。より知り、より理解していればいるほど、より広く深くものが 見える。行為もより広く複雑になり、多くの成果が得られる。

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

以下の四つの法の基本は仏陀がたえず繰り返された仏教の基礎的な大基本であるが、普通は それぞれ別々に語られる。というのは、意味は繋がっているし、包含しているからである。こ こでは一度に取り上げて繰り返す。直ちに実践できる心髄であり現在のタイ社会に適切だと思 うので、時間の許す限り述べて、終わりにする。 これらの大基本は現在の、特にタイ社会の危機を解決し、将来の国家を創造するために用い るべきである。タイ人は今後この四種の大基本を守るべきだ。 ( 一 ) 行為の基本 努力と精進によって行うことを目指す。特に自己の精進。この基本は、業と精進の基本と呼 ぶ。 仏陀は、私たちは業論者、精進論者であると言われる。仏陀は一つだけでは言われないで、 業論者 (Kamma ・ vädi) であり精進論者である ( v ゴ ya ・島 ) と対で言われる。「私たちは行為の 基本を一言う者であり、精進を言う者である」人間は精進しなければならない、精進がなければ 行為に進歩はない 仏教は業と精進の宗教である。自己のカでなす行為から成果を期待する。霊験を懇願、寝て 待っこと、思いがけない幸運、近道の富裕、不正、運試し、博打などからの成果は期待しない。 要約すれば、精進をもって行為を行う基本を堅持する。 仏語を上げておく。 「比丘たちょ。過去世と未来世の三藐三仏陀仏のことごとくが、また、現在のわれ、阿羅漢、三

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

決めるからである。律は体系を確立し、人間社会の秩序を定める。もし、秩序の体系がなけれ ば、人間の行為は非常に混乱する。そこで私たちは律で行為の体系を定める。人間の行為が定 められた律に従うとき、これを戒と呼ぶ。 現今、律と戒という言葉が錯綜して、時には同じように用いられるが、本来はまったく別の こととして分けられている。「律」は規則の体系を定めると同時に行為を定める規則を置き、ど のように行為を定めるか文書にする。そして、律を守る人間の徳性を戒と呼ぶ。これだけであ る。 律は外にある。律は人間に正しく適切な行為をさせる道具である。文書にしたり、規則にし たり、修習を定めた規則にしたり、統治、すなわち、定められた規則によって人間に実行させ るよう監督することまでする。人がそれに従って実行し、規則がその人間にとって徳性となれ ば、その律に従って行うことを私たちは戒と呼ぶ。だから、現在使われている「律がある」と いう言葉は戒のことである。 これについてはまだまだ説明が必要だが、時間が限られているので先に進む。大雑把に言え ば、行為を訓練して外部の人間と助け合うような善い方向で接触関係し、その人自身に徳性が 備わることを短く「戒」と呼ぶ。望ましい行為と交渉関係があることを「増上戒学」 (Adhisila- sikkhä、ぞうじようかいがく ) と呼ぶ。戒は行為と人間の外部、または、環境との接触関係の 修習過程である。

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

このような特別の特徴を持つ人間の生命のすべての構成要素の働きは、易しく言えば、「生存 の体系、または、生命維持の体系」である。私たちは研究して、その色々な構成要素が何であ るか、それらの構成要素が存在し、成長し、発展し、外部のものと接触して善い結果を生むた めにどのように関係しているか見なければならない このすべての生存の体系、または、生命維持の体系である人間の生命は三つの部分に分けら れる。 ( 一 ) 眼、耳、鼻、舌、身、意によって外部の世界と接触関係して行動し、身、ロ、意を通し て色々と表現する。新しい時代の言葉を使えば、「行為」だが、それではあまりにも意味が狭い ので、一一語組み合わせて「行為関係」 (Utti-sambandha) という新語を作らせていただく。 ( 一 l) 外界との接触関係と表に出る行為の背後には、意図から始まる心の働きの過程がある。 というのは、人間のすべての接触関係と表に出る行為は思 (cetanä) から生まれる。つまり、 決意、意図がある。これ以外に心を引きつける力があり、どのように決意するかというもう一 段階を決定する。この引きつける力には悪善両面がある。例えば、愛する、怒る、知りたい、 惚れる、尊敬する、嫉妬するなどがある。それから心の中にはまた楽も苦もあって、それらも 行為を決定、或は、決意させるもので、例えば、幸せになりたければ心が動いて幸せになるた めの行為をする。苦しみを逃れたければ心が動いて苦しみから逃れるための行為をするのだ。 だから、接触関係と行為とは何となくは生じない。背で因縁が動かしている。つまり、心 の過程である。これが生命の働きの過程の二番目であり短く「心」と呼ぶ。 ( 三 ) 接触関係から行為に移すためには、人間は知識を持たねばならない。持っている知識の

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

とを知る。 ( 一 ) 人間は環境と六根 ( ろっこん ) または六処 ( ろくしょ ) と呼ばれるもので関係している。 すなわち、眼 ( げん ) 、耳 ( に ) 、鼻 ( び ) 、舌 ( ぜっ ) 、身 ( しん ) 、意 ( い ) である。これらの 根 (lndriya 、こん ) は認識と言われる色々の知識、情報が入ってくる道、あるいは、門である。 だから、これらのすべての根は六門と呼ばれる。門 ( D 「 a 、もん ) 、または、道の意味である。 処 (Äyatana) と呼ばれるのは、私たちの生命と世の間にある処 ( 領域 ) だからである。根と 呼ばれるのは、眼は見ることの根であり、耳は聞くことの根である、といったように、それが 自分の役割において大いに力を発揮して働くからである。「訳者注二」そして扉という意味での 、あるいは、生命と世との間を繋ぐ道は、眼、耳、鼻、舌、身、意の六種類あって、色々の 情報が生命の中に入ってきて関係する道である。 ( 一 l) 私たちは外部の世界と、扉、或は、身 (käya) 、ロ (vaci) 、意 (Mano) の三門を通じて 接触し関係し、それを行為で示す。私たちは外部の世界のあれを掴んだり、これを掴んだり、 身の行動によって関係する。外部の世界とロ、つまり、言葉で意志伝達の関係をする。意でそ れにどうするかなど意図する。 要約すれば、世の中すべての環境と関係するのに、二セットの道、門がある。 ( 一 ) 知ることの六つの門、或は道、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意 ( 一 l) 行うことの三つの門、或は道、すなわち、身 ( しん ) 、ロ ( く ) 、意 ( この行為の世界、或は、環境との関係は、業 (Kamma) と呼ばれる。業には、身体による行 為の身業 (Käya ・ kamma) 、言葉による業のロ業 (Vaci ・ kamma) 、心による業の意業 ( Mano-kamma )

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

第三章生き方のための法の原理 三面での生き方が 学習を助ける要素である 一切の自然界と、人間の自然界とを知ったとき、この自然界の真理についての理解を、自己 開発に役立てる。 仏教の核心はこの点にある。すなわち、自然界と自然界の法則の知識をもって、私たちの目 標、すなわち、人間の開発に応えることである。というのも、これまで述べたように人間は、 無明、渇愛、取に頼ることなく生きていけるまでに自己開発できるからである。 行動する生命の過程が三面、すなわち、行為 ( 行為関係 ) 、心、智慧とに分けられるとき、私 たちはこの生き方の三面を開発して、目標のためにあらゆることを遂行する。行為を開発し、 心を開発し、特に最も重要な智慧を開発することによって、生き方を完成する。智慧が最も重 要だ、というのは、結局、知る限りのことだけが出来ると言われるように、すべては智慧の範 囲内にあるからである。 しかし、逆に、行為と心の働きの助けがなければ、人間は智慧を開発できない。 この、人間の生きていく過程の三つの構成要素は、お互いに相互依存関係にある。智慧の開 発が最高位にあるとしても、行為と心の交渉なく、智慧だけを生むことは出来ない。智慧は心 9 4

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

に依存すると同時に、行為と根関係 (lndriya ・ sambandha) に依存する。 智慧は行為関係に依存する ( 根関係と行為 ) 簡単な例を上げると、私たちは知識を得るために、眼、耳、鼻、舌、身に頼らなければなら ない。外部から知識を導入する。情報を求めて歩くなどの行動をする。手を使って取り上げ、 掴み、調べ、分類し、選び、保存する。質問することを知り、相談することを知り、話すこと を知るなど、言葉を使わなくてはならない。すべては、質問することから始まる。設問を知ら なければ、質問できない。相手と話しても訳が分らない。相手も何を聞いていいか分らない 善くない言葉で質問すれば、相手は嫌う。協力もしないし、答えたくもないだろう。だから、 はっきりと質問をし、聞きやすく話し、きちんとした言葉遣いをして話す行為を開発しなけれ ばならない。友好関係を生み、相手に誉められるような、よい結果をもたらす人間関係、喜ん で協力してくれるような行為を開発せねばならない。 それと同時にもう一面では、智慧は心に依存する。例えば、、いは怯まず耐え、努力し、しつ かりと安定し、念、定がなければならない。もし、心が怠惰で、挫け、怖れ、闘うことをしな ければ、問題に遭遇したときに人は退却する。考えも進歩しない。智慧も開発できない。しか し、心が闘い、怯まず、前進するのであれば、智慧を開発することが出来る。もし、定がなく、 心が浮ついていれば、何を考えても錯綜してはっきりしないから、心に定を持たねばならない。 このように心の状態は智慧の開発を助ける。

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

しなければ、真の仏教を理解する日はない。 仏教の真の姿が見られるように努力して話した。すなわち自然界の真理を深く理解すること である。そして自然界の真理の知識を用いて人間の生命の開発に役立て、善き生命にし、平和 な社会を作ることである。 人間は最初、生まれ落ちると同時に生きていく道具である根を持つ。それは環境、外部の世 界と交渉するのに用いる。その時に、正しい生き方と過った生き方の選択が直ちに始まる。 これまで話してきたことを要約すると、学習と受用の両方の領域である六処、或は、六根を 通じて世間と交渉する道を、私たちは人間の開発においては、学習のためにより多く使い、知 を望み、善を望み、善くするように望みながら用いるべきである。つまり、学習を望み、創造 を望むことである、知を望むことは学習、善を望み、善くすることを望むは、創造を望むこと である。 人間の開発は意業 (Mano-kamma) に大きな場所 この重要点を間違えば、大きな道は破滅する 卩 (Dvä「 a) 、或は、道というものがあると言った。身、ロ、 人間が行為を行うにあたって、日 意を通じて行為することである。 智慧が生じ、善き欲求が生じると、私たちは私たちの行為を三面で開発して善くする。 意業 : 私たちの考えが善くなる

10. 自己開発 上座部佛教の心髄

欲するものといることが出来ない。たとえば、書物と共にいない。仕事と共にいない。す ぐにどこかへ行ってしまう。 この定こそが、心の開発の過程の代表である。だから、心のすべての面の徳性の開発の代わ りに定という言葉を使うのである。これは代表方式の呼び方であるが、この代表は軸でもある。 智慧の開発 省略せずに言うと「増上慧学」 (Adhipafiöä-sikkhä' ぞうじようえがく ) だが、ただ「慧」と だけ言うのが好まれている。知識、理解を開発する過程である。 つまり、人間の開発は三面、或は、三領域があり、それらは総合的に相互に助け合いながら 進むということだ。 人間の修習は様々な学習から始まる。これをパーリ語は三学 (Sikkhä) と言っている。だか ら、これまで話した三面の修習は、三学の三面である。。、 ーリ語では三は ti であり、サンスク リットは T 「 a 一である。ここでは、三は T 「 a 一を用いて、「三学」は T 「 a 〒 s 一 kkhäと言う。 三学は前述のように、戒、定、慧であるが、これは人間の生命を完全にするための行為、心、 慧の開発過程である。完全な生命とは、すなわち、明 ( みよう ) のある人間の状態、智慧のあ る生き方のことである。これは、無明、渇愛、取に頼らない生き方で、この先、これらに支配 されることはない。つまり、集を追い払って苦を脱し、目標の滅を達する生き方であって、道 を完全に実践するから、四聖諦はすべて揃うと言えよう。 三学、すなわち、行為、心、智慧を開発する内容は詳細を極めている。そこで実践を容易に