諦 - みる会図書館


検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

もし、まだ四聖諦のそれぞれの項を智見三転によって知らなければ、 ( 全部で十二行相と一言う ) 三藐三仏陀として大悟したとは公宣できない。四聖諦の各項を三回、計十二回の智で四聖諦を 悟ったとき、初めて三藐三仏陀 ( sammä mbuddha ) であると公宣できる。 転法輪経におけるこの偈は、これこそ仏教の要諦の重要な基本であると定めることができる。 この転法輪経を唱えられた方は、「比丘たちょ。われ、四聖諦において》かくの如く三転十二行 相をもって如実、智見のいまだ清浄ならざる間は・ ・」 (Yäva kivaöca me bhikkhave imesu catüsu ariyasaccesu evam ti-parivattalil dvädasåkä「 am yathäbhütam fiäna ・ dassanam ・・ ) A 」い一つ / ーリ語を思い浮かべられるだろう。 ( 相応部、転法輪経より ) ラーマ六世 ( ワチラーウット王 ) は『仏陀は何を悟られたか』という本を書かれておられる が、ここでもこの点を四聖諦とされておられる。 仏陀は四聖諦を悟られ、四聖諦を悟られたことで仏陀になられた。つまり、四聖諦こそ仏教 の要諦といえる。 イ陀がきわめて簡潔に言われた三蔵のもう一つの部分「比丘らよ。我らは前世でも現世でも、 苦の生起と苦の滅尽をのみ定め教示する」 (pubbecäham bhikkhave eta 「 ahiril dukkhaöceva Pa555 m 一 dukkhassa cani 「 odham) を取り上げる方もおられよう。もし、この点を取り上げ るなら、仏陀の教えのすべては、仏教の基本はこれのみ、すなわち、「苦の生起と苦の滅尽」に ある、ということを示している。 ブッタタート師は仏教の要諦と見なすべきは、「一切法は執持すべきではない」 ( sabbe

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

四聖諦について語るなら、当然それに対する義務も語らなければならない。先ほど、四聖諦 は各四項目に三回をかけて全部で十二回、智見三転によって知らなければ悟ったと公宣出来な と仏陀が言われたと述べた。 従って、四聖諦のみを知っていても駄目である。四聖諦に対する義務を知り、それを実践し なければならない。義務を知らずに四聖諦を学んでも、理解を錯綜させることにもなる。 仏陀は各項ごとに四聖諦に対する仕事、或は、義務を話されている。 ( 一 ) 苦に対する義務は、「遍知」 ( pa 引謌、 ( んち ) である。意味はそれを知悉 ( 知り尽くす ) すること、覚知することである。 ( 一 l) 集に対する義務は、「断」 (pahäna 、だん ) である。離れる、除去するという意味である。 (lll) 滅に対する義務は、「能証」 (sacchigiriyä' のうしよう ) である。明らかにする。つまり、 成就するという意味である。 ( 四 ) 道に対する義務は、「修習」 (Bhavänä、しゅじゅう ) である。完成する、実行して着手 する。起こす、増やす、の意味である。 ( 一 ) 苦、それに対して何をなすべきか。仏陀は「苦は知悉すべきもの」 (Dukkafiparififieyyafi) と言われた。僧侶の言葉で「遍知する」と言う。苦は知悉すべきものである。この「 Pa 「 ififieyyafi 」 という言葉は形容詞で、名詞形は学問を完成させるという意味で用いている「学位」 (parififiä) である。

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

しかし、数多くの仏教の教えを聞いてきた人たちは、学僧や長老があれやこれや他の基本を 仏教の要諦だと話されるのを聞かれたことだろう。そう聞くと、訳が分からなくなってしまう 方もおられよう。そこで、仏教の要諦と言われるものは、一体どう一言えば間違いないのか、前 置きとしてこのことから話すことにする。 仏教の要諦は苦集滅道の「四聖諦」 (Cattäri-a ュ ya-saccäni) にある、何故なら仏教の教えのすべ てがここにあるからだ、と言われる方がおられる。 イ陀が悟りを開かれたとき、「転法輪経」 (Dhammacakkappavattanasutta 、てんぼうりんきょ う ) を初転法輪 (pathama ・ dessanä、しょてんぼうりん ) された。仏陀の話された言葉の一部に「四 聖諦において智見三転 ( pa ュ va 計、ちけんさんてん ) の十二行相 (dvädasa-äkä「 a) がなければ、悟 りを開いたと公宣できない。 この智見があるとき悟りを開いたと公宣できる」という内容があ る。 (Catüsu ariyasaccesu tiparivattalil evaril d くäda 「 a yathäbhütarh fiänadassanarh) すなわち、四聖諦の三面について話されたのである。その三面とは ( 一 ) 四聖諦の各項が何 であるか知り、 ( 一 l) 四聖諦に対してなすべきことは何か知り ( 三 ) 四聖諦に対する義務を実践 したことを知る、ということを四聖諦の各項目につき三回を繰り返すという意味で、これを智 見三転と言う。 まず、苦 ( Dukkha ) とは何かから始まり、苦に対して何をなすべきか知り、苦に対してなすべ き義務を果たしたことを知る、それから他の各項、集 (Samudaya) 、滅 ( N 一「 oda ) 、道 (Magga) につ いても同じようにやる、ということである。

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

四聖諦について語ろうとすれば、より広範囲にわたるし、多くを理解しなければならない 一般の仏教徒にとっての出発は、何を実践するかをまず分らせることだ。実践してある段階ま で達したら、一般の原理の基本を知る必要が生じる。さもなければ実践は続かない。その時に なれば、四聖諦の基本を知らねばならない。しかし、初歩の段階では、話して聞かせたあと、 すぐに実践させる。 心を浄む』だよ、と言う。容 つまり、始めは、「、 しいかね、『一切の悪をなさず、善を行い 易に理解できるし、すぐ出来る。便利だ。だからこれをもって仏教の要諦とする。それから、 この実践の本をもっと大きな基本へと進める。すなわち四聖諦で、これはより包含した完全 な基本である。 このように話すことは、「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」という基本は、仏教の要 8 諦の序説、もしくは、仏教の要諦へと導く序説であると言っているようなものだ。 この「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」を仏教の要諦としてまず始めて、それから 四聖諦のすべてに必ず進んで行く、そうすれば真の完全なる仏教徒になれる、ということを忘 れないで欲しい いくつもの基本、要諦があっても、結局は一つの大きな原理 今度は他の原理と比較してみよう。先ほど、仏陀は「比丘らよ。我らは前世でも現世でも、 苦の生起と苦の滅尽をのみ定め教示する」と言われたと述べたが、これも四聖諦について語っ

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

そしてそれを決めたあとは、それをやり遂げる。その目標を達成する。これを能証と言う。や って明らかにする、やって実現する。つまり、成就、完成させることである。 ( 四 ) 目標を設定すれば、次は実行に移す段階である。手術や投薬、病人にどのような運動 をさせるか、すべての治療方法は第四項にある。すなわち、道とは、着手して行う段階のこと であり、道に対して行うべきことを修習と言う。これは詳細多岐にわたる大きなことである。 こうしたことから、四聖諦は科学的方法であると言える。教育にも使えるし、病気の治療に も使えるし、医者もこの方法を使う。 四聖諦は実践の体系を提案し 人間に自然界の真理を役立たせる法である。 本当は、自然界の実相は、結局は此縁性縁起の過程である。その過程を越えた状態は涅槃だ けであるが、仏陀は人間の実践での段階を見せるために、四聖諦として導入し説かれたのであ る。また、四聖諦は教えの方法でもあった。すなわち、人が理解しやすく、それに従ってやる 気にさせるだけの修行の成果を生み、かっ明瞭に段階が追える方法である。 四聖諦は本当は原因と結果の原理である。一般に私たちは原因を先に言い、それから結果を 一一一一〔う。しかし、仏陀は逆にまず結果を上げて示し、それから後で原因を言われた。どうしてそ うなのか 苦は結果としての現象である。集は苦の原因。これは結果と原因の一対である。

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

目標は最も優れたものに見せねばならない。あんなに善い、 こんなに善い。人がすっかりそ の気になってその目標を達成しようとすればするほど、問題を引き起こした張本人を憎悪しく 駆逐したいと思い込む。 人はそのような状況を好んではいない。問題だと指摘され、駆逐すべき悪の張本人が原因で あると指摘されれば、人の心は標的を狙う。このように準備が整えられていれば、望ましい目 標の指示は成功する。今や完全に準備完了である。「こんな風に、こんな風にやれ」と言えば、 実行方法がいかに困難であれ、心配することはない。やろう。どんなに困難でもやるだけだ。 力を合わせてやり遂げよう・・・道への到達である。 要するに、四聖諦は自然界の真理と人間の実践とを繋ぐ基本である。 真の自然界の真理を取れば、縁起の道理と涅槃で、これが自然に従う一切の真理の面から見 た心髄である。 しかし、そのようにすべて真理に沿って語ることは非常に困難である。そこで、仏陀は四聖 諦の形で提供されたのである。 出来事に沿って見るとよりはっきりする。 ( 一 ) 悟りを開かれた後、仏陀は悟られた法、此縁性縁起と涅槃は人に説いても理解すること は困難である、そこで、説法しないと心に決められた。 (ll) その後、教え始められたとき、つまり、最初の説法のとき ( これを初転法輪という ) 仏 陀は完全に四聖諦を行うか、四聖諦の義務を果たして、四聖諦を悟ることを話された。

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

* 「一切法は固執すべきではない」 * 「苦の生起と苦の滅尽のみを定めて教示する」 * 「此縁性縁起と涅槃」 すべての要諦は四聖諦の基本に含まれる。 何が仏教の要諦であるか知れば、その心髄にまで掘り下げなければならない点を把握できた のと同じである。 四聖諦が自然界の真理を人間の利用に結びつける基本であるということを繰り返させていた だく。自然界の法則だけでは、それは自然にあるだけである。実践方法を知らなければ、開始 点を知らなければ、順序を知らなければ混乱してしまう。 イ陀は私たちが自然界の法則を便利に役立てることを願われた。そこで、形と形式と体系を 作られた。これを四聖諦という。これは、はっきりと順序を立てて、教える方法であり、問題 の解決方法であり、色々のことを行う方法である。この四聖諦の基本に従って行えば、困難な 自然の真理も容易になる。 自然にある真理 仏陀は智慧をもって探り開かれた 以下、「仏教の心髄」を見るときは、真理の基本をもう一度見なければならない。仏教は真理

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

次いで生命と自然界の接触という、「処」の説明がなされている。この五蘊、十一一処、十八界が、現象界に おける「一切法」と呼ばれるものであり、本文に説明される「一切法は執持すべきではない」という要諦 は、ここのところを指している。 次いで、仏陀がお生まれになろうとなるまいと定まっている基本原則で、仏陀はそれを見出されただけ だとされる一一一相 ( 無常、苦、無我 ) の説明が行われている。この三相をきちんと理解して生きることが、 正しい生去芳であるとされる。この三相の説明方法が、きわめて、自然科学的であることに注目しよう。 例えば、苦は、自然界に存在するものが「安定しない」ことに基づいていると説明されて、説鬻である。 するので、ここではこれ以上の説明は行わない 次の「生命はどうなる」の章の中で、仏教の美の原理である四聖諦と縁起の説明が行われている。四 聖諦については、四聖諦の各項に関して、 ( 一 ) 理論的な理解 ( 一 l) 四聖諦に対する実践 ( 一一 l) 実践したと いう自覚、再確認、があって初めて大悟したことになるという、三転十一一行相の説明がなされている。仏 陀は、大悟されたとき、当初、この法はとても姿で、他人には理解してもらえないだろうから人には説 かない、と決められたと伝えられているが、この四聖諦で見ると、 ( 一 ) の過程は ( 0 に理解されても、 ( 一 l) の実践の過程が非常に困難だ A えられるから、理解してもらえないとは、実践してもらえないことまで 含むのだろう。 ところで「仏法」の第一部には、「中に縁る説法」 ( マヒ a m ) というタイトルがつけ られている。この「中に縁る」という表現は、「南伝大蔵経」の中にも「比丘よ。これら両極端を離れて、 138

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

べて実践面での基本である。悪を行わず、善を行い、 心を浄くするという、生き方のことだ。 そこで苦 ( く ) 、集 ( じゅう ) 、滅 ( めつ ) 、道 ( どう ) の四聖諦の基本について見ると、四番 目の道が実践の項目である。 八正道 (Ariyasacca) について語るなら、正見から始まり最後は正定で終わるこの八項目は、 数が多くて覚えるのが難しいが、簡潔にすれば、三項目だけが残る。つまり、戒 (Sila) 、定 (Samädhi) 、慧 (Pafifiä) である。 易しく言えば、戒は「一切悪をなさず」、定は「善を十分に行う」ことだ。最も真の善は、心 の中に色々の美徳を実践する、つまり、徳を備えること。そして最後の慧は、「心を浄く、する こと。心がすべて浄くなれば、智慧で煩悩と苦から脱却できるからだ。 だから、この「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」ということは、戒、定、慧に他な らない。「悪をなさず」が戒、「善を行い」が定「心を浄く」が慧であると、このように分析す ると、ああ ! 「一切の悪をなさず、善を行い、 心を浄む」という仏教の要諦は、四聖諦の第四 項目、つまり、最後の項目である「道」にあると分る。 万仏節で示された仏教の要諦は、苦、集、滅、道の四聖諦の一部、実践の部門である最後の 項目の道である。つまり、四聖諦はより広いもので、万仏節における仏教の要諦の基本を包含 するとい一つことだ。 苦が、私たちが欲しない問題のものである。でもまだ何かを実践することはできない。まず、 解脱しなければならない問題は何かをはっきりと知る必要がある。集は苦の原因そのものであ る。私たちは「因縁による」という真理に従って苦の原因を究明し知る必要がある。ああ、苦 6

10. 自己開発 上座部佛教の心髄

たことである。四聖諦は最も短い形態に凝縮すれば以下の二組になる。 苦と、苦の原因である集の一組。 苦を消す滅尽と、苦の滅尽への方策である道の一組。 だから、短く話すときは、苦のことが一つ、それから、苦の滅尽が一つ、簡単に一一一一口えば四聖 諦を二つに縮めるのだ。 だから仏陀が「比丘らよ。我らは前世でも現世でも、苦の生起と苦の滅尽のみを教示する」 というのは矢張り一つのことであり、四聖諦のことであって、それ以外に行きようがない。 それにもう一つ。先ほど言うのを忘れたが、仏陀が悟りを開かれ仏教を宣言されたとき、考 えられたことは三蔵にはこう書かれている。「我が證得せし法は」 (Adhigato khO muyäyayam dhammo ) 、難解なり ( Du 「 anubodho ) 。すなわち、一つは此縁性縁起 ( ldappaccayatä paticcasamuppäda 、しえんしようえんぎ ) 、一一つは涅槃 (Nibbäna 、ねはん ) である。そして更に こう続く。仏陀は、すべての衆生は誘惑するものに溺れては浮かれており、この二つを理解す ることは困難であろうと考えられ、教えまいと決められた、と。 イ陀が「私の得た法は、此縁性縁起の道理と涅槃である」と言われたことにより明らかなこ とは、これも同様に佛教の要諦であると言えるということだ。しかし、関連付けて見れば、本 質はどこへも行かない。本当は同じことである。 此縁性縁起とは何か。 これは、私たちが苦と呼ぶ現象を起こす面から見た自然界の真理である、すなわち、苦や様々 な問題が生じてくる自然界の法則そのものを捉えることである。