Bhävanä - みる会図書館


検索対象: 自己開発 上座部佛教の心髄
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1. 自己開発 上座部佛教の心髄

葉を長い間使ってきたと関連付けることができる。つまり、各種の法の言葉として多く使われ てきた「ヂャルーン」という一一 = ロ葉にほかならない。 この言葉のタイ語の「ヂャルーン」を、語 源である昔のパーリ語と比較すると、どのような法の基本であるか直ぐ簡単に分る。 先ほどの「観想」 ( Vipassa ) を深める ( ヂャルーン ) という言葉は、僧侶の方では「 Vipassanä bhävanäJ と言っている。「止」 (Samatha) を深める ( ヂャルーン ) は、「 Samatha bhävanäJ と言い 「慈愛」 ( Me ) を深める ( ヂャルーン ) は「 MettäbhävanäJ と言い、「安那般那観想」を深める ( ヂ ャルーン ) は「Änäpäna sati bhävanä」、「定」 ( sam dh 一 ) を深める ( ヂャルーン ) は (Samädhi bhävanä) 、 善を深める ( ヂャルーン ) は「 KusalabhävanäJ と言う。このように、すべての言葉がはっきりと 「 Bh a 品」で終わっている。「ヂャル 1 ン」という言葉の本質は、 h a コ巴と言うことだ。 「 BhävanäJ ( パーワナー ) という言葉が「ヂャルーン」という言葉の意味と同質であるとい うことが分った。今度は、「 Bh a コ巴の意味をいま一度調べてみよう。 イ陀が「 BhävanäJ を使われている箇所を、私は探してみた。三蔵の訳注書「アッタカター」 (Atthakathä) では「 BhävanäJ はどう説明されているか、ほとんどすべての箇所で「 BhävanäJ は「パッタナー」を意味し、一致する。例えば、三蔵のパーリ語では「 BhävanäJ の動詞形を 「 Bhäveti 」と言うが、アッタカターでは、「 BhävetiJ は「 Vaddheti 」であると説明する。これは 「ワッタナー」もしくは「パッタナー」である。或は、「 Bhäく etv 巴は「 VaddhetväJ であると説 9

2. 自己開発 上座部佛教の心髄

明している。これも「 BhävanäJ の一つの形である。つまりは、「 Bh a 品」という言葉に対して 「ワッタナー」はその説明の言葉となっているということだ。 「開発」 ( パッタナー ) という言葉を使っていても、結局は同じことである。「開発」 ( パッタ ナー ) は、「ワッタナー」という言葉と同じことである。それは「 Bhävanä」という言葉の説明で ある、ということだ。つまり、現在は「開発」という言葉を好んで使っているが、これは間違 っているわけではない。「 Bh a コ巴という言葉の一つの形にすぎない。しかし、現在では「開 というのも、今では「 Bhävanä」はタイ語ではか 発」 ( パッタナー ) の方が適切かもしれない。 なり意味が変わり、狭義になっているからである。「 Bhäva コ巴という言葉を、現代の人はもう 「開発」 ( パッタナー ) とか、「繁栄」 ( ヂャルーン ) という意味では理解せず、念仏を唱え偈 ( げ ) を繰り返すこと、という意味に受け取りがちである。だから、タイ語の「パーワナー」も意味 ーリ語では「開発」 ( パッタナー ) と同じ意味 が狭く、ずれてびたりと一致しない。本当は、パ なのだが、 タイ語ではもうそう理解しなくなってしまった。だから、「開発」 ( パッタナー ) を 使うほうが意思の伝達がより容易になる。しかし、合わせて、法の面では、本来「開発」 ( パッ タナー ) は「パーワナー」であると関連づけるべきである。つまり、これで「開発」という一言 葉と関連する元の基本語、「 Bhävanä] を探し出したということだ。そこで今度は「 Bh a 品」 という言葉の意味について調べてみよう。 ーワナー (Bhävanä) とは

3. 自己開発 上座部佛教の心髄

結構なことだ。 この「修習」 (Bhävanä) についてはすでに説明したように、「 BhävanäJ は名詞形、「 Bhävita 」 は分詞形で修習した人のこと、自分は「 A 計」または「 A 」、二つを合わせて、「 Bh 」十「 A 計」 「 Bh 一 ( a 」で、自己修習した人という意味である。普通、仏陀は阿羅漢のことを意味され ている。場所によっては、特に仏陀のことを指している。 パーリ語の仏典のある個所で、仏陀 に質問している人が仏陀を『 Bh ミ ( a 計』と呼んでいるが、サーリブッタ師はそれを「 Bhävitatta と言われる仏陀」 (kathari-n bhagavä Bh 0 ) と説明された。「自己開発をした人はどうな のか」については、仏陀は「身、戒、心、慧のそれぞれを開発した人だ」 (Bhävitakäyo Bhävita ミ ( a 当 0 Bhävita ci 0 Bhävita pafifio) と意味を拡大して詳しく説明された。〔訳者注二〕 ここで大きな基本にやってきた。自己開発した人とは、 ( 一 ) 開発された身体 (Bhävita käyo) ( 一 l) 開発された戒 (Bhävita a 当 0 ) ( 三 ) 開発された心 (Bhävita c 0 ) ( 四 ) 開発された智慧 (Bhävita pafifio) この四つの徳性を備えた人のことである。 それから、さらに拡大し、例えば、四念処観開発 ( しねんじよかん・かいほっ ) 、如意足開発 ( によいそく ) 、四正勤開発 ( ししようごん ) 、五根開発 ( ごこん ) 、五カ開発 ( ごりき ) 、八正 道開発、 ( はっしようどう ) 七覚支 ( しちかくし ) など数多くの徳性が上げられる。仏陀は、こ 121

4. 自己開発 上座部佛教の心髄

のように数多くあっても基本は前述の四項目である、とされる。これが自己開発した人の徳性 であって、完全に開発したかどうかは、身、戒、心、慧の四つを揃えているかどうかで測るこ とが出来る。 上記の四種は人の資質で現わしたものである。もし、各項目を名詞形で書くなら、「 Bhävanä」 という言葉が付いた以下のような言い方に変わる。 ( 一 ) 身開発 (Käya bhävanä) ( 一 l) 戒開発 (Sila bhävanä) ( 三 ) 心開発 ( 0 計 bhävanä) ( 四 ) 慧開発 ( P 当謌 bhävanä) そこで、今度は身、戒、定、慧はどのようにして開発するか、少し説明しよう。 ( 一 ) 「身開発」身体の開発については疑問を持たれよう。食事を多くすれば、身体は大きくな る。或は、体操をすれば、色々と運動をすれば、身体を強健にできる。これも間違いではない。 しかし、それよりは大きな基本が必要である。さもなければ、この身開発は成果がないかもし れない。食事を多く取って、身体を大きくする、運動して身体を強健にするだけでは十分では この仏法に従えば、仏陀はまだ法に入ったとは見ておられない。 仏法における身開発は 122

5. 自己開発 上座部佛教の心髄

しく実践する。 これらが構成する基本であり、自己開発を助ける基本である。 これ以外に、仏陀は聖声門、特に優婆塞、優婆夷の自己開発がどこまで進んだか成長を測る 聖増長 (Aュを・ vaddhi) という基本を作られた。これは次の五項目がある。 ( 一 ) 信 (saddhä) 正しい信仰があるか。どの程度根拠のある信仰か。 (ll) 戒 ( a ) 仏教の基本に従ってどの程度、正しく善い行いをしているか。 ( 三 ) 博達 (suta) 自らを助け他人を適切に助けることの出来る教え、法の基本を持っている 、刀 ( 四 ) 捨 (Cäga) 他人を助けるための犠牲、気持ちがあるか。 ( 五 ) 慧 ( pa 巴どの程度、色々の真理を知り、世の中と生命の状態を覚知して、心が解脱 し自由になっているか 第三の基本、「修習」 ここで最後の項目〈行く。「修習」 (Bhävanä) である。この「修習」が「開発」という言葉の ーリ語で「修習」 (Bhävanä) は開発だと説明されている。そして現在 実体である。仏陀はパ 私たちは開発という言葉を好んで使っている。仏陀の言う所へ戻ったということで、大変 120

6. 自己開発 上座部佛教の心髄

「繁栄」 ( ヂャル 1 ン ) を意味する「パーワナー」 (Bhävanä) は、「生じて起こす」ことで、 「ないものをあるようにする」「出来ないことを、出来るようにする」という意味である。或は、 特に仏陀は善法を意味され、「まだ生じていない善法を起こす」というようなことに「 Bh a コ巴 を使われている。この意味は文字上の意味であり、本質的には、仏陀はこれを「修習、修行」 であると解釈されて使われた。「 Bh a 品」は修習 ( しゅうじゅ ) を意味する。これが内容の解 釈である。そして、さらに「繁栄させる」、「増やしていく」の意味もある。 これが「 Bh a コ巴という言葉について様々な角度から見た意味である。「 Bh a コ巴の意味 を「生じさせる」から「修習」「繁栄させ増加させる」まで説明したが、こんどはそれを他の法 の言葉とセットで関連付けてみよう。それを僧の方では異型同義詞と呼んでいる。同じ意味を 持って、代替できる言葉である。このグル 1 プの言葉を全部出してみよう。自己開発に関する と考えられる重要な言葉のすべてである。 特に仏法を学ぶものが知るべき言葉が三つある。 一、「修習」 (Bhävanä) これについてはすでに述べた。 二、「調御」 ( Dama 、ちょうご、または、じようご ) 。在家の法として、誠実 ( Sacca ) 、調御 ( Dama ) 、 忍辱 (Khanti' にんにく ) 、捨 (cäga 、しゃ ) の四項目があるが、この内の二番目にある調 御は語られることが少ないが非常に重要である。どのように重要かは後で説明する。 ーリ語である。サンスクリット語では、「スックサー」とい 「 SikkhäJ はパ 「学」 (Sikkhä)0 う。「 SikkhäJ 或は「スックサー」は、仏教では大変重要な言葉で、「三学」 ()I 「 ai sikkhä) 9

7. 自己開発 上座部佛教の心髄

という言葉になる。仏教のすべての修習、すべての修行の過程は三学と呼ばれる。「 SikkhäJ は、勉学、留意、修習の意味である。 上記のすべての言葉はすべて修習の意味である。知り理解しなければならない三種の言葉が セットとしてあるということだ。仏教とは自己開発、或は、自己研鑽、勉学の宗教と言うこと も出来る。ここの講演の演題と一致させて、自己開発の宗教と言おう。このように呼ぶのも裏 づけのある理由がある。 第一、自己開発に関する法の基本は仏教の重要な中心の軸であり、法の修行のすべてである。 先ほど例に上げた「 Bh a 品」という言葉は、すべての仏法の修行で使う。先ほど述べたよう に、「ヂャルーン・ MettäJ は「 Mettä-bhävanäJ であり、「ヂャルーン・ Kusala は「 Kusala ・ BhävanäJ であり、「ヂャルーン・Ä品 na ・ sa ( 一」は「Ä品コ a ・ sa 早 b く a コ巴である。すべてこれらの善行 を生むための自己開発、自己研鑽ばかりである。「 Bh a コ巴はすべてを包含する修行である。 学 (Sikkhä) についても先ほど述べたように、三学 (T 「 ai sikkä) は仏教のすべての修行を含 んでいる。簡単に言えば、戒 ( a ) 、定 (samädhi) 、慧 ( P 当謌 ) である。「調御」 (Dama) ついては、次の第二項で述べるように、仏陀は人間の徳性を示す形で多く使われている。 第二、仏教の最高の人、或は、仏教の目標を達成した人は、自己開発した人、開発した自己 を持つ人、修行した人であると一一一一口う。一注こ 4

8. 自己開発 上座部佛教の心髄

憶念など、強固で能力のある、仕事をする用意のある心である。仏陀はこの心の重要なことは、 修習して定を得れば、仕事に善く使えて、次の智慧への足がかりとなると言われる。仕事に善 く使えることは、「適業性」 (kammaniya) と言い、仕事に適した心の意味である。 、喜、悦、満足、嬉しい、上機嫌、 ( 三 ) 善い健康な心、この状態の心があれば、気分 晴れやか、快適、など気分をよくするもの。 増上心学における自己修習は上記の三種にある。 次は第三項目の増上慧学である。これは智慧の修習を行うことである。智慧とはつまり、真 理に従ってすべてのことを知り、理解することである。或は、世と生命の状態を覚知して、心 を自由にし、煩悩の支配力に陥らず、苦から脱却することで、智慧が舵を取って、修習の過程 を完成させる。要約して言えばこうである。仏教で修行することは、戒、定、慧、或は、増上 戒学、増上心学、増上慧学の基本のこの三項目だけにある。 ちょっと付け加えると、仏陀は普通はこの三学は僧伽に教えられ、在家に教えられた形跡は どうしてそうなのだろうか。実は、同じように教えられたのだ。しかし、仏陀は在家に 相応しいように新しい言葉を使われた。在家のための三学は同じように三種ある。しかし、新 しい言葉として、「布施」 (Däna) 「持戒」 (51a) ( 修習 ) (Bhävanä) という言葉を使われた。 これは昔から「三福業」という言葉として知られている。「積善」 ( タンプン ) のことである。 通常、在家の人々の方によって使われている。本当は三学のことであるが、重点の置き方が異 116

9. 自己開発 上座部佛教の心髄

〔注一〕自己開発についてのパーリ語 タイ語の三蔵を見てもあまりはっきりしないから、タイ語は見ずに、。、 ーリ語での意味 を見ると、 パ 1 リ語の三蔵では、仏教の目標を達成した、自己開発した人を呼ぶ言葉と して、「 Bh く a コ巴と「 Dama 」一一つの言葉の活用がある。「 Bh く a コ巴を使一フ言葉は、「 p く一 ( a a 」 で、開発した自己を持つ人という意味だである。「 p 一 ( a 計」は「 BhävanäJ の分詞形で、 「 Pävita 」と「 A a 」 ( 自己 ) を合わせて、「 Päミ ( a a 」と言い 「開発した自己を持つ人」 という意味になる。仏陀にものを訊ねに来た人が、「 p 一 ( a 計」のお方と呼びかけること があった。つまり、「自己開発をされたお方」ということである。一方、「 Dama 」の方も 同様な使い方をする。分詞形は「 Danta 」である。活用形の「 Attadanta 」は「自己修習を したお方」という意味である。「 A a 」は自分、「 Danta 」は修習である。「 Päミ ( a a 」と 「 Attadanta 」の二つの言葉は、阿羅漢と合わせて、仏陀の呼ぶ呼称として最も多く使わ れている。所々では、預流果 ( よるか ) を得た一般の聖人にも使われているが、阿羅漢 と仏陀に関して好まれて使われている。 イ侶が唱える偈に、「正覚者は人間であられても、修習し自己開発され不抜の精神の人になら れ・ ・」 (Manussabhutam sambuddharh attadantarh samähitaril ・ ・ ) から始まって、「諸 天ですら敬う」 (devapi namassanti) に至るものがあるが、これは自己開発をされた方を尊敬、 9