ミコノス - みる会図書館


検索対象: 遠い太鼓
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1. 遠い太鼓

ミコノスは僕も以前に二度行った ミコノス島で暮らすことになるなんて考えてもみなかった。 ことがある。綺麗な島た。でも正直に言ってミコノスはあまりにもツーリスティックに過きる と僕は考えていた。そこは生活をする場所ではない。そこは訪れて楽しむ場所なのた。仕事をす るにはもっと静かで落ち着いた島が必要なのた、と。 でも結局ミコノスに一カ月半も滞在することになった。そのあとシシリーに行くと決めていな かったらもっと長くいたんしゃないかと思う。 ミコノスのレジデンスを僕に紹介してくれたのは、アテネの旅行代理店に勤めているインゲと いう名前のアメリカ人の女の子たった。二十歳ちょっとくらいの、わりに可愛い女の子た。僕は 彼女の働いているオフィスに行って、どこか静かな島で月ぎめの家具つきフラットを借りたいの 巧たがと相談してみた。スペッツェスの家も悪くはないのたが、いかんせんサマー ( ウス用に作ら 、コノス ミコノス

2. 遠い太鼓

ミコノス島もやはりシーズン・オフだった。店の三分の二は閉まっていた。しかし逆に一言えば 三分の一は開いているのた。その辺がスペッツェスとは違う。どんなにシーズン・オフでもミコ ノスには少しは観光客が来るのた。だからみやけもの屋もレストランもホテルもそれにあわせて 何軒かは開いている。夏には一日に六隻来ていたクルーズ船も二日に一隻くらいに減る。でもと にかく少しは来るわけたから、それを相手にいささかの商売は成立する。 秋冬のミコノスに来るのはンーズン・オフの低料金を利用して旅行する北ヨーロツ。 ( の年金生 活シニア・シチズンか ( この人たちはのんびりと静かに安く旅行したいという大前提があるの で、この季節を選んで来る ) 、あるいは日本人の団体客 ( 新婚が多い ) である。しかしンーズ ン・オフのミコノスに来て果たして楽しいかというと、僕としてはやはり首をかしけざるをえな 。その後もあわせて僕は春夏秋冬といちおう全部のシーズン、ミコノスに来たけれど、わざわ ざ金を払って冬のミコノスに来てもしようがないんしゃないかなあという気がする。もちろんこ 、コノス ンとパスルーム、広いヴェランダもついていて、見晴らしはすごくいい。家賃は七万ドラクマ。 悪くない。それに決める。とりあえす一カ月たけ住むことにする。 「ねえ、きっとあそこ気に人ると思うわ」とインゲは言った。「私もそこに一週間くらい滞在し ししところよ たことがあるの。静かですごく、

3. 遠い太鼓

163 コノス りの料金を取るのたろうが、シーズン・オフともなると客はほとんど地一兀の人間だから、値段は 当然リーズナプルなものになる。二人でますますまっとうなカクテルを三杯すっ飲んで、軽いっ まみを取ってたいたい千円ちょっとくらいたったと思う。たた酒を飲むたけではなく、そこに行 って店の人とあれこれ世間話をして地域情報を仕人れるのも我々にとっては数少ない娯楽のひと ったった。 僕がよく行ったのは『モニカ・ ー』と、『ミノタウロス ミコノスのスーは過当競争でしよっちゅう様変わりするから、これらのパーも今はもうなく なってしまったかもしれない。『モニカ・ ー』で働いていたフランス人の女の人 ( 名前を忘れ てしまった ) ともよく話をした。小柄で表情の豊かな人だった。たふん僕と同し世代に属する人 間たろうと思う。もう十何年ミコノスに住んでるのよ、と彼女は言った。若い頃にふらっとここ を訪れて以来、この島に魅せられて、そのままもう何処にも行けなくなってしまったの、と彼女 は一一一口った。 ミコノスにはこの世代のヨーロツ。ハ人が多い。いわゆる団塊の世代である。彼らはヒ ツ。ヒー崩れ的にふらふらと西欧社会からドロツ。ファウトして、島にそのまま住み着いてしまった のた。ギリシャの島にはよくその当時のコミューンのなれのはてみたいなのが見受けられる。ど ういうわけか、当時のヒッ。ヒーたちは島がすごく好きだった。 彼女はミコノスに取りつかれたのた。彼女は近隣の島を訪れたことさえないのたと言った。彼 女はロードスにもサントリーニにも行ったことがない。「私にはミコノスがあるのよ。どうして こ 0

4. 遠い太鼓

ている。もちろん泳けない。美味しいレストランは閉まっている。ホテルの従業員はやる気がな い。わざわざそんなところに来ても寒々しいたけである。がっかりする人も多いのではないかと 思う。遊びに来るのならなんといっても夏です。ツーリスティックだとか人が多いとか言われて も、ホテルが満員で物価が高くて住民が不機嫌でも、近所のディスコがうるさくて眠れなくて も、やはり夏のミコノスはすごく楽しい。それはもうひとつの祝祭なのた。 でも結果的に言って、このようなひどい天候にもかかわらす、いや、このようなひどい天候な ればこそ、シーズン・オフのミコノスは僕が静かに仕事をするには実にもってこいの環境たっ た。家の居心地は良かったし、とくに他にやることもないし、集中して仕事をすることができ た。僕はここで O ・・・プライアンの『グレート・デスリフ』という小説の翻訳を仕上けた。 けっこう長い小説たったのだけれど、面白い話たったし、とにかくこれを早く仕上けて自分の小 説にかかろうと思って、こっこっと毎日翻訳を進めていた。この頃はまたワードプロセッサーを 使っていなかったから、大学ノートに万年筆でぎっしりと字を書いていた。 『グレート・デスリフ』を最後まで仕上けてから、スペッツェス島での生活についていくつかス ケッチのような文章を書き ( ここに収められたものの原形である ) 、それから待ち兼ねていたよ うに小説にかかった。その頃にはその小説が書きたくて、僕のからたはどうしようもなくむすむ すしていた。からだが一一一〕葉を求めてからからに乾いていた。そこまで自分のからたを「持ってい く」ことがいちばん大事なのた。長い小説というのはそれくらいぎりぎりに持っていかないと コノス

5. 遠い太鼓

ミコノスカ、らクレタ島冫行く 285 ~ 俣活小のアテネはショート。 ( ンツと E* シャッという格好でちょうどいいくらい暖かかった。の んびり公園を散歩し、ほかにやることもないので、オモニア広場近くの映画館で『。フラトーン』 こを見る ( 後ろの席に座った変によたった大男の黒人が興奮してばかでかい声で「フアアック、シ ィット、フアアック ! 」と叫び通しで、すごくうるさくて映画どころではなかった ) 。新聞を読 むと、金持ちを専門に殺して財産を奪っていた殺人団がアテネで逮捕されたという記事が載って いた。彼らはこれまでに既に七人の金持ちを殺したそうである。そのうちのひとりは実にオモニ ア広場でおもらいをしている盲目の乞食であった。何十年も乞食をしていて、それで大金持ち になっちゃったんたそうである。なかなかすごい話である。都会ではいろんなことが起こる。そ れから同じ新聞によると中曽根康弘氏がレーガン大統領と会見するために渡米した。一ドルは 137 円、とある。 ミコノスからクレタ島に行く・パスタブをめぐる攻防・ 酒盛りスス 101 号の光と影

6. 遠い太鼓

ミコノスからクレタ島冫行く いいんた。この夏までは働くけどさ、秋になったらもうやめるよ。そしてあとはのんびり暮らす んた」 クリ 1 ーク・コ それはよかったね、と僕は言った。そしてヴァンゲリスは前と同しように膿い・ ヒーを作ってくれた。昼御飯のために奥さんのマリアが作ってくれたお弁当までわけてくれた。 これはとても美味しかった。 でも参ったことには、僕らが着いた翌日からミコノスはすっかり冬に逆戻りしてしまったので ある。僕はしつかりと泳ぐっもりで水着の用意をしてきたのたが、風が強くて寒くて、とても泳 こぐどころではない。日光浴することさえ不可能である。アテネの暖かさが嘘のような寒さであ る。ミコノスの人たちも「昨日までは異常なくらい暖かかったんたけどねえ」と言ってみんなで 震えている。やれやれ、しかたないので部屋で本を読んたり、スコット・フィッツジェラルドの 『リッチ・。ホーイ』を翻訳したりしていた。結局ミコノスには十日くらいいた 久し振りにカザンザキスの『その男ゾを ( 』を読みなおしていたら、すごくクレタ島に行きた くなってきた。『その男ゾル。 ( 』はごそんしのようにクレタ島が舞台になっている。カザンザキ スもクレタ生まれの人で、したがってこの島の風土や人々について非常に深い ( ときにはそ れは屈曲した憎悪へと転じもするのたが ) をこめた描写をしている。ミコノスからクレタまでは 287

7. 遠い太鼓

ミコノス ,. 港とヴァンゲリスワ ミコノス撤退 シシリーからローマに 南ヨーロッ ジョギング事情 ウイラ・トレコリ丿 午前三時五十分の小さな死 メータ村までの道中 1987 年 4 月明 春のギリシャへ叨 ハトラスにおける復活祭の週末とクローゼッ トの虐殺 1987 年 4 月 ミコノスからクレタ島に行く・・ ( スタブをめぐる攻防・酒盛り・ ( ス 101 号の光と影 クレタ島の小さな村と小さなホテル似 1987 年、夏から秋四 ヘルシンキ 220

8. 遠い太鼓

ミコノス

9. 遠い太鼓

160 れは僕の個人的な音覚であって、ものごとには好きすきというものがある。いや私は冬のミコノ スに来て深く感動しましたと言われれば話はそれまでである。でもミコノスの住人に僕は何度か 質問された。なんでまた日本人はみんなわざわざ十一月、十二月、一月の寒風吹きすさふミコノ スに来るんたろう、そんな時に来たってしようがないじゃないか、と。 そんなと使はいつも彼らにこう説明することにしていた。秋は日本人にとって結婚式のベス ト・シーズンなんた。たから新婚旅行でここに来るんた。新婚なんたから少し寒くったっていし んた、それでちょうどいいくらいなんた、と。そう説明するとみんなたいたいなるほどと納得し ( ハとエーゲ海のなんとか。ハ た。それから日本人は正月旅行というのをやる。お正月の南ヨーロ " ックというようなのがある。語感からしていかにも暖かそうた。 でもこれははっきり言って大きな間違いである。エーゲ海は前にも書いたようにグアムや ( ワ イのような常夏常春の島ではない。大抵の日本人はエーゲ海の島は赤道近くにあると思っている みたいたが、地理的にいえばミコノス島と啝示はほぼ同じ緯度上に存在している。要するに、誰 がなんと言おうが思おうが、冬はやはり寒いのた。そしてミコノスは非常に風の強いところであ る。地表からすべての物体をなぎはらおうとするかのように、激しい風が吹く。冷たく湿った風 である。一度吹き始めると、強風は最低三日は続く。朝から晩まで、風は一刻の休みもなく吹き 続ける。そして一晩中狂おしい音をたててあばれまわり、灌木をなぎたおし、窓をがたがたがた と鳴らし続ける。天気も悪いし、しよっちゅう雨が降る。時には雪たって降る。町はがらんとし

10. 遠い太鼓

一九八六年十二月、ミコノス島にて 撮影・村上陽子