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検索対象: 遠い太鼓
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1. 遠い太鼓

452 ( たふんそうたと思うが確信は持てない ) 。それ以外には店と名のつくものは何もない。僕らがふ らふら歩いていると、菅原さんがやってきて、よう、何か飲もうやと言った。それで僕と女房と 菅原さんとでタヴェルナに人ってビールを飲んた。菅原さんはハルキ島の住民である。この島に 家があり、奥さんと子供がいる。船は自分の持ち物である ( この人は暇さえあれば船を磨いてい たので、たふんそうではないかと僕も想像していた ) 。 ここの人口が三百人と教えてくれたのも菅原さんである。「でも昔はここにも二万人くらい人 が住んでたんた」と彼は言う。「みんなスポンゴ採りたった」 「スポンゴ ? 」 「うんスポンゴ」 よく聞いてみると、スポンゴというのは海綿のことたった。つまりスポンジである。この辺の 島の住民はたいたいが海綿採りのスペシャリストで、これが昔は大変良い金になったんたそうで ある。でも人工のスポンジができたり、海綿が昔ほどは採れなくなったりで、それで生活が苦し くなって ( 岩たらけの狭い島はあまり農耕に適さない ) 、みんなアメリカに移民しちゃったとい うことであった。島に残っている人々の大部分は瀬業に従事している。「アメリカに行った連中 のほとんどはフロリダで海綿採りしてるんた」と菅原さんは言う。フロリダにターポン・ス。フリ ングという町があって、そこには ( ルキ島出身者が集まって、コミュニティーのようなものを作 って暮らしているんたそうである。この島の人たちは誇り高い海綿採りのスペシャリストなの

2. 遠い太鼓

ミコノスからクレタ島冫行く 外を眺めているたけである。そしてとにかく寒い あまりにも寒いので宿の主人に幀み込んで。ハラボラ・アンテナみたいな形をした超旧式の電気 ヒーターを借りて ( 他の人にはたまっててくださいね、みんなすごく寒がってますから。あなた にたけそっとお貸ししますけど ) 、その前でがたがた震えて夜を過ごす。魚市場みたいに冷たく 湿った風が窓の隙間からひゅうひゅうと吹きこんでくる。 宿に我々と同じように閉し込められているのは、オランダ人の女の子の・ ( ック。ハ ッカー二人組 ( どちらもアーノルド・ シュワルツエネガーの相手役がっとまりそうな元気な体型 ) 、品の良いも のしすかなフランス人の老夫婦、国籍不明の若い男 ( この男は二日続けて朝の四時にホテルに帰 ってきて鍵のしまった表玄関のドアをどんどんどんどんと叩き、ホテルの主人を起こそうとした このたが、ホテルの主人が起きなかったので、客の誰かがふつふつ言いながら起きて出ていってド アを開けてやった。まったくこんな風の強い夜に何処で何やってるんたろう ? ) 、それにチリの 旅券を持った謎の中年当あまり喋らない。一人で静かにンチューをすすっている。グレアム・ グリーンの小説に出てくるようなタイ。フ。そういう人々が強風のミコノスで足止めをくっている のだ。小さな丘の上のホテルで。 まあ天候が不順なのだから、飛行機が飛ばないのはしかたないと思う。それについてはあきら める。問題は飛ふのか飛ばないのかがいつまでたってもはっきりしないことである。港の近くに あるオリン。ヒック・ = アのオフィスに行って今日は飛行機が飛ふのか飛ばないのかときいてもさ

3. 遠い太鼓

ミコノス撤退 にシナリオを書きつづけているようたった。僕は彼の姿をほとんど見掛けなかったから。そして 僕もまた小説を書ぎつづけていた。ジョンは彼のベルギー製の苛立ちを島中にばらまきつづけて いた。ヴァンゲリスは漁網を繕いつづけ、烏賊釣りの針の東をほぐしつづけていた。港の近くに ある新聞販売店の少女は、僕が「アテネ・ニューズ」を買いにいくたびに、僕に向かって憎々し けにそれを投けつけた。でも僕は最後まで彼女に好意のようなものを抱いていた。十四か十五で 彼女の鼻の下にはもううっすらと髭がはえていたけれど、見たところそんなに悪い子ではなさそ うたった。彼女はたた少し苛立っているたけなのた。他の多くの人々と同じように。 風が吹きつづけ、雨がよく降った。冬がしつかりと島を包んでいた。我々が洗濯物を持ってい くたびに、クリーニング屋の女主人は小さく首を振った。ねえあなたたちまたここにいるの、と でも一言わんばかりに。十二月の半ば頃に、彼女は僕に尋ねた。「ひょっとしてあなたたちここで 冬を越すつもりなの ? と。、、 ししえ、年末にはここを出てローマに行きますよと僕が返事する と、彼女は幾分ほっとしたようたった。そう、ここは観光客が冬を越す場所ではないのた。俺 昔、日本に行ったことあるよ、とアイロンをかけていた御主人がぼそっと言った。昔船に乗って いたんた。でも彼は今はミコノスのクリーニング店でほとんどロもきかすにアイロンをかけてし る。 そして今一九八六年という年の終わりに、僕はこの島を出ていこうとしている。僕は空気のむ っとしたオリン。ヒック航空のオフィスで、空港行きの。 ( スを待っている。外ではまた風が激しく

4. 遠い太鼓

寺までの通りを通らなくてはならなか かっていた。僕は用事があってときどき江戸川橋から護国 ったのだけれど、あれは本当に恥すかしくて、いつも見えないふりをしていた。その秋に出た 『ダンス・ダンス・ダンス』も順調にベストセラーになった。 でも こういうことを言うのが僭越で夥であることはわかっているのたがそれでもーー僕 はどうしてもある種の切なさから逃れることができなかった。何が切ないのかはよくわからない のたけれど、でもどうしようもなく切なかった。どこに行っても自分の場所がみつけられないよ うな気がした。自分がいろんなものをなくしてしまったような気がした。本が五十万部売れたと き、僕はもちろん嬉しかった。自分の書いたものが広い範囲の人々に受け人れられるということ が作家にとって嬉しくないわけはない。でも正直なところ、僕は嬉しいという以上にびつくりし てしまった。僕には五十万という数の人々をうまく想像することができなかった。読者としても 想像できなかったし、単なる「人間の数」としても想像できなかった。十万の人間なら僕にもな 年 んとか想像ができる。でも五十万ともなると、これはもう無理た。そのあとはもっとひどくなっ の 空た。百万と百五十万と一一百万、それらは僕にとって実体を持たぬたたの「巨大な数字」にすぎな かった。マス・メディアの人々にとってはおそらくその程度の数の人々を扱うことは日常茶飯事 年 囲なのたろうと思う。でも僕には駄目だった。考えれば考えるほど頭が混乱してきた。たから考え ないようにしようと試みもした。俺はそれまで十年間小説家として一応飯は食ってきたんた、数 字なんて今更関係ないさ、売れる売れないは時の運た、と僕は思おうとした。しかしそこには簡 401

5. 遠い太鼓

213 ンンリ テアーマのふたったが、マッシモの方はあまりにもマツンモ ( 巨大 ) なので、普段はポリテアー マの方を使ってオペラの公演をする。外から見ると例によってうす汚れた建物たが、中に人ると それほど悪くない。古い建物たけあって、それなりの雰囲気のあるなかなか立派な劇場た。天井 がぐうんと高く、ポックス席がぐるりを取り囲んでいて、金色と赤で統一され、十九世紀から今 世紀初頭にかけての地方文化の華やかさを偲ばせる。人口には古めかしい制服を着た案内係が十 人くらいすらっと並んでいる。僕はここでレス。ヒーギの『セミラーマ』という珍しいオペラと、 ロッシーニの『タンクレデイ』を観た。『セミラーマ』は前から二番めの席で二万リラ ( たいた い二千円強というところ ) であった。客席はほぼ埋まっていた。パレルモは娯楽の少ないところ たから、オペラがあると、人々は着飾ってテアトロにやってぎて、「やあやあ」と挨拶を交わ す。この温かさにもかかわらす、御婦人は汗をかきかき毛皮のコートを着てやってくる。もちろ んみんなに見せびらかすためである。ようするにここは華やかな街の社交場なのた。 もっともこの『セミラーマ』は音楽的にいささか冗長なオペラであった。僕は筋からしてよく わからないので ( 。ハンフレットは全部イタリア語 ) 、とても困った。けっこう筋が人り組んでい る上に、みんな同じようなたらんとした白い服を着ているので人物の区別がっかないのた。。ハ フレットをなんとか解読するとこの『セミラーマ』は、一九一〇年に一度公演されたたけの幻の オペラであるということたが、さもありなん。でもオーケストラがびたっとレス。ヒーギの音を出 していることには感しした。そういう音の「はまりはさすがにイタリアである ( 後日ンシリー

6. 遠い太鼓

205 シ・ンリ 。 ( レルモについてのガイドブックをいくつか読んでみても、この街の悪い部分についての記述 はます見当たらない。はつぎり言って、適当に良いことしか書いていない。まあガイドブックと いうのはもともと人々の旅行意欲をかきたてることを目的として作られた書物たから、あまりネ ガティヴなことを書いてはいけないのたろう。その中では英語版の『プルーガイド』がますます 正確な記述を行っている。引用する。 「。 ( レルモ。人口六十七万人。シシリーの州都にして、もっとも興味深い町。北の海岸の美しい 湾に面しており、コンカ・ドロ ( 黄金の盆地 ) の先端に位置する。こちんまりした盆地は石灰岩 の山に囲まれ、オレンジやレモンやイナゴマメ ( これがどういうものたかは僕にもわからない ) の畑で満ちている。港湾の潰滅的衰退や、手のつけようのないスラム街の存在や、街頭での殺傷 事件や、おそろしい交通渋滞にもかかわらす、。 ( レルモはそれでもなお訪れるに値する魅刀的な 町である。気候はもうしふんない」 。 ( レルモのいったいどこが「訪れるに値する」のか僕にはよく理解できないが ( 「興味深い」 というのは認めてもいい ) 、まあ世間にはいろんな考え方があるのたろう。簡潔にして要を得た 一記述であると思うが、僕としては街の醜さについての記述も欲しかった。 タクンーに乗って。フンタ・ライジ空港から。ハレルモに向かう ~ 翌肋で我々がます目にするのは、 おそろしい数の自動車修理工場と、どの観点から見ても詩的とよ、 。しいがたい郊外ア。ハート群の姿 である。それを通り過ぎて街に人ると、今度は。 ( レルモ名物交通渋滞に巻き込まれる。排気ガス

7. 遠い太鼓

たろうと僕は思う。車では速すぎて小さな物を見落としたり、ちょっとした匂いや物音を逃がし てしまったりする。歩きではいささか時間がかかりすぎる。それそれの町にはそれそれの空気が あり、それそれの走り心地がある。いろんな人がいろんな反応をする。道の曲がり具合、足音の 響ぎ方、歩道の幅、ゴミの出し方、それそれに全部違う。ほんとうに面白いくらい違うのた。僕 はそういう町の表情を眺めながらのんびりと走るのが好ぎだ。フル・マラソンを走るのも面白い けれど、こういうのも悪くない。僕も生きているし、みんなも生きているんたという実感があ る。そういう実感というのは、往々にして見失われがちなものた。 ある種の人々が知らない上地にいくと必す大衆酒場に行くように、またある種の人々が知らな 主月 い上地に行くと必す女と寝るように、僕は知らない土地に行くと必す走る。「走りごこち」とい ンう基準によって、はしめて理解できるものも世の中にはあるのた。 南

8. 遠い太鼓

1986 年 10 月 6 日日曜日・午後・快晴 蜂は飛ふ 申し訳ないが、これもまた疲弊を扱った文章の続きである。蜂のふたり組、ジョルジョとカ か引き続き登場する。そして彼らがそもそもいかにして生したかが、日曜日の午後のポル ゲーゼ公園の描写にかさねて語られる。作者自身についてのささやかな考察もある。 ジョルジョとカルロはまた僕の頭の中を飛びまわっている。でも彼らのことはなるべくもう考 えないようにしよう。べつのことを考えるように努力しよう。なるべく。なにしろ今日は日曜日 で、素晴らしい天気なのた。 僕はポルゲーゼ公園の莎の上に腰を下ろして日光浴をしている。屋台のオレンジ・ジュース を飲み、一人でぼんやりと空を眺めたり、まわりの人々の姿を眺めたりしている。もう十月たと いうのに、まるで夏がもういちど引き返してきたような暑さたった。人々はサングラスをかけ、 額の汗を拭き、アイスクリームを食べている。べンチに寄り添って座ったカップルがいる。シャ

9. 遠い太鼓

520 夜、僕らがローマで常宿にしているホテルのオーナーがやってきて ( その日、僕らは最後の夜な ーでカクテルを御馳走してくれて、この のでア。ハ トを引き払ってホテルに泊まっていた ) 、 町でそういう目に遇われて本当に申し訳ないと思う。鷽なことです。もしお金を取られてお困 りなら、そう言ってくたさい、必要な分はホテルからお貸しします。遠慮なんかなさらないでく たさい。日本に帰ってから送って下されば結構です、と言ってくれた。僕らは幸いなことに現金 はほとんど取られなかったので、その好意に対するお礼たけを言っておいた。でもこういう心づ かいを受けると、この街もそれほど捨てたものではないのたな、と思う。 でももう一度ローマに住みたいかと一言われれば、僕としてはやはりノーと答えるしかない。旅 行で来るのならまたしも、住むのはもうごめんである。。ハスタ・グラツツィエ。この文章を書い トを引き払って東京に帰ろうとしている。 ている十日後に、僕はローマのア。ハ ローマで暮らしたあいた、僕らは年中泥棒のことを考えていたような気がする。何処かに旅行 に出ると、帰ったら家の中のものがごっそりとなくなっているんしゃないかというようなことば かり心配しなくてはならなかった。そんな心配をしながら旅行をしていても、あまり楽しくはな もちろん啝凧にだって泥棒がいないわけではない。防犯にたってそこそこは気をつけなくては ならない。でも言うまでもないことたけれど、ローマほどひどくはない。東京に住んでいる人々 は毎日毎日泥棒のことを考えて暮らしてはいない。僕は東京に戻って人々がヒップ・ポケットに

10. 遠い太鼓

って長いヴァカンスにでかけてしまったのだ。そして見捨てられたチンクエチェントたちは文句 ひとっ言わす ( 言おうと思っても言えないわけたけど ) 、ひとり寂しく路上でお留守番をしてい るのである。 午後の日向はくらくらするほど暑いけれど、日陰に人ればひやりとして心地好い。ときどきも わっと熱気がおしよせるが、それを別にすれば、日本の夏よりはすっと過ごしやすい。ェアコン たっていらない。昼食のあとでプラインドを下ろして一時間はかり昼寝をする。その時間には街 中がしんとしている。夕方前に外に出て、道端のカフェでレモンのグラニータ ( シャーベッ ーム ) だが、僕はグラニータが好きた。冷 を食べる。イタリアといえばジェラート ( アイスクリ たくて、甘くなくて、そしてきゅっと酸つばい。本当のレモンで作ってあるから真剣に酸つばい のだ。そしてところどころにレモンの種が混ざっている。ローマの夏というと僕はレモンのグラ ニータを思い出す。 光はひどく眩しく、街を行く人々はみんな濃いサングラスをかけている。やがて日が暮れる と、人々はテヴェレ河のほとりを散策し始める。河の屋台船の上で食事をしている人たちの姿も 見える。サンタンジェロの広場に据えられたステージでは、派手な衣装を着たラテン・ジャズ・ ハンドが楽器の調整を始めている。昼間はぐったりしていた大たちもようやく息をふきかえし、 あちこちを小走りに走っている。 このシーズンは市場も食料品店もなにもかも全部閉まっていて、食べ物を手に人れるのが一苦