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検索対象: 遠い太鼓
435件見つかりました。

1. 遠い太鼓

「それがもうひとつよくわからないんた。親父は今でもそのことに腹を立ててる。待ってなくて よかったのにつて。せつかく奄が戦争に行って楽しくやって帰ってきたのに、うっとうしく待っ てやがるから結婚しないわけにいかなかったんたって。四十年間すっとそのことでふつふつ文句 言い続けてるんた。たふん偏屈なだけたと思うけど。母親は母親でまた怒ってるんた。せつかく 待ってたのに出ていく前よりもっと頭がおかしくなって帰ってきたって。あのね、メータ村出身 の人間って割に真面目で信仰心も強いんたよ。まともできちんとしてるの。それに比べるとサ ン・サヴィーノ出身の人間はいくふんシニカルたね。懐疑的で、ロが悪い」 「ウビさんにそういう性格がよく似てるのよ」とウサコが言う。 なんとなく奇妙そうな一家である。 ますサン・サヴィ ーノでおりる。村というよりは集落という方が近い。畑と家があるたけ。他 にはまったく何もない。お父さんの。 ( チスタの「小屋」というのを見てみる。葡萄酒蔵に簡易べ トをつけたような簡単な小屋である。でもお父さんはいない。人が寝泊まりしている形跡は確 かにある。自家製の葡萄酒の樽がいつばい積みあけてある。大きな白い大が全速力でとんできて ウビさんにじゃれつく。僕が手をたすと甘える。 「その大、人を見ると片っ端から噛むんた」とウビさんが言う。「サン・サヴィーノの大たか ら、性格が親父に似てる。でもちゃんと相手を見るからダイジョープ ( 日本語 ) 。心配ない」 小屋のまわりには小さな葡萄棚と、畑と、家畜小屋がある。大のト。ヒアはお父さんがいないと 265

2. 遠い太鼓

ったと思う ) を見にいったときも雰囲気はたいたい同しようなものだったから、これはたた単に 土地柄というものなのだろう。シネ・セゾンでこんなことやったらえらいめにあわされるたろ それからギリシャの映画は途中で必す一回か二回。ハシャッとフィルムが切れる。そして十分ば かり場内が明るくなる。フィルムの一巻めが終わって、一一巻めを ( あるいは二巻めが終わって三 巻めを ) セットしているわけである。これはギリシャのみならすイタリアでも同じである。まあ 休憩と思えばいいわけたが、しかし休憩にしては終わり方がものすごく唐突で、感興をそがれる ことおびただしい。映写機を二台買えば解決することたと思うのたが、こっちの人はそれをとく に不都合なことたとは考えていないようである。みんなそのあいたに便所に行ったり、チョコレ トを食べたり、前半の筋を総括したりしながら、元気に後半に備えている。コスタとイヤニス はまたコリントスの義母の話をしている。通路の隅では猫が熱心に睾丸を舐めている。子供たち はシートの背中を相手に「あちょー、あちょー」とカンフーの練習にはけんでいる。誰かがまた 大音量のロ笛を吹く。室蘭・仙台がすかさすすっとんでくる。テイタニア映画館の夜はかくのご とくワイルドに史けていくのであった。

3. 遠い太鼓

ている。設計は実に人念になされているし、ギリシャのこの手の建築物にしては例外的に細かい ところまできちんと作ってあった。建物の屋根にはミコノス独特の小さな鳩小屋を模したものが ついている。風が強くて外を走れない日には ( 風に押し戻されてうまく走れないのた、本当 に ) 、僕はよくこのレジデンスの中を走った。それくらいの広さがある。階段が多いので、けっ こう上り下りの良い練習になった。 玄関の脇に管理人室があって、ヴァンゲリスはたいたいいつも二羽のカナリアと一緒にここに いる。ここにいないときは、。フールの掃除をしたり、花の手人れをしたり、ゴミをあつめたりし ている。管理人室には小さなキッチンもついていて、僕の姿を見掛けると「おい ヒー飲んでいけや」と言って、柄のついた小さな鍋で例のどろっとした甘いギリンヤ・コーヒー を作ってくれた。そしてコーヒーを飲みながら辞書を引き引きいろんな話をした。ヴァンゲリス は戦争前にはビレエフスで。ハン屋をやっていたんたと言った。船乗りにもなっていろんなところ ス に行ったりもした。船を降りていろんな仕事をしていたが、ここに来たのは E* さんに誘われたか らた。 E-* さんというのはこのレジデンスを設計した建築家であり、そしてまたレジデンスの総合 ン オーナーでもある。彼がヴァンゲリスにここに来て管理人をやらないかと言ったのた。ヴァンゲ ヴ リスは一家でここに移ってきた。七年前のことである。 港 夏のあいたはもちろんヴァンゲリスも忙しい。忙しいなんていうもんしゃないね、と本人は言 う。言うたけではなくて、くしやくしやになるくらい顔を歪めてああ嫌たという表情をする。夏

4. 遠い太鼓

ある。だからこの「雉鳩亭」には看板も出てはいないし、名前さえついていないのである。まし てや広告なんか全然やらない。原則的にはここはあくまで個人の別荘なのである。そこに奥さん の好意で泊めてもらっているのだ。こういう宿屋ってなかなかない。 たたし、これはそのアメリカ人のカップルも言っていたことだが、彼女がひとりきりで孤軍奮 闘してやっていることだけに、今はまあなんとかうまくいっているけれど、こういう能勢がいっ まで続くかは誰にもわからない。それにスイス人という人種はイタリア人とはちがって、なんで も一生縣大叩にやるから、見ていても痛々しいくらいである。掃除は隅々まできちんといきとどい ているし、いつも客のことを考えて気を張っている。そんなに細かく気を使わなくてもいいのに と思ってしまうくらいである。とてもよく気がつく人なのたが、それたけに疲れるたろうなとっ い思ってしまう。イタリア人なら。 ( ーセントくらいのカで働くところを、この人よ 0 。、 8 ノーセン ト気を張って働いている。でもそういう雰囲気がいかにも素人の奥さん商売という感じですがす がしくてよかった。 その同宿していたアメリカ人のカツ。フルはもっとイタリアをいろいろと回る予定だったのた が、この旅館が気に人ってするするとキャンティーにいついてしまって、「もう何処にも行かな いでここたけにいますよ」ということであった。僕らもここがすっかり気に人って、もうすこし のんびりとしたかったのたが、でもその時は先に予定があったので ( 翌日にはウーディネという 北部の町に到着しなくてはならなかった ) 、残念ながら一泊たけで出発せざるをえなかった。

5. 遠い太鼓

きつばなしにしても、全然安心である。ひったくりにも、置キ . 引きにも、ジ。フシーにも気をつか う必要がない。これはイタリアに暮らしている人間にとっては天国みたいに思える状況である。 僕らはこの国に人って本当に久し振りに、心からほっとした。そしてこういうのこそ人間の暮ら すべ、環境なんだと思った。よくニューヨークに行って、こういう刺激のある場所しゃないと面 白くないと言う人がいるけれど、僕はそんな風には思わない。誰が何と言おうと安心して暮らせ る安全な場所がまともな場所である。そういう点、オーストリアは言うことのない国た。刺激な んていうものは、人間ひとりひとりがそれそれに自らの内に作り出していくべぎものなんしゃな し、刀 ザルップルクには車で人った。ところがザルップルクというところはもう実に迷路そのもの で、路地がくねくねと曲がり、一方通行と車両進人禁止と行き止まりの連続である。丘の上のホ テルを一軒予約していったのだが、結局どうしてもここに行着くことができなかった。カフカ の小説みたいに何度やっても同じところに戻ってきてしまうのた。一時間くらいこれをやってか らあきらめてホテルに電話をした。「今ここにいるのだけれど、道順をおしえてくれ」と言った ら、「とても電話では説明できないのでタクンーを雇って、そのあとを付いてここまで来てくれ」 と言われた。でも僕らはもうとにかくくたくたに疲れ切っていて、今からそんなことをする一兀気 もなかったので、そのホテルはキャンセルして街の人口にある大駐車場に車を停め、中心地の小 さなホテルにチ、ツク・インした。音楽祭のあいたは飛び込みで町中のホテルなんか取れないと 、、 0

6. 遠い太鼓

168 今はもう会社は辞めているよ。海運業は不況になっちゃったからね。それでこの故郷のミコノ スに帰ってきて仕事をしているんた。なんといっても自分の生まれたところがいちばんたから ね。 でも夏はひどいね、うん、夏は最悪た。なにしろ夏になると、島の人口は冬場の五倍に増える んた。五倍たぜ。それたけ人口が増えると、何もかもが足りなくなるんだよ。電気から食料品か ら、水たって足りなくなる。しかたないから近所の島から水を買うんたよ。タンカーに水を積ん で運んでくるんた。たから当然のことながら物価が高くなる。夏になると何もかも値段が高くな るんたよ。観光で飯を食ってる人はまあ仕方ないけれど、関係のない住民はみんな怒ってるよ。 外国人の観光客につくづくうんざりしてるよ。当然たね。冬はいいよ、静かで。多くの住民は夏 のあいたに稼いだ金でミコノスの郊外に大きな家を建てるんた。そして冬のあいたはそこでビデ オを見たりしてのんびり過ごすんた。みんな金を持っているからね。 ミコノスでも日本にいたことがあるという人には何人も会った。だ、こいは貨物船の船員であ る。それから朝鮮戦争のおりに日本に行ったという人も何人かいた ( ギリシャは国連軍の一員と して朝鮮半島に派兵したのた ) 。元船員たちは日本の小さな港のことをよく知っていた。彼らは もうかなり歳をとってはいたが、みんながっしりとした体つきで、今でもよく日焼けしていた。

7. 遠い太鼓

378 僕らは、、 ( スでポンテ・ 、、ルヴィオまで行く。ます魚屋に行って鮭を買う。鮭は輸人品たから ( もちろん地中海で鮭はとれない ) 決して安くはないが、我々にとっては非常に利用価値の高い 魚である。これ一匹あれば鮭寿司も作れるし、塩焼きもできるし、頭を使って吸い物も作れる。 ありがたいことに身を買うと頭をたたで貰える。何故ならイタリアの人は鮭の頭なんてます使わ ないからた。あのかまの美味しいところも使わないで捨ててしまう。た、たい一キロで三千円く らい。好きなたけ切って売ってくれる。うろこを落とし、はらわたを出し、頭を切り、それから 輪切りにして量り売りしてくれる。僕らはいつも上半身の方を取る。しかし見ているとよく上半 身たけ売れ残った鮭があるから、イタリア人は下半身を好んで買っていくのかもしれない。僕ら は二千五百円分の鮭を買った。 魚屋さんの雰囲気というのは世界中どこでもたいたいみんな同しである。ゴム長をはいた偏屈 そうなお父さんと、健康そのものといった感じのお母さんが二人でやっている。腹を裂かれた鰻 が、それでもによろによろと逃け出し、それをお母さんが追い掛けている。「えええつつらしゃ シニョーラ、いい鯛が人ってるよ」というような威勢のいい声があちこちで飛び交う。 隣の魚屋で大きめの鰯を七匹と、イカを五匹買う。鰯はとても安く、イカはちと高い。全部で 千四百円。 マト、キウリ、 それから野菜。大根を三本と蕪。きのこを二キロ。ト ジャガイモ、ビエダ ( 京 菜に似た野菜 ) 、ホーレン草、インゲン、 ハジリコ、等々。二人で両手にいつばい荷物を抱え、

8. 遠い太鼓

286 復活祭のせいで、アテネの街はがらんとしていた。みんな故郷に帰るか、旅行に出るかしてし まったのだ。店の多くはシャッターをおろし、通りには活気がなく、ウェイターたちはなんとな くせつなさそうに仕事をしていた。いつも行く安いレストランが閉まっていたので、。フラーカの 近くの外国人向けのレストランで食事をした。なかなか美味しかったのだが、勘定書きをみると 「ドロン、という項目がついて、料金が加算されている。そんなものこれまで見たことがないの で、ウェイターを呼んで尋ねてみると、それは復活祭の期間の公認特別料金のことですというこ とであった。日本の正月料金のようなものである。それが 7 。ハーセントつく。レストランたけで はなくて、タクシーにもこれがつく。まあ公定料金として決まっているたけ明朗会計ではあるの たけれど。 二、三日アテネで暇を潰し、それからまたプリキ缶みたいな飛行機に乗ってミコノスに行く。 久し振りにヴァンゲリスに会いたかったし、暖かくなった春のミコノスも見てみたかったから た。ヴァンゲリスはあいかわらすのんびりと働いていた。管理人室のカナリアには子供が生まれ ていた。うちによく遊びにきていた雌猫にも四匹の子供が生まれたそうである。僕はイタリアで 子供用の靴を買って、ヴァンゲリスの孫のためのお土産に持っていった。それを渡すとヴァンゲ リスはすごく喜んだ。「なあハルキ、いよいよ年金だよとヴァンゲリスは僕の肩を叩きながら とても嬉しそうに言った。「やっと年金が人ってくるようになったんた。これでもう働かなくて

9. 遠い太鼓

560 機械を想起させた。生命あるもの・ないもの、名前を持つもの・持たぬもの、かたちのあるも の・ないものーーそういうすべての物事や事象をかたはしから飲み込み、無差別に咀嚼し、排泄 物として吐き出していく巨大な吸収装置た。それを支えているのはビッグプラザーとしてのマ ス・メディアた。まわりを見回して目につくものは、咀嚼され終えたものの悲惨な残骸であり、 今まさに咀嚼されようとするものの嬌声であった。そう、それが僕の国なのた。好むと好まざる とにかかわらす。 僕はイタリアから帰ってきて、それからすぐにアメリカに発った。そして一カ月半ほどそこに 滞在した。出版の。フロモートのためだ。ニューヨークに行ったのは久し振りだったけれど、特に 違和感は感しなかった。まあそういうところたろうと予測できる通りのところだった。もちろん ニューヨークなんかに住みたいとは思わない。でも反応のストレートなふん、かえって東京より は違和感を感じすにすんだという部分もあった。 ニューヨークのレストランであるアメリカの作家にあって、話をした。彼は日本に行って戻っ てきたばかりたった。「おい、日本人ってみんなャツ。ヒーなんだ、せ」と彼は仲間に向かって言っ ていた。でも僕にはどうもよくわからなかった。いったい日本の社会のどこがヤッビー社会なの だろうか ? どこがヤツ。ヒーなんだろうと僕は尋ねてみた。彼はこう言った。「たとえば

10. 遠い太鼓

278 ト・スカートをはいて階段を上って行く女の子やら、新型のアルフア・ロメオのギャ・ンフトの ことやらを考えるのに忙しくて、いちいち苦行なんてやっている暇がないのだ。冗談抜きで、本 当にそうなのだ。 、カーを見掛けたのは、イタリ 前置きが長くなったけれど、僕が初めてイタリア人の / 、ク / ーポートの船上であった。それ ア南岸の港プリンディシからギリシャのパトラスに向かうフェリ は復活祭の週末のことで、船はギリシャ旅行に出かける若者でいつばいたった。いろんな国の。 ( ン。、ン 、カーたちがデッキの上に集まっていた。その中にけっこうたくさんイタリア人がいた 船上のイタリア人っ ( ックパッカーたちはまるで仕事上がりの炭坑夫たちの列に紛れ込んた・ ( レ ーナみたいに一目で見分けがついた。次の四点で。 声が大きい。 ) 月が派手。 ( 、 / 、が亜」し ④よく食べよく飲む。 とにかくよく目立つ。他の国の・ハック。ハ ッカーたちは疲労し、あるいは来るベ疲労に対して カーくらい エネルギーを蓄えるべくじっとおとなしくしているのだが ( 総じて一一一口えばック おとなしい旅行者はいない ) 、イタリア人たけがよくいでいる。でもそれはそれとして、彼ら はとにかノ、・ノ ッカーだった。リュックを背負って、ジョギング・シューズをはいていた。 イタリアにもちゃんとパック。ハッカーはいたんた、と僕は思った。 でも。ハトラスの港について判明したのたが、彼らはただ単にリュックを背負っていたというた