アルフアハイツに引っ越してきてから、一カ月になろうとしている。 「なんかこう、中途半端な名前のアパート、、こ オね」と、さっちゃんには言われたけれど、 あたしはけっこ、つこのアルフア、 ノイツという名が気に人っている。 「生活費とか、どうしてるの ? 」さっちゃんは聞いた。 「まあ、バイトもあるし」 あたしは、大学に人ってすぐに、駅前の「スナックりら」でバイトを始めた。「ス ナックりらって、なんだか古くさそうなお店」と、さっちゃんには笑われた。「りら」 のママは、あたしの伯母なのだ。スナック、と名はついているけれど、ほとんど「お 笹の葉さらさら 147
、バンちゃんが持ってきたお飾りのえびが手の先に触れた。そ 腕を上にさしのばすと のまま握ってみたら、えびはつめたかった。 明日はバイトかあ。家賃、二カ月遅れてるんだよなあ。バンちゃんと一回くらいセ ックスしてみたいなあ。とりとめもなく思いながら、わたしはてのびらを握ったり開 いたりした。電灯のかさはあいかわらず暗闇の中で薄く浮き上が 0 ている。てのびら の中のえびが、ざらざらしている。わたしはもう一度てのひらをぎゅっと握 0 てみた。 いくら強く握 0 てみても、いつまでも、えびはつめたいままだ「た。 51 ーーーざらざら
今日は機嫌が悪いのかなとちらりと思ったけれど、気にとめなかった。そのときは、 朝のことは忘れていた。 翌日も、翌々日も、籠おばさんは無言だった。籠に顔を寄せるように話しかけても、 しんとしていた。わたしはあせった。どうしよう。籠おばさん、いなくなっちゃった の ? 急激に、淋しさがやってきた。前は平気で一人で暮らしていたのに、籠おばさんが いる生活にすっかり慣れてしまった後では、一人でいることの孤独が身に沁みた。 その翌日も、そのまた次の日も、籠おばさんが戻ってこないかと、わたしはそわそ わ籠を覗きこみつづけた。でも籠おばさんは帰らなかった。 どこ行っちゃったの。 わたしは何回も、あけびの蔓の籠に向かって間いかけた。答えは、なかった。 籠おばさん、本当にいなくなっちゃったんだ。 一カ月ほどたった火曜日の朝に、わたしはしみじみと思った。 205 ー一月火水木金土日
そういえば、子供のころはいつも床屋さんで髪を切っていた。 年子の兄と二人連れだ「て、家から歩いてすぐの、おばさんとおじさんでや。てい る床屋さんに、三カ月に一回通 0 た。兄はおじさんの手で坊ちゃん刈りに、わたしは おばさんの手でおか 0 ばにしてもら 0 た。首の後ろがすうすうしながら帰る道すがら、 兄とわたしはニッキ味の飴をなめた。おばさんが、料金を払うときに必ずくれるので ある。 「手をお出しなさい」とおばさんは言う。兄はてのびらをい 0 ばいい 0 ばいに、わた しは少しすばめるようにして、おばさんの前に差し出すと、その上にま 0 黒い大きな ノ
くっ下をはくのかを聞くことはできなかった。 しさカ それから一年ほどは母と諍いをすることがなかったので、晴彦さんのところに泊ま りに行くこともなかった。けれど一年が過ぎたころ、あたしは「鳩子の大爆発」と後 に晴彦さんが呼んだ、生涯で最大規模の喧嘩を母とすることになる。 大学生だったあたしは、、 月さなスーツケースに身の回りの品と教科書を詰めこんで、 家を飛び出した。恋人のところへ行きたかったけれど、ころがりこむまでの関係には、 まだなっていなかった。それで、晴彦さんのところに行った。 晴彦さんはあたしの提げている茶のスーツケースを見て、いつもよりほんの少しだ け強く、眉をびそめた。あたしはどきんとした。晴彦さんが、男のびとに見えた。女 たちが自分の内部に踏みこんでくるのを、こうやって拒否してきたんだろうなと思っ た。でもあたしは何くわぬ顔をしていた。ひそめられた眉なんかにぜんぜん気づいて いないふりをした。 一カ月間、あたしは晴彦さんの家にいた。 109 ノヾステ / レ
菊ちゃんとはあのころ、一カ月に一回か二回、一緒にお酒を飲んだ。お酒を飲むば かりで、手を握るわけでも肩を組むわけでもない。男どうし、女どうしだって、もっ とべたべたとくつつきあって飲んでいるというのに、菊ちゃんとわたしとは、つねに 厳正な距離を保っていた。 しつもは夜に会うのだが、あるとき菊ちゃんのほうから、昼間に会おうと言ってき 「お日さまの出ている時間に、手なんかつないで歩いちゃったりしてもいいし」など と菊ちゃんは電話の向こうで言った。どうやら少し酔っぱらっていたらしい。一緒に いて酔っているときにはちっとも様子が崩れないのに、違う場所にいて一人で酔って いるときには、わたしに対してへだてがなくなるのであるらしかった。 菊ちゃんと、公園に行った。公園前の駅の改札ロで待ち合わせ、正門でお金をそれ ぞれ払い、順路にしたがって歩いた。アイスクリ ームを売っている売店のところで、 菊ちゃんは立ち止まった。買う ? と聞く。寒いよ、まだ。わたしが答えると、菊ち 33 ーー菊ちゃんのおむすび
ことができた。 わたしはひそかに「籠おばさん」という名を、声につけた。 最初のうち籠おばさんは、わたしの気質、というのだろうか、、ハイオリズム、と、 うのだろうか、そういう微妙な、日々の気分の変動を、あんまりわかっていないよう だった。疲れているときにくどくど話しかけてきたり、はんたいに、人恋しくてわた しが誰かと喋りたい気分なのに、黙りこんだままだったりした。 けれど、一カ月もたつうちに、籠おばさんはすっかりわたしの気持ちの起伏を飲み こんだようだった。しょんばりしていると、籠おばさんは優しい声で「明日はよく晴 、イト先の、わたしが片思いをしている店長と親しく話 れるわよ」と言ってくれた。。ノ かふく すことができてうきうきしていたときには、「油断大敵、禍福はあざなえる縄のごと し」なんてささやいて、興奮をさましてくれた。 毎日バイトに出かけるとき、わたしは自分から籠おばさんに「いってきます」と挨 拶をするようになった。帰ってきたときには「ただいま」、眠る前には、電灯を消し 203 - ー一月火水木金土日
気分など、ミコちゃんはぜんぜん理解しない。男が自分に飽きてしまうかもしれない と恐れる気持ちも、去った男にうじうじ執着する気持ちも、「次」なんかどうやって 見つけたらいいのという意気地のなさも、ミコちゃんにはぜんぜん理解できないのだ。 「ミコちゃんて、今も恋人、いるの」わたしは聞いてみた。 「うん、公式には二人」えりちゃんは答えた。 「公式 ? 」 一カ月に二回以上会う相手が、公式。それ以下のは、ド、、 丿公式なんだって。えりち ゃんはロをとがらせて言った。 わたしたちは顔を見あわせ、軽いため息をついた。それから、気を取りなおして、 夕飯のしたくにかかった。えりちゃんもわたしも、料理上手なのだ。いつほうのミコ ちゃんは、「華麗」タイプの定石どおり、手料理なんかはほとんどしない。 わたしたちはエプロンをつけた。えりちゃんのは、刺繍のしてある白っぽいの。わ たしのは、うすビンクのびらびらの。
せつかくの親子三人水人らずなんだから。そう言いながら、母はマウイ島のコンド ミニアムの予約をてきばきと手配した。自炊しましようよ。なんなら、一カ月くらい いいじゃない。母はそうも言ったが、むろん私は仕事があるので、 滞在しちゃっても、 そんなに長くはいられないと断った。 なぜ三人で旅に出ることになったのだったか、そもそもこの旅行の目的が何なのか、 最初から曖味だった。「鈴子も三十だから」というのが、母のつけた一応の「理由」 ではあったが、三十になったからといって、私には結婚の予定があるわけでもないし、 今が仕事の暇な時期というわけでもない。おかあさん、また真田さんや緑川のおばち やまたちと一緒に行ってくればいいじゃない、と私は勧めてみたのだが、母は、もう 決めたことだから、と、かぶせるように言った。三人で行きましようよ。ね。 こういう調子で母が決めつけてくるときには、決して父も私も逆らうことはできな ねえおとうさん、本当に行きたいの。父のパスポートを一緒に取りにいったときに
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