ージの中に、横を向いた中林さんや、うつむいた中林さんや、はんぶん裸の中林さん が何人もあらわれるたびに、あたしはにつこりと笑った。でもそのうちに、また悲し くなった。「せめて、喋ってよ」と、あたしはスケッチの中林さんに向かって言った。 中林さんは喋ってくれなかった。しかたないので、あたしはそれぞれの中林さんのロ のところに吹き出しをつけた。「杏子ちゃん」とか「今日はいいお天気だね」とか「こ んどまた会おうね」と吹き出しの中に文字を人れた。ばかみたい。あたしはいやにな った。今夜は泣くぞ、とあたしは決心した。それで、ばかつぼく、だらだらと、泣い た。でも、あんまりばかみたいで、このままずっとばかが治らなくて中林さんにふら れると困るので、途中で泣きゃんだ。 土曜日。 ほんとうなら今日中林さんと会うはずだった、ということを考えないために、あた しは部屋の模様替えをすることにした。仕事机と食卓と箪笥を移動し、カーテンをか け替え、押し人れの中のいらないものをより分け、それでも時間が余ってしまったの で、近所の古道具屋に行って、かねがね注目していた古い型の石油ストーブを買った。 コーヒーメーカ
感じの着こなしだ。このあたりのはやりなのかもしれない。しばらく見ているうちに、 男の子たちが恰好よく見えてきた。 いつくしみに満ちた小 学生たちを見ながら、飼っている猫の話をしていたときの、 説家の表情を思い出した。なんだかうらやましかった。それほどいつくしまれる猫が うらやましいのか、それとも、それほどいつくしむ対象がいる小説家のことがうらや ましいのか。 誰かを好きになりたいな。唐突に思った。 恋は、もうずいぶんしていなかった。たぶん、三年くらい 駅前の案内所でホテルを探してもらった。 「駅前のホテルは、今日はどこもい 0 ばいですね」しばらくコンビーターのキーを かちやかちゃと打った後に、案内所の女の子は早ロで言った。え、と驚くと、女の子 はすまなそうに口をすぼめた。今日は、サッカーの試合なんです。 そういえば、この町の名前を冠したリーグのサッカーチームがあったな。私はば 89 ーーーオルゴール
とか家庭なんて、すぐに壊れるもの。それが、あたしの「将来」の前提だ。「スナッ クりら」では、しつかり「おふくろ」系の料理の腕をみがこうと思っている。将来の 何に役立つかはわからないのだけれど、技術や資格を一つでも多く身につけることは 大切なことだ。アルフアハイツの薄い。へら。へらした扉に鍵をかけ、あたしは今日もタ 暮れの中、「スナックりら」へ向かう。 小さな店の集まったその道筋には「五番 「りら」は地元の飲み屋街の一角にある。 街」という名がついているので、「りら」のカラオケでは、毎晩必ず一回は「五番街 のマリ ーへ」が出る。 常連、といわれる人たちは、ほんとうに毎日来る。「由真ちゃん、今日も元気だね」 なんて言いながら、小鉢一つに焼き魚を一皿つけ、燗酒の二本ほどを飲むと、すっと 帰ってゆく。うちのお客は、きれいな飲みかたの人が多いから。協子伯母が自慢する 「いやらしく」ない。 だけあって、ほんとうに「りら」のお客は、なんというか 伯母は、若いころ一回だけ結婚したのだけれど、子供ができないというので三年で 149 ーー笹の葉さらさら
ないし、執着がものすごくあったのに無理に別れたわけでもないから、気軽にそう思 えるのだ。ハッカの結晶は、今日はあまり辛くなかった。日によって味が変わるのだ。 本屋さんに行って、店の隅から隅までを時間をかけて見た。いつもならば二冊くら いと思っていても、気がつくといつの間にか十冊ほどの本を買いこんでいるのだが、 今日は一冊もほしい本がない。しかたがないので、料理コーナーに行って、おむすび の本を立ち読みした。 おむすびの本、とわたしは呼んでいるが、ほんとうはイタリア料理の本だ。イタリ ア料理の本のくせに、肝腎のイタリア料理の写真は、あまりおいしそうではない。本 の最後のほうにおまけのように載っている「イタリアの食材を使ったおむすび」とい ーニャカウダーとおむすび」「アー いやにおいしそうなのである。「バ う写真だけが、 テイチョークむすび」「トマトとアンチョビで」いくつかのイタリアふうおむすびを、 じっとわたしは眺める。それから本をばたんと閉じ、平積み台に戻す。 結局一冊も買わないまま、本屋さんを出る。 ノ、ツカ
今日は機嫌が悪いのかなとちらりと思ったけれど、気にとめなかった。そのときは、 朝のことは忘れていた。 翌日も、翌々日も、籠おばさんは無言だった。籠に顔を寄せるように話しかけても、 しんとしていた。わたしはあせった。どうしよう。籠おばさん、いなくなっちゃった の ? 急激に、淋しさがやってきた。前は平気で一人で暮らしていたのに、籠おばさんが いる生活にすっかり慣れてしまった後では、一人でいることの孤独が身に沁みた。 その翌日も、そのまた次の日も、籠おばさんが戻ってこないかと、わたしはそわそ わ籠を覗きこみつづけた。でも籠おばさんは帰らなかった。 どこ行っちゃったの。 わたしは何回も、あけびの蔓の籠に向かって間いかけた。答えは、なかった。 籠おばさん、本当にいなくなっちゃったんだ。 一カ月ほどたった火曜日の朝に、わたしはしみじみと思った。 205 ー一月火水木金土日
兄とわたしの立場が逆転したのは、わたしが高校に人学したころだった。 兄はしよっちゅう高校をずる休みしていた。選択授業だから、今日は昼からなんだ よ。そんなふうに母には言い訳をしていたけれど、それが嘘だということを、わたし は知っていた。高校の選択授業で、週のうち四日も午後しか授業がないなんて、あり えない。 わたしは兄よりもランクがずいぶん上の高校に受かった。兄を見返してやれ、とい うほどのことでもなかったのだけれど、兄へのひそかな対抗意識が心の奥底にあって、 必死に勉強したのは、まちがいない。 兄は大学へ進学しなかった。受験のために、と貰ったお金は全部競馬で使いはたし た、ということは後年聞いた。どこにも受からずに ( というより、元々どこも受けず に、ということになるわけだが ) 、兄はバイト生活に突人した。 ハイトは夜のものだった。そのころになると、父も母も兄の生活にはいっさい口を はさまなくなっていた。高校在学中に、二度ほど兄は大暴れをしたのだ。居間のソフ 132
あたしはびつくりした。今日が自分の誕生日だっていうことを、すっかり忘れてい たのだ。 「ありがとう」あたしはようやくのことで言った。泣きそうだった。でも泣くと後々 まで修三ちゃんにイヤミを言われるから、こらえた。 その夜は遅くまで騒いだ。臭いチーズを無理やり修三ちゃんが食。へさせようとする ので、あたしはきゃーきゃー言って逃げた。最後にびとかけだけ食。へたら、あんがい おいしかった。「おいしいね」と言ったら、修三ちゃんは「ほらみなさい」と言った。 あたしはえへへと笑った。そのあと修三ちゃんは、プレゼントだよ、と言いながら、 草原の山羊と農夫がアップリケされた布を、押しつけるようにしてあたしに手渡した。 翌日目が覚めると、あたしはまだ修三ちゃんの部屋にいた。客用布団の枕もとに、 草原のアップリケの布がたたんで置いてある。修三ちゃんは会社に行ってしまったよ うだった。部屋の中にはあたしの気配しかない。 「スープがあるから温めて飲みなさい」というメモが食卓の上にあった。修三ちゃん
ニッキ飴を置いてくれた。全部なめ終える前に、わたしは飽きてしまって、途中から はいつも噛んだ。歯の裏に飴がくつついて、いつまでもとれなかった。口を開けて、 と息を吐くと、ニッキの匂いがした。 久しぶりに、床屋さんに行こう、と思「たのだ。今日は土曜日で、曇り空だ。午前 中ぎりぎりまでわたしは寝ていた。起きてすぐお湯をわかして、コーヒーをいれた。 いれたけれど、 ハイレックスのガラスの器の中で熱く静まっているコーヒーを、ただ わたしは眺めるばかりで、どうしても飲む気持ちになれなかった。 「おはよう」と、声に出して自分に言ってみる。かすれた声だった。案外セクシーな 声だな、と思った。それから、ため息を一つ、ついた。テレビをつけると「おいしい ランチを食べられる店」がうつっていた。ズッキーニと茄子とトマトのパスタ。 タは平打ち。 原田くんがきしめん好きだったことを、わたしは思い出す。
「あたしは、あたしよ」 自信に満ちた声だった。気圧されて、わたしは何も答えることができなかった。急 いで運動靴の紐を結び、外へ出た。よく晴れた青い空が、目の前に広がっていた。 それからは、ひんびんと声は聞こえるようになった。朝起きて新聞を取りにゆくと きに、ま、ず三一一 = ロ。 ハイトに出るときにも、一一一 = ロ。帰ってきて、一一一 = ロ。掃除の最中に、 一一一 = ロ。昼間べランダを開け放して風に吹かれながらうたた寝していると、一一一 = ロ。 だんだんに、わたしは慣れてきた。たびたびだったから、というのもあったけれど、 声の喋る内容が、なんだかものすごく、親類のおばさんみたいだったから。 「女の子はそんな小さなパンツはいてちゃだめよ、おなかが冷えるでしよ」だの、「も っと姿勢よく歩きなさい」だの、「今日はいつもの迷いぐせがでなくて、おりこうだ おび ったわね」なんていうことばかり、声は喋った。怨念めいたことや、人を怯えさせる ようなことは、ぜんぜん言わなかった。親類のおばさんだけあって、疲れたときなん かには時々お説教くささが鼻につくこともあったけれど、おおむねは気軽に聞き流す 202
もずっと大きい。「へんなの」と言ったら、修三ちゃんはいばって、「遠近法よ、あん た絵描きのくせにそんなことも知らないの」と言った。草原の上には小さな雲が浮か んでいた。 「アン子、今日、暇 ? 」という電話が修三ちゃんからかかってきたのは、リハビリを 始めてから四カ月ほどたったころだった。 いつでも暇だよ、あたし。そう答えると、修三ちゃんは笑った。 言われたとおり、三千円のワインと臭いチーズ ( 修三ちゃんの好物 ) と臭くないチ ーズ ( あたしが食。へられるや 3 を買って、修三ちゃんの部屋へ向かった。冬にして はぼかぼか暖かい日だった。部屋に入ったとたんにクラッカーの音がした。 ートと鶏のから揚げ 「お誕生日おめでとう」修三ちゃんが言った。食卓の上に苺ショ とサンドイッチが並んでいた。アン子の好きなものばっかり作っておいたわよ。まっ たく嗜好が子供なんだから。修三ちゃんはつけつけした言いかたで言ったけれど、顔 は笑っていた。 8 ターー山羊のいる草原