だからだ。 ねえ、このごろ面白いこと、あった。ゆきちゃんはハヤシライスを大きくスプーン ですくいながら、聞く。えーとね、ものすごく小さなおばあさんのやってるクリーニ , いさいって、猫とかチワワとかノ \ 、ら ング屋を駅の反対側で見つけたよ。私は答える。 い ? それほどじゃない、中くらいの羊くらい。それって、けっこう大きいよ。 ゆきちゃんは三年前に中途採用されてこの会社にやってきた。前は音楽関係の出版 社に動めていたらしい。私は最初からこの会社で、人社の翌年に会社の誌をつく る今の部署に配属された。ゆきちゃんとはすぐに仲よくなった。一カ月に二回くらい 一緒に飲みにいく。 昼ごはんを食。へているときには「小さいおばあさん」の話や「び、 で始まる海の動物」の話なんかをするけれど、飲みに行くときにはお互いの恋愛の話 をする。 ゆきちゃんにはたいがいいつも恋人がいる。今は髭のある男の人。その前はバンジ ヨーを弾く人 ( 本職は会社員 ) 。その前はギターを弾く人 ( 本職もギター弾き ) 。その 前は中国の人。私は言葉のしりとりが好きだけれど、ゆきちゃんもしりとりみたいに 19 ーーびんちょうまぐろ
いすずさんのコレクションの中には、地下鉄の切符もある。 まんなかに太いすじの人った、簡素な切符。かたちはみんな同じだけれど、黄色と きみどりとうすむらさきの、色ちがいの三種類である。 「これ、なに」聞いたら、いすずさんはやさしい声で、 「カルネ」と答えた。 「なにそれ」 「あのねえ、 ハリのメトロとバスの共通回数券」 ああなんだ、地下鉄の切符か。あたしが答えると、いすずさんは不満そうに、 「メトロとバス」と訂正した。 黄色が、二十五年前にパリに行ったときのでしよ。きみどりは、七年前の。うすむ らさきは、ついこの前のよ。ときどき、モデルチェンジして色を変えるのね。 いすずさん、最近パリに行ったんだ。あたしが驚くと、いすずさんは、そうよ、と すまして答えた。お金、あるんだ。また驚くと、あんまり、ないんだけど。いすずさ んは、もそもそ答えた。 178
っ越しは、千寿ちゃんにいつばい手伝ってもらって、無事にすんだ。新しい部屋 は前の部屋よりも 2 NE 広くて、お手洗いと浴室が別々になっている。そのかわり前の 部屋よりも駅から三分多く歩く 「美代子って、けっこういつばい服持ってたんだね」千寿ちゃんは新しい部屋の床に 。へたりと座りこみながら言った。今度の部屋はじゅうたんが敷きこみになっている。 前の部屋でフローリングの上に置いていたラグは、押人れの小さな天袋にしまい、ざ ぶとんを三つ、新しく買った。 千寿ちゃんはざぶとんの上には座らず、かわりに胸にざぶとんを抱きかかえている。 抱いたり抱かれたりするの、あたし、大好きなんだ。千寿ちゃんがつぶやいたので、 わたしは笑った。 おなかすいちゃったね、と千寿ちゃんが言った。何か作ろうか。わたしが聞くと、 千寿ちゃんは首を振った。疲れちゃったから、作らなくていし でもわたしはまだ疲れてないから、と一言うと、千寿ちゃんはまた首を振り、疲れは
ぐずぐずもの人れに戻した。 ようやく決心がついたので、玄関に戻ってみた。おそるおそる運動靴をはいたが、 声はしなかった。いそいで扉をあけ、鍵をしめ、はやあしで駅まで行った。 駅に着く前に、声が言ったとおり、ほっりぼつりと雨が降りだした。 次に声がしたのは、金曜日の昼だった。バイトは遅番だったので、少し寝坊をした。 ご飯を食べる暇がなくなって、前の晩にあけたビスケットの包みから、チョコビスケ ットを二つつかみだし、白い運動靴をはきながら、一つをかじっていた。 「お行儀の悪いこと」 水曜日と同じ声だった。少し歳のいった、女の人の声。 びやっ、と息をのんで、またわたしは尻もちをついた。 怖くて怖くて、動けなかった。水曜日は、そら耳かもしれないと思っていたので、 まだよかったのだ。でも、そうじゃないということが、これでわかってしまった。 「怖がること、ないのに」声は、そうつづけた。 200
こ上等。 伯母は煮物に火をいれはじめた。開店の時刻だ。常連の宮本さんが、まだのれんを 出す前だけれど、にこにこと人ってくる。いらっしゃいませー。伯母とあたしは声を そろえる。 アルフアハイツの隣家の庭の一角には、、 月さな竹藪がある。その中の、道に張り出 している笹の枝に、七夕の少し前から、次々に短冊がさがるようになった。 「隣の家の人が短冊をさげるんじゃなくて、通りがかりの人がどんどん勝手にくつつ けてくみたいなんだけど」と伯母に聞くと、伯母は、「ああ、あれ、町内ではちょっ と有名なのよ」と答えた。カウンターに陣どっている酒田さんと武井さんも、「うん、 そうなんだよね」と話に加わってくる。 先代からこの町で時計屋を営んでいる酒田さんによれば、アルフアハイツ横の竹藪 の は、隣家が建つ以前からあったのだという。もともと大きな竹藪だったものを、売地笹 、ことを示すためにも、 にした時にあらかたならしてしまったのだけれど、地盤がい
た本をまだ返していないことを突然思い出したりする。本は、クロゼットの奥に置い てあるダンポール箱に入っているはずだ。きっと一生返さないにちがいない。あたし は部屋の天井をじっと見た。アイボリーの清潔な天井。十年前に改築した家だ。姉と 共同の部屋ではなく、自分一人の部屋が持てたことが嬉しかった。十年前におこづか いをはたいて買 0 たリバティープリントのカーテンが、今も窓にかかっている。あた しって、 い 0 たい誰だ 0 け、と不思議な気分になる。き 0 と明日も会社に行って、お 昼にはパスタかカレーか焼き魚定食を食。へて、夜お風呂に入った後にはマニキ、アを 塗りなおして、友だちにちょっと電話をして、でもふられたことはまだ話さないで、 かわりに今シーズンのバーゲンの話かなにかして、電話を終えてからまた少し泣こう かと思うけれど、もう泣けないんだろうな、と思いながら、あたしは某月某日、いっ の間にか、寝息をたてはじめている。淋しいな。 128
「きれいな人たちが、 、つばい出てくるのよ」 きれい、というのが、いすずさんのキーワードだ。きれいなものはみんな好き。そ う公言するいすずさんの部屋は、茶色と白で統一されたシンプルな部屋だ。窓にはア ンティークレースのカーテンがかかり、机と椅子も、前々世紀イギリスのアンティー ク。台所用品も変わっている。いやに重いほうろうのポールに、年季の人った泡だて 器。お鍋は銅で、ポットはアイルランド製だという、ぼったりした形の茶色。 いすず姉さんは乙女チックだから、と、義姉、すなわちいすずさんの末の妹は言う。 違うわよ、わたしは乙女チックなんじゃなくて、可愛いシックなの。いすずさんは意 味のわからない反論をする。いすずさんは直接妹に反論しない。あたしに向かってこ ばすばかりだ。 「世間さまは、誰にも迷惑をかけずおのれに従って静かに生きてゆくだけの老嬢を、 どうして温かく見守ってくれないのかしら」ぶつぶっと、いすずさんは言う。 「老嬢」びつくりして聞き返すと、いすずさんはにつこりした。そうよ。そんな年と ってなくとも、ゆき遅れの女は老嬢って呼ばれてたの、昔は。真名ちゃん、赤毛のア かわ 176
「どうしようか」英児がまた言った。 「このまま、ずっと一緒に放浪する ? 」あたしは聞いてみた。 空港の大きな窓から、滑走路が見える。何機かの飛行機が雪をかぶっている。うず くまっている動物みたいだ。人影はない。数時間前まで欠航のお知らせのアナウンス がひっきりなしに放送されていた空港も、今はしんとしている。 「ずっと、一緒に行ってもいいの ? 」英児は心細そうな声で言った。 そのままあたしたちは黙りこんだ。 お財布から五万円を出して、あたしは英児に渡した。これで、当座はどうにかなる でしよう。あたしはもう行くから。そう言うと、英児は悲しそうにあたしの顔を見た。 背を向けて離れようとしたら、うしろから英児があたしの腕をつかんだ。何日か前、 あたしが呉の近くの町でしたのと同じように。 「ほんとに行っちゃうの」英児は泣きそうな顔で言った。 「そんなにあたしの体がよかったわけ ? 」あたしはわざと軽々しく聞いた。 英児はこくんとうなずいた。体も いいけど、おれ、由香子さんのなかみも、けっこ 104
ど、つぎよ、つににん 英児とは、四国で知り合った。「同行二人」と墨で書いてある編笠を腰にぶらさげ ていたので、「お遍路さん ? 」と聞いたら、「違う」と答えた。編笠、何日か前に道で ときどきめぐんでもらえるし。そ 拾ったんだ。これ持ってると、水とか食い物とか、 う答えた英児と、なんとなく一緒に歩きはじめたのは、半月ほど前のことだったか。 今年はじめに、夫が死んだ。一億円の生命保険金が人ってきたのを機に、あたしは 会社を辞めた。もともと夫はお金持ちだった。一軒家も車も上等な服も靴もびかびか ーンは全部すんでいたし、割の のシステムキッチンも、あたしたちは持っていた。ロ い人院保険にもばっちり人っていた。いっ何が来ても万全のかまえだったはずなの に、ある日夫は暴走してきた乗用車にひかれて、あっさり死んでしまった。 あたしは仕事のできる女だ 0 たので、結婚してからもばりばり働いていたけれど、 夫が死んだら、急激にやる気が失せてしまった。そのまま会社を辞め、小さな荷物を人 行 持ち、全国放浪の旅に出たのだった。 一口
ルが、食事の間じゅうずっと、棚に置かれたラジカセから流れていた。「愛の讃歌」 の次が「白い恋人たち」で、その次は「ホテルカリフォルニア」。そのあと三曲ほど でテープが終わると、宿のおねえさんがテープを巻き戻し、ふたたび「愛の讃歌」が 流れはじめた。 食事のあと、廊下の突き当たりにあった自動販売機でビールを一本買い、外に出た。 すっかり日は暮れている。湖がとろりと黒く目の前に広がっていた。湖沿いの道には、 電灯が一本もない。しばらく歩くと自分の足元も見えないくらいの闇に包まれた。 岸辺を少し下って、草の上に座った。水鳥が水を掻く音がときおり聞こえるが、ど こに鳥がいるのかはわからなかった。ビールを開けて飲みながら、仕事のことをしば らく考えた。それから、三年前に別れた立郎のことを久しぶりに考えた。好きだった けれど、立郎とはうまくゆかなかった。七年もっきあったのに。私が結婚をしぶった のがいけなかったのか。いやいや、何かのせいで別れたんじゃない、結局縁がなかっ ただけだよね。立郎と別れてから何回も繰り返した自問自答を、これも久しぶりに、