部屋に帰ると、もうタ暮れだった。やつばり恋人がほしいなあ、とわたしは思う。 原田くんはどうしてるかなあ、と思う。原田くんもわたしのことを思い出すのかなあ、 と思う。でもきっとわたしは二度と原田くんに連絡しないんだろうなあ、と思う。 昼にいれたコーヒーを温めなおして飲んだら、ものすごくおいしかった。ほっとた め息をついて頬にさわると、うぶ毛はきれいに剃りあげられていて、頬はつるつると、 つめたかった。
原田くんとは去年別れた。三年間つきあ。た。き「ちりと話をして別れたのではな く、次第に会う間隔が開いて、そのうちにぜんぜん会わなくなったのだ。 原田くんのくびすじを思い出そうとしてみる。すうすう風を受けていた、幼いわた しと兄のくびすじ。原田くんは散髪が好きだった。くびすじはいつも清潔だった。剃 りたての原田くんのうなじをさわってみるのが、わたしは好きだった。ひんやりとし たうなじ。 そうだ、床屋さんに行って顔をあたってもらおう。土曜日だし。デートの約束もな いし。曇り空だし。そのあと、うどんかお蕎麦を食。へよう。文庫本を二冊くらい買お う。夕飯のために魚を一匹と野菜も少し買おう。 上着の袖に手を通しながら、わたしは鏡の中の自分の顔をちらりと見た。まっすぐ な髪の、少し利かん気そうな表情の女がうつ 0 ていた。「い「てきます」と、鏡の中 の自分に声を出してあいさっしてから、部屋を後にした。 かみそり 床屋さんはすいていた。若いおにいさんが、剃刀を革砥でしゆっしゆっとしごいて かわと ノ、ツカ
マーケットも、だめだった。さんまの顔がいやによそよそしいなあ、と最初に思っ てしまうと、あとはもうどの魚もわたしのことを避けているようにしか見えなくなっ た。ざっと一回りしてから、すぐにわたしはあきらめた。 自動扉がジーという音をたてて開く。そのまま曇り空の下へと踏み出ると、秋の匂 いがした。秋の匂いって、 いったい何の匂いなんだろう、とわたしはばんやり思う。 乾いていて、わずかに香ばしくて、少し悲しい匂い 「秋だねえ」とわたしは小さく声に出してみる。「恋人がいなくて悲しいんじゃない よねえ」今度は声には出さず、ただおなかの中だけで言ってみる。原田くんが恋しい んじゃないよねえ。でも原田くんて、あんがいい奴だったよねえ。ものすごく好き っていうわけじゃなかったけど。どんどんおなかの中で言ってみる。 見知らぬおじいさんの漕ぐ自転車が、わたしを追い抜かしてゆく。おじいさんは茶 色いマフラーを首にまいていた。「秋なのだよねえ」ふたたび声に出して、わたしは つぶやく
から、ていねいにわたしの顔に剃刀を当てた。蒸しタオルで温められた肌に、冷やか な剃刀がふれたとたんに、くしやみが出そうになった。緊張してからだがこわばる。 床屋のおにいさんは、無表情でわたしのうぶ毛を剃ってゆく。三十分くらいかけて、 おにいさんはわたしの顔のぜんたいをあたった。すっかり済むと、おにいさんは「お 疲れさまです」と言った。肩をもみほぐされながら、目の前の大きな鏡を見ると、 やにつるりとした顔があった。 「どうも」と一言うと、おにいさんはほほえんだ。おにいさんはニッキ飴をくれなかっ たので、床屋を出て歩きながら、わたしはハッカの結晶の人った小さな硝子瓶をバッ グから出した。 カ飴や そういえば、ハッカの結晶のことは、原田くんに教えてもらったのだ。ハッ ッカ錠ではなく、純粋なハッカの結晶。結晶は、長さが一センチくらいで、白い糸 くずのようにみえる。小さな硝子瓶から、結晶をびとすじてのひらに振り出して口に ふくむと、ものすごく辛くてすっとする。 原田くんが今ここにいればいいのに、とわたしは田 5 う。喧嘩をして別れたわけでも
ニッキ飴を置いてくれた。全部なめ終える前に、わたしは飽きてしまって、途中から はいつも噛んだ。歯の裏に飴がくつついて、いつまでもとれなかった。口を開けて、 と息を吐くと、ニッキの匂いがした。 久しぶりに、床屋さんに行こう、と思「たのだ。今日は土曜日で、曇り空だ。午前 中ぎりぎりまでわたしは寝ていた。起きてすぐお湯をわかして、コーヒーをいれた。 いれたけれど、 ハイレックスのガラスの器の中で熱く静まっているコーヒーを、ただ わたしは眺めるばかりで、どうしても飲む気持ちになれなかった。 「おはよう」と、声に出して自分に言ってみる。かすれた声だった。案外セクシーな 声だな、と思った。それから、ため息を一つ、ついた。テレビをつけると「おいしい ランチを食べられる店」がうつっていた。ズッキーニと茄子とトマトのパスタ。 タは平打ち。 原田くんがきしめん好きだったことを、わたしは思い出す。