ため息をついたのは、だけど、尚くんのせいじゃない。 あたしには、好きな人がいるのだ。立原先輩。大学のハイキング部の三年生で、ニ ットのキャップがものすごくよく似合って、背がちょっと低めで、笑った顔がなっか しい感じの人だ。 「ハイキング部って、なにそれ」と、姉には笑われた。 「山のぼって、お弁当食。へて、帰ってくるの」答えると、ますます笑われた。 立原先輩の、歩く姿が、あたしは好きだ。それから、目的地に着いてから、一服だ け煙草をのむ、ゆったりとした様子も。 立原先輩は、どんな場所にいても、くつろいでいるようにみえる。息のきれる斜面 をのぼっているときも、部室でみんなで喋っているときも、ゼミの発表をしていると きも ( 蔔 月にこっそり教室の窓越しに覗いてみたのだ ) 、からだを不必要にふくらませ る。へき場所には、おひさまらしきものが、唐突に描きこまれている。 あたしはため息をついた。 188
ねえねえ、それより、あたし、「び」で始まる海の動物、思いついちゃった。ゆき ちゃんは残ったウイスキーをぐっと飲み干しながら、言った。なになに。私は勢いこ んで訊ねる。びんちょうまぐろ。ゆきちゃんは得意そうに答えた。あっ、びんちょう まぐろか。忘れてた。私が首をそらしながら言うと、ゆきちゃんは笑った。ちょっと 酷薄そうに。 びんちょうまぐろ。ろ、は、ろうにんあじ。じ、は、じゅずだまいそぎんちゃく。く、 は、くろだかちょう。あれ、それって海の生物じゃなかったつけ。頭の中で続けなが ら、私は前後に体を揺する。酔っぱらってきちゃった、と言うと、ゆきちゃんは私の 頬をびたびたと叩いた。あゆちゃん、もう一軒行こうか。ゆきちゃんが立ち上がる。 行こう、行くぜー、と言いながら、私も立ち上がる。 ゆきちゃんがまた笑った。どうして笑っているのか、酔っぱらっているので、わか らない。ゆきちゃんの酷薄そうな笑い声が好きだな。ばんやりと私は思う。足を少し もつれさせながら、私とゆきちゃんは、春の夜の中へふらふらと出ていった。
原田くんとは去年別れた。三年間つきあ。た。き「ちりと話をして別れたのではな く、次第に会う間隔が開いて、そのうちにぜんぜん会わなくなったのだ。 原田くんのくびすじを思い出そうとしてみる。すうすう風を受けていた、幼いわた しと兄のくびすじ。原田くんは散髪が好きだった。くびすじはいつも清潔だった。剃 りたての原田くんのうなじをさわってみるのが、わたしは好きだった。ひんやりとし たうなじ。 そうだ、床屋さんに行って顔をあたってもらおう。土曜日だし。デートの約束もな いし。曇り空だし。そのあと、うどんかお蕎麦を食。へよう。文庫本を二冊くらい買お う。夕飯のために魚を一匹と野菜も少し買おう。 上着の袖に手を通しながら、わたしは鏡の中の自分の顔をちらりと見た。まっすぐ な髪の、少し利かん気そうな表情の女がうつ 0 ていた。「い「てきます」と、鏡の中 の自分に声を出してあいさっしてから、部屋を後にした。 かみそり 床屋さんはすいていた。若いおにいさんが、剃刀を革砥でしゆっしゆっとしごいて かわと ノ、ツカ
ゆきちゃんは、三十四歳だ。私は一つ年下。ゆきちゃんは私のことを「あゆちゃ ん」と呼ぶ。君たちは小学生みたいな呼びあいかたをするんだね、といっか営業の里 田課長に言われたことがある。よその人がいるときには私たちだって「ゆきちゃん」 「あゆちゃん」ではなく、ちゃんと「笠谷さん」「佐久間さん」と呼びあう。 黒田課長とは、恋愛みたいなことをしているので、私とゆきちゃんの呼びあいかた を知られているのだ。これね、ゆきちゃんがね、くれたハンカチなの。好きでいつも 使ってるから洗濯しすぎで少し薄くなってきちゃったけど、やつばり今も一番よく持 ってきちゃうんだ。いっかバーのカウンターで、黒田課長の眼鏡をハンカチでみがい てあげながら、そんなふうに私が説明したときに、「小学生の女の子たちみたい」と 黒田課長は言って、笑ったのだ。 黒田課長のことは、二人でお酒を飲むときもべッドの中でも「課長」と呼んでいる。 最初は妙な顔をされたが、 じきに「なんだか少しそれ、興奮するね」と喜ばれた。黒 田課長は結婚しているので、「修さん」だの「おさむちゃん」だのと呼びならわすわ けにはいかない。酔っぱらったときや油断したときに口をついて出てしまったら大変
だからだ。 ねえ、このごろ面白いこと、あった。ゆきちゃんはハヤシライスを大きくスプーン ですくいながら、聞く。えーとね、ものすごく小さなおばあさんのやってるクリーニ , いさいって、猫とかチワワとかノ \ 、ら ング屋を駅の反対側で見つけたよ。私は答える。 い ? それほどじゃない、中くらいの羊くらい。それって、けっこう大きいよ。 ゆきちゃんは三年前に中途採用されてこの会社にやってきた。前は音楽関係の出版 社に動めていたらしい。私は最初からこの会社で、人社の翌年に会社の誌をつく る今の部署に配属された。ゆきちゃんとはすぐに仲よくなった。一カ月に二回くらい 一緒に飲みにいく。 昼ごはんを食。へているときには「小さいおばあさん」の話や「び、 で始まる海の動物」の話なんかをするけれど、飲みに行くときにはお互いの恋愛の話 をする。 ゆきちゃんにはたいがいいつも恋人がいる。今は髭のある男の人。その前はバンジ ヨーを弾く人 ( 本職は会社員 ) 。その前はギターを弾く人 ( 本職もギター弾き ) 。その 前は中国の人。私は言葉のしりとりが好きだけれど、ゆきちゃんもしりとりみたいに 19 ーーびんちょうまぐろ
わたし、ちょっと、傷ついちゃったんですね。恥ずかしながら。 でももうだいじようぶです。あれしきのことで傷ついてちゃ、仕事もできません ものね。 わたしは恋は苦手だけれど、やつばりきれいなものは好きだから、きれいな漫画 を描く。へくがんばります。 いろいろ考えたけれど、お祝いは同封のものにしました。お金をためて、 いっか 、リに行って下さ、 モデルチェンジして次の色に変わる前に、ぜひ行ってみて下さい そんな文章の手紙と一緒に、うすむらさきのカルネが十枚、人っていた。 ああ、いすずさんだ。あたしはほっと息をついた。 リに今に一緒に行きましよう、でもなく、。、 リに行くってを探してくれる、でも なく、回数券を一綴り、というところが、まったくもっていすずさんだった。 いすずさん、とささやきながら、いすずさんをそ「とだきしめてあげたくな「た。 184
らい別れる気分にな「ているはずなのだ。だから、ふる、 0 ていうのは悪いことみた いに言われるけれど、実際には別れを言いだす側は、存外お人好しなのである。とい うのは、私の持論。ゆきちゃんはそうは言わない。「別れを切りだすときは、いつも 自分が世界で一番ぬるぬるした大きなみみずにな 0 たような気分」なんだそうだ。 へ んなたとえ、と私が笑うと、ゆきちゃんはふくれた。あゆちゃんの好きそうな比喩を 考えてあげたんじゃない。 眠いな、と私は営業部のドアを開けながら思う。春だからだろうか。六年前に大学 時代から続いていた恋人と別れたときの眠さとは、ちょっと違う眠さである。あのと きの深い深い眠さではなく、もっと体の表面だけにはりついているような眠さ。 営業部には珍しく黒田課長がいた。私は軽く会釈する。黒田課長も目礼を返してき た。課長は上着を脱いで椅子の背にかけていた。ワイシャツの袖のボタンをはずして、 二つほど折り返している。暑がりなのだ。黒田課長の性器を思い出そうとしたが、ど うしてもうまくゆかなか「た。忘れたのではなく、望遠鏡を逆さからのぞくような感 じで、黒田課長とのことがものすごく遠く非現実的にしか思えないのだ。会社にいる
人柄も悪くなるしお肌にも悪い。おまじないのように、あたしは「めぐりあわせ、め ぐりあわせ」と唱える。もちろんそんなこと唱えてもぜんぜん気持ちはおさまらない けれど。 火曜日に、あたしはふられた。十二時過ぎに家にたどりついてから、あたしはまっ さきに顔を洗った。ていねいにクレンジングを行い、ぬるま湯でじゅうぶんにすすぎ、 最後に冷たい水をざぶざぶ使った。自分の部屋にもどって服をハンガーにかけ、翌日 着ていく服を選んでクロゼットから出し、机の上に置いてあるポータ。フルのテレビを つけた。 何人もの女の子が笑っている。音声を消して、あたしはばんやりとテレビの画面を 眺めた。この女の子たちの中にも、もしかしたら昨日ふられた子がいるかもしれない な、と思いながら、女の子たちのよく手人れされた髪やすべす。への肩を見ていた。 なんでこんなに淋しいんだろう、とあたしは思った。この淋しさは時間がたてば薄 らぐと知っていたけれど、そんなこと知っていても、なんの役にも立たなかった。た だ淋しかった。あんなに彼のことを好きだったのに、と一瞬思ったが、それが嘘なこ 126
ゃない。わたし、料理が好きだから、一人ぶんより、二人ぶん作ったほうがいいし。 それに星江ちゃんは二人ぶん、わたしも二人ぶん食。へるから、四人ぶんになるでしよ。 料理って、たくさんぶん作れば作るほど、おいしくなるんだよ。 食費、と言ってあたしがお金を渡すと、ちかちゃんは悪びれずに受けとった。助か る、と、手刀をきりながら。 ちかちゃんを、あたしは、好きになってしまっていた。 友人としても、むろん好きだけれど、もっと深いもの。恋だな、と、ある日あたし は気づいた。女の子を好きになるなんて、思ってもみなかった。今までつきあったの は、全員男の子だったし。 「これって、恋愛なのかな、ほんとに」ときどき、あたしはちかちゃんの部屋で、ち かちゃんのべッドに横になって、ちかちゃんの匂いのする枕に頭をしずませながら、 びとりごとを一一 = ロ、つ。 サ もしかしたら、恋愛じゃないのかもしれない。ただの、深い友情の、一変形、に過桃 ぎないのかも。たとえあたしがしよっちゅう「ちかちゃんとキスしてみたい」だの
「きれいな人たちが、 、つばい出てくるのよ」 きれい、というのが、いすずさんのキーワードだ。きれいなものはみんな好き。そ う公言するいすずさんの部屋は、茶色と白で統一されたシンプルな部屋だ。窓にはア ンティークレースのカーテンがかかり、机と椅子も、前々世紀イギリスのアンティー ク。台所用品も変わっている。いやに重いほうろうのポールに、年季の人った泡だて 器。お鍋は銅で、ポットはアイルランド製だという、ぼったりした形の茶色。 いすず姉さんは乙女チックだから、と、義姉、すなわちいすずさんの末の妹は言う。 違うわよ、わたしは乙女チックなんじゃなくて、可愛いシックなの。いすずさんは意 味のわからない反論をする。いすずさんは直接妹に反論しない。あたしに向かってこ ばすばかりだ。 「世間さまは、誰にも迷惑をかけずおのれに従って静かに生きてゆくだけの老嬢を、 どうして温かく見守ってくれないのかしら」ぶつぶっと、いすずさんは言う。 「老嬢」びつくりして聞き返すと、いすずさんはにつこりした。そうよ。そんな年と ってなくとも、ゆき遅れの女は老嬢って呼ばれてたの、昔は。真名ちゃん、赤毛のア かわ 176