あらわれた。海苔は湿って、磯の匂いをはなっている。ぎゅっと包んだのだろう、お むすびはくつつきあってゆがんでいた。菊ちゃんは片方のおむすびを取った。残った ほうを、こわごわとわたしも持った。まだ少しあたたかかった。しやけが人っていた。 それで終わりかと思っていたら、梅干しも人っていた。おかかも。 菊ちゃんはロいつばいにほおばって、じきに食べおえた。わたしはゆっくりと食。へ た。大きいので、いつまでたってもなくならない。菊ちゃんはわたしが食。へているあ いだ、ずっと地平線を眺めていた。 それからしばらくして、ほんとうに寒くなってきたので、また歩いた。菊ちゃんが いつまでたっても手をつないでくれないので、わたしからさしのばしてみた。わたし び す の左手を、菊ちゃんの右手にくつつけてみる。最初はだらんとしていたが、やがてほ む お の んの少し力が人った。そのままどんどん力が人るのかと思ったらそうではなくて、ご ん いつまでも菊 く軽く、握る、というほどでもなく、添える、というくらいの感じで、 ちゃんはいた。菊ちゃん、と呼ぶと、菊ちゃんは、うん ? と言った。もう一度、菊
の 女をすきになるなんて、思ってもみなかった。 女っていうのは、しようしんしようめい、女のことだ。女子じゃなくて、女。 女は、おれんちから二つおいた家に住んでいる。先月、ひっこしてきた。母親と父 親とおばあちゃんと女と弟の、五人家族だ。 女は高校生で、名前はちなみっていう。茶色つぼいかみのけが肩くらいまであって、 ンダのもようのやつだ。へんなバッグ。 いつも小さなバッグを持って歩いている。 て、パンダはなんだか黒い部分がふつうより少なくて、おまけにしつぼがいやに 長い。かわいくねーの、とおれが言ったら、女は、このパンダ、アンダーソンって名 114
少しでも体が暇になると中林さんのことを思ってしまうので、あたしは料理もたくさ ほ、つろ・つ んした。鰺の南蛮漬けと、しいたけ昆布と、塩漬け豚をつくった。金時豆を琺瑯の小 さな鍋にいれて、今日買ってきた石油ストーブの上にかけた。乾燥させたうすべにあ おいの花をうか。へて、お風呂に人った。もちろんその間、暇ができないよう、うす。へ にあおいの匂いをくんくんかいだり、頻繁に湯船を出人りしたりした。でもやつばり だめだった。あいたい。あいたいよ。中林さん。ねえ中林さん。あたしはお風呂の中 で呼びかけた。お風呂の中で呼びかけるといい声に聞こえるな、と思いながら、あた しはしばらくの間、中林さんの名を呼んでいた。 日曜日。 あたしは遂に我慢できなくて、中林さんの部屋に行くことにした。中林さんの部屋 の鍵は、持っているのだ。いつでも来て待ってていいんだよ、と中林さんは一言う。で もあたしは行けない。待つのがいやとかいうプライドなんてくだらないわよ、と修三 ちゃんは言う。プライドではないのだ。ただあたしは、恋人だからって、大きな顔を してそのひとの部屋に出入りしたりするのが、苦手なだけ。でももうだめ。中林さん
一度だけ、兄の淳一と合唱したことがある。 ものすごく、わたしは後悔した。だって、めちゃくちゃにけなされたから。 兄とわたしは、年子だ。兄は優秀な子供だった。愛想がよくて、勉強ができて、大 人にかわいがられた。おまけに、兄はポーイソプラノだった。地元の少年少女合唱団 の花形で、何回もコンクールで優勝を重ねていた。あきらかに兄のほうがわたしより も「できた子供」だった。小 さいころ、わたしはいつだって兄に引け目を持っていた。 「なも知らーぬー」と始まる、あれはたしか「椰子の実」という歌だった、最初の一 椰子の実 129
、バンちゃんが持ってきたお飾りのえびが手の先に触れた。そ 腕を上にさしのばすと のまま握ってみたら、えびはつめたかった。 明日はバイトかあ。家賃、二カ月遅れてるんだよなあ。バンちゃんと一回くらいセ ックスしてみたいなあ。とりとめもなく思いながら、わたしはてのびらを握ったり開 いたりした。電灯のかさはあいかわらず暗闇の中で薄く浮き上が 0 ている。てのびら の中のえびが、ざらざらしている。わたしはもう一度てのひらをぎゅっと握 0 てみた。 いくら強く握 0 てみても、いつまでも、えびはつめたいままだ「た。 51 ーーーざらざら
磴んだスープの中に、じゃ。ゝ、 ーコンのかたまりが 力もとにんじんとセロリとかぶとべ しずんでいた。おいしそうだねつ、と騒ぐと、ちかちゃんはすぐオレンジ色の冷蔵庫 の冷凍室からパゲットをとりだし、オープンであたためはじめた。スープも熱々にし ーコンは一人ぶんに切って、うどんなんかを食。へる感じのどんぶりによそって くれた。 料理は凝ってるけど、容器には凝らない人なんだなあ、とあたしは思いながら、ち かちゃんのスープを飲んだ。すごくおいしくて、あたしは思わず舌を鳴らしてしまっ た。あつごめん、と言うと、ちかちゃんは、につと笑った。それから、自分も、たっ たっと舌を鳴らしながら、見る間にどんぶり一杯のスープを飲みほした。 いつの間にか、あたしはちかちゃんの部屋にいりびたるようになっていた。 午後早くのシフトが終わってから、ちかちゃんが大学から帰ってくる夜九時ごろま でうだうだいつづけて、三回にいつ。へんくらいは、泊まっていった。 「迷惑、かな ? 」といっか聞いたら、ちかちゃんは首を横に振った。うう ん、迷惑じ 164
ぐずぐずもの人れに戻した。 ようやく決心がついたので、玄関に戻ってみた。おそるおそる運動靴をはいたが、 声はしなかった。いそいで扉をあけ、鍵をしめ、はやあしで駅まで行った。 駅に着く前に、声が言ったとおり、ほっりぼつりと雨が降りだした。 次に声がしたのは、金曜日の昼だった。バイトは遅番だったので、少し寝坊をした。 ご飯を食べる暇がなくなって、前の晩にあけたビスケットの包みから、チョコビスケ ットを二つつかみだし、白い運動靴をはきながら、一つをかじっていた。 「お行儀の悪いこと」 水曜日と同じ声だった。少し歳のいった、女の人の声。 びやっ、と息をのんで、またわたしは尻もちをついた。 怖くて怖くて、動けなかった。水曜日は、そら耳かもしれないと思っていたので、 まだよかったのだ。でも、そうじゃないということが、これでわかってしまった。 「怖がること、ないのに」声は、そうつづけた。 200
して、食事もほとんどせず、生徒 ( あたしは子供相手のお絵描き教室を開いている ) が来る火曜と木曜の午後だけむつくり起き上がって教室をこなし、それからまたばっ たりと布団の上に倒れ伏すのだった。 「でももう回復期に人ったのよね」修三ちゃんが針を布から抜きながら言った。修三 ちゃんは、このところアップリケに凝っているのだそうだ。 ンゴとかお日さま 「アップリケって、学校に持ってく布バッグとかにしてあった、 とかウサギとかの、フェルトの ? 」あたしがびつくりして聞くと、修三ちゃんは頷い 修三ちゃんのアップリケは、フェルトではなく、薄い布、それもアンティークの布 を使ったものだ。淡彩の、デシンや繊細なウールで、なんでもないもの、たとえばガ ラスの空き瓶とか、 シンプルなかたちのブーツとか、十八世紀の女の子が着ていたよ うな感じの下着とかを、二本取りの刺繍糸でもって、ていねいに布に縫いつけてゆく。 「テー。フルクロスかなにかにするの、それ」と聞いたら、修三ちゃんは首を横に振っ
ニッキ飴を置いてくれた。全部なめ終える前に、わたしは飽きてしまって、途中から はいつも噛んだ。歯の裏に飴がくつついて、いつまでもとれなかった。口を開けて、 と息を吐くと、ニッキの匂いがした。 久しぶりに、床屋さんに行こう、と思「たのだ。今日は土曜日で、曇り空だ。午前 中ぎりぎりまでわたしは寝ていた。起きてすぐお湯をわかして、コーヒーをいれた。 いれたけれど、 ハイレックスのガラスの器の中で熱く静まっているコーヒーを、ただ わたしは眺めるばかりで、どうしても飲む気持ちになれなかった。 「おはよう」と、声に出して自分に言ってみる。かすれた声だった。案外セクシーな 声だな、と思った。それから、ため息を一つ、ついた。テレビをつけると「おいしい ランチを食べられる店」がうつっていた。ズッキーニと茄子とトマトのパスタ。 タは平打ち。 原田くんがきしめん好きだったことを、わたしは思い出す。
あたしも同じの、今も持ってるよ。あたしは早ロで言った。茜ちゃんがお裁縫箱を 大事にとってあるのが嬉しかったのだ。ヘーえ、などと茜ちゃんは感心している。 中に何入れてる ? あたしは聞いてみた。あたしのお裁縫箱の中には、今も裁縫道 具が人っているけれど、茜ちゃんのお裁縫箱には、なんだか違うものが人っているよ うな気がしたのだ。 「ボタン」と茜ちゃんは答えた。 ああ、ボタンて、まとめて何かに人れておかないと、すぐどこかに見えなくなっち ゃうものね。あたしが言うと、茜ちゃんは首を横に振った。 「ちがうの。あのねえ、恋人たちのボタンなの」 茜ちゃんはお裁縫箱の蓋をとった。驚いたことに、箱の中には脱脂綿が敷きつめら れていた。脱脂綿にふわりと埋めこまれるように、そこには七つ、ボタンがあった。 「なにそれ」あたしは小さく叫んだ。 ボタンは、全部違う大きさ、違う色だった。四つ穴のものもあったし、虹色に反射 14 ナーー - えい