「ねえ、今の人からは、まだふられないの」あたしはときどき茜ちゃんに聞く。茜ち ゃんは、うん、と答える。 「そういえば、もしも茜ちゃんのほうが恋人をふったら、ボタンは、どうするの」い つかあたしは思いついて、聞いてみたことがある。 茜ちゃんはしばらくの間、考えていた。どうしようかな。せつかくだから、もら、 たいよね。でも、わたしがふっておいて、そのうえ物をちょうだい、っていうのは、 ずうずうしいかな。 茜ちゃんはあいかわらず、優柔不断にいろいろ言っていた。結局茜ちゃんがふった 場合のボタン問題は、解決しないままに終わった。 あたしは茜ちゃんの部屋に遊びにゆくたびに、お裁縫箱の中身を見せてもらう。あ たしの好きなのは、緑色の二つ穴ボタンだ。ときわ木の緑色。 もう、このお裁縫箱の中身が増えないといいね。あたしは茜ちゃんに言う。 わたしは一生恋をしつづけるんだから、ボタンだって増えつづけるのよ。茜ちゃんは 答える。一生ふられつづけるのか、きみは。あたしが聞くと、茜ちゃんは、えへへへ、 145 - ーーえい
有の笑いかただ。口が真横にひつばられたような表情になって笑うので、こういう笑 い声になる。 茜ちゃんとは、合気道の教室で知り合った。茜ちゃんはあたしよりも二歳としうえ の、二十三歳。どうしてもうまくいかない型の練習を居残ってしていたら、茜ちゃんが アドバイスをしてくれたのだ。力の入れどころが、違うんじゃないかなあ。でも間違っ てたら、ごめん。茜ちゃんはそんなふうに言い、しばらくあたしの動きを眺めていた。 あたしは茜ちゃんのアドバイス通りに、腕のもうちょっと内側に力を人れてみた。 鏡にうつったあたしの姿が、とたんに正しい型をとった。お礼を言おうと振り向いた ら、もう茜ちゃんはいなくなっていた。 「あのとき茜ちゃんが言った、間違ってたら、ごめん、って言葉が泣かせたよ」茜ち ゃんと親しくなってから、あたしが言うと、茜ちゃんは首を振り、 「それって、わたしの優柔不断さを表してるだけだよ」と言った。 茜ちゃんはたしかにちょっと優柔不断だ。レストランでメニューを決めるのも遅い し、あたしがさっさと合気道をやめてしまった ( コーチがものすごくセクハラな男だ 141 ーーえいっ
ったのだ ) 後も、ぐずぐず迷って結局半年も教室に通っていた。やめる直前のある日、 コーチに胸をむんずと攫まれたので、ようやくやめる決心がついたのだ、と茜ちゃん はこっそり教えてくれた。 あたしは、どちらかといえば気難しい性格なので、おっとりした茜ちゃんとは、気が 合う。けれど茜ちゃんは、わたしの優柔不断さって始末に悪いのよ、と言い言いする。 「なんかわたし、この人と相性悪いんじゃないかなって疑ってても、ほんとうにそう なのかどうか、自分では決められないんだ」茜ちゃんは言う。恋人の話である。 「だから、うーんどうしよう、とか思ってるうちに、必ず相手から別れを切りだされ ちゃうのよ」茜ちゃんは続けた。 「わたし、今まで、ふられたことしかないの。わたしがふったことは、ただの一度も ないよ」茜ちゃんは言い、 えへへへ、と笑った。 「ねえ、そのお裁縫箱、いつの ? 」あたしは聞いた。 「小学生のころのだよ」茜ちゃんは答える。 142
する貝殻のボタンもあったし、大きなくるみボタンもあった。 「あのねえ、ふられることが決まると、わたし、恋人からいつもボタンを一つもらう ことにしてるの」茜ちゃんは、驚くあたしにかまわず、落ち着きはらった口調で説明 した。ほら、卒業の時に好きな男の子の制服の第二ボタンをもらったりするでしよう。 それと同じでね。 同じでね、って言われても。あたしはロを半開きにしたまま、言った。 「ぶきみ ? 」茜ちゃんは聞いた。あたしはかすかに頷く。 茜ちゃんは、えへへへ、と笑った。それから、今までにわたし、七人もの人にふら れちゃったんだねえ、とつづけた。今の人からは、ふられないといいんだけど。茜ち ゃんは言い、また、えへへへ、と笑った。 あれから一年ほどが過ぎて、あたしは今も茜ちゃんと友だちだ。 合気道教室も、新しいところを見つけて、毎週火曜日、二人で同じクラスをとってい る。茜ちゃんは会社の帰りに、あたしは大学の帰りに、休まずにきちんと通っている。 144
あたしも同じの、今も持ってるよ。あたしは早ロで言った。茜ちゃんがお裁縫箱を 大事にとってあるのが嬉しかったのだ。ヘーえ、などと茜ちゃんは感心している。 中に何入れてる ? あたしは聞いてみた。あたしのお裁縫箱の中には、今も裁縫道 具が人っているけれど、茜ちゃんのお裁縫箱には、なんだか違うものが人っているよ うな気がしたのだ。 「ボタン」と茜ちゃんは答えた。 ああ、ボタンて、まとめて何かに人れておかないと、すぐどこかに見えなくなっち ゃうものね。あたしが言うと、茜ちゃんは首を横に振った。 「ちがうの。あのねえ、恋人たちのボタンなの」 茜ちゃんはお裁縫箱の蓋をとった。驚いたことに、箱の中には脱脂綿が敷きつめら れていた。脱脂綿にふわりと埋めこまれるように、そこには七つ、ボタンがあった。 「なにそれ」あたしは小さく叫んだ。 ボタンは、全部違う大きさ、違う色だった。四つ穴のものもあったし、虹色に反射 14 ナーー - えい
セッ長ー 0 彡ー」 彫亥刀セッ とい、つ感じがした。 お裁縫箱だけは、ちがった。きれいに詰まった裁縫道具の、びとっぴとつが、おまま ごとの道具みたいに思えた。だから、クラスのみんなはお裁縫箱を学校に置きつばな しにしていたけれど、あたしはもったいなくて、必ず家に持ちかえった。布の手提げ の中で、中の道具がかたかたとセルロイドの箱に当たる音も、あたしは大好きだった。 家に帰ると、ばかりと蓋を開け、片方に寄ってしまった中身をきれいに並。へなおした。 高校まで、あたしはそのお裁縫箱を使った。卒業してからも、あたしはお裁縫箱を 大切に取っておいてある。本棚のまんなかの段に置き、ときどき開けてみては、ばゝ り、という音を楽しむ。まち針をきれいに針山に刺しなおしたり、しつけ糸をとめて ある黄色いリポンをもてあそんだりする。 あかね 茜ちゃんのところに遊びにいって、同じお裁縫箱が机の隅に置いてあるのを見たと き、だからあたしはびつくりした。あ、おさいほうばこ、とあたしは田 5 わず口にした。 そうだよ、おさいほうばこだよ。茜ちゃんは言い、 えへへへ、と笑った。茜ちゃん特 。分度器と三角定規。それらは、でも、みんななんだか「実用」 140
と笑った。 茜ちゃんのお裁縫箱を見せてもらった日には、あたしも家に帰ってから必ずあたし のお裁縫箱を開けてみる。ばかり、と音がして、蓋ははずれる。銀の指ぬきを中指に はめたりはずしたりしながら、あたしは少しため息をつく。日が暮れるのが早くなっ たなあ、なんて、おばあさんみたいな感慨にふける。お裁縫箱を布のかばんの中でか たかたいわせていたのは、たった数年前のことなんだな。これからの人生って、ずい ぶんまだ長く続くんだろうなあ。 思いにふけりながら、あたしはお裁縫箱の蓋をしめる。それから、勢いをつけて立 ち上がり、合気道の基本の型をいくつか、続けてやってみる。汗がびとつぶふたつぶ、 額をしたたり落ちた。がんばるぞ、とあたしは思う。もし茜ちゃんもあたしも共に長 生きできたら、おばあさんになってから、二人で昔話をたくさんしよう。 びときわ大きな声で、あたしは、えいつ、と掛け声をかけた。汗がまた、したたり落 ちた。 146
好評発売中 唯よりも美しい妻 井上荒野 誰よりも美しい妻は幸福なのだろうか、不幸なのだろうかーーーヴァイオリ ニストの夫、そして夫の先妻と若い愛人。息子とその恋人。誰よりも美し い妻を中心に愛の輪舞が始まる。恍惚と不安、愛と孤独の間をゆるやかに 嫉妬という感情抜きに描かれた驚くべき恋愛小説。 1575 円 三年身籠る 唯野未歩子 冬子 29 歳、ただいま妊娠 9 カ月。まごうかたなき妊婦である。しかし、 十月十日を過ぎても子どもは産まれてこない。「恐がらないで産まれてら っしゃい。みんながあなたを待っているよ」一一個性的な女優が挑戦し た愛のメルヘン。映画界からすごい才能が現われた ! 映画化。 1575 円 長崎くんの指 東直子 「わたしは、長崎くんの手をとると、そのしなやかな指を、一本一本ゆっ くりと舐めた」一一気鋭の人気歌人が紡ぎあげた鮮烈のデビ、一小説集。 謎めいていて、やさしくて、ユーモラスで、ときに残酷・・・・・・郊外のさびれ た遊園地に交錯する 6 つの人間模様。掌篇 1 篇を付す。 1470 円 定価は税込です
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