「ねえ、今の人からは、まだふられないの」あたしはときどき茜ちゃんに聞く。茜ち ゃんは、うん、と答える。 「そういえば、もしも茜ちゃんのほうが恋人をふったら、ボタンは、どうするの」い つかあたしは思いついて、聞いてみたことがある。 茜ちゃんはしばらくの間、考えていた。どうしようかな。せつかくだから、もら、 たいよね。でも、わたしがふっておいて、そのうえ物をちょうだい、っていうのは、 ずうずうしいかな。 茜ちゃんはあいかわらず、優柔不断にいろいろ言っていた。結局茜ちゃんがふった 場合のボタン問題は、解決しないままに終わった。 あたしは茜ちゃんの部屋に遊びにゆくたびに、お裁縫箱の中身を見せてもらう。あ たしの好きなのは、緑色の二つ穴ボタンだ。ときわ木の緑色。 もう、このお裁縫箱の中身が増えないといいね。あたしは茜ちゃんに言う。 わたしは一生恋をしつづけるんだから、ボタンだって増えつづけるのよ。茜ちゃんは 答える。一生ふられつづけるのか、きみは。あたしが聞くと、茜ちゃんは、えへへへ、 145 - ーーえい
は、最初は断る。へきかな。 美崎さんがどんどん先走るので、どこにデートに行くの ? とわたしは聞いてみた。 「大学祭に来ないかって誘われたの」 それって、ほんとにデートなわけ ? 「だと思うんだけど」 だんだん美崎さんの声がこころばそくなってくる。 二人でじっくり研究したすえ、美崎さんの服は、胸のくりのけっこう深い、ふわふ わしたワンピースに決まった。せつかくいい胸してるんだから、アビールしなきや。 言うと、美崎さんはちょっとだけ不安そうな表情になった。 「じろじろ見られちゃったら、どうしよう」なんて言う。 ホテルに行く心配してる女が、胸を見られるくらいでおたおたして、どうするの。 言いながら背中をどやしつけると、美崎さんはもっと不安そうな顔になった。 いや、そんなに緊張しないで。胸で釣るのがいやなら、違う服でもいいんだしさ。 「そうだよね。堤さんて、やつばり大人だな」美崎さんは、ほっと息をついた。 215 ーー卒業
「すすむくん、まっげが長いね」 うるせえよ。どきどきしながら、おれは言った。 「ねん、いっしょにさんぼしない ? 」女はおれをのぞきこむようにしながら、言った。 だから、じゅくだし。そう答えようとしたけれど、なんかこどもつぼいような気が して、やめた。行くか。かわりにおれは、言った。女はすたすた歩きはじめた。 「さんぼって、楽しいのか」おれはきいた。 「。へつに」女は答えた。 しばらく並んで歩いた。女からは何のにおいもしてこなかった。クラスの女子たち は、アメやガムのにおいをいつもさせてるのに。 「ねえ、四年生の男の子って、なに考えてるの」女はきいた。 べつに。女のまねをして、おれは答えた。 女は丘のほうへ向かった。丘へは、そういえばずっと行ってない。 はよく遊んだのに。 「あそこ、ながめがいいんだよ」女はとくいそうに言った。 二年生ころまで 1 16
だろうか、思う。今は夜だ。悲しくて、眉が自然に寄ってくるのがわかった。眉が寄 ると、目に力が人った。そうすると、ちょっとだけ涙が出た。あれ、あたし、中林さ んに会えなくて、泣いてる。そう思ったとたんに、もっと悲しくなった。中林さん、 とあたしは声に出した。あいたいよ。あいたいよ。二回、言ってみる。それからもう 一回。あいたいよ。 木曜日。 どうしてこんなに中林さんのことが好きなのか、あたしにはわからない。恋なんて、 わからないものよ、アン子。修三ちゃんはそんなふうに言う。修三ちゃんは、絵描き おかまだ。「わたしのことは、きちんとおかまって呼んで。曖味な言いかた、 仲間で、 しないでね」と修三ちゃんは一言う。それは一種の照れかくしなんじゃないかと、あた しはひそかに思っているけれど、むろん修三ちゃんに面と向かってそんなことを聞い たりはしない。修三ちゃんには、いつも恋の相談に乗ってもらう。間違えてあたしが ふたまたかけてしまった時も、どうしても片思いをあきらめきれなかった時も、修三 ちゃんはものすごく簡潔な助言をしてくれた。ふたまたの時は、「どっちの片方を選 コーヒーメーカ
「どうしようか」英児がまた言った。 「このまま、ずっと一緒に放浪する ? 」あたしは聞いてみた。 空港の大きな窓から、滑走路が見える。何機かの飛行機が雪をかぶっている。うず くまっている動物みたいだ。人影はない。数時間前まで欠航のお知らせのアナウンス がひっきりなしに放送されていた空港も、今はしんとしている。 「ずっと、一緒に行ってもいいの ? 」英児は心細そうな声で言った。 そのままあたしたちは黙りこんだ。 お財布から五万円を出して、あたしは英児に渡した。これで、当座はどうにかなる でしよう。あたしはもう行くから。そう言うと、英児は悲しそうにあたしの顔を見た。 背を向けて離れようとしたら、うしろから英児があたしの腕をつかんだ。何日か前、 あたしが呉の近くの町でしたのと同じように。 「ほんとに行っちゃうの」英児は泣きそうな顔で言った。 「そんなにあたしの体がよかったわけ ? 」あたしはわざと軽々しく聞いた。 英児はこくんとうなずいた。体も いいけど、おれ、由香子さんのなかみも、けっこ 104
でも、 いつほうでいすずさんには、育ちきれていない少女のような「何か」があっ た。中学生の子供に「何か」などと言われて嬉しいかどうかはさておき、確かにその 後いすずさんと深く知り合うにつれ、いすずさんが育ちきっていないことは明らかに なる。 だってわたし、少女漫画家だもの。いすずさんは言う。それって、よそのまっとう な少女漫画家に悪いんじゃないの。あたしが言い返すと、いすずさんは、ふつ、と笑 そうそう、いすずさんは、べレー帽もかぶっている。永遠の少女にして、べレー帽。 向かうところ敵なしの、いすずさんなのである。 封 の いすずさんは、記念品を集めるのが大好きだ。ジョルジュ・ドンの出たバレエ公演草 ホラー ー」の舞台便 の切符。「ヴェニスに死す」の初上映時の切符。「ロッキー 色 草 の切符。 「みんな、あたし、知らない」と言うと、いすずさんはため息をつく。
ねえねえ、それより、あたし、「び」で始まる海の動物、思いついちゃった。ゆき ちゃんは残ったウイスキーをぐっと飲み干しながら、言った。なになに。私は勢いこ んで訊ねる。びんちょうまぐろ。ゆきちゃんは得意そうに答えた。あっ、びんちょう まぐろか。忘れてた。私が首をそらしながら言うと、ゆきちゃんは笑った。ちょっと 酷薄そうに。 びんちょうまぐろ。ろ、は、ろうにんあじ。じ、は、じゅずだまいそぎんちゃく。く、 は、くろだかちょう。あれ、それって海の生物じゃなかったつけ。頭の中で続けなが ら、私は前後に体を揺する。酔っぱらってきちゃった、と言うと、ゆきちゃんは私の 頬をびたびたと叩いた。あゆちゃん、もう一軒行こうか。ゆきちゃんが立ち上がる。 行こう、行くぜー、と言いながら、私も立ち上がる。 ゆきちゃんがまた笑った。どうして笑っているのか、酔っぱらっているので、わか らない。ゆきちゃんの酷薄そうな笑い声が好きだな。ばんやりと私は思う。足を少し もつれさせながら、私とゆきちゃんは、春の夜の中へふらふらと出ていった。
気分など、ミコちゃんはぜんぜん理解しない。男が自分に飽きてしまうかもしれない と恐れる気持ちも、去った男にうじうじ執着する気持ちも、「次」なんかどうやって 見つけたらいいのという意気地のなさも、ミコちゃんにはぜんぜん理解できないのだ。 「ミコちゃんて、今も恋人、いるの」わたしは聞いてみた。 「うん、公式には二人」えりちゃんは答えた。 「公式 ? 」 一カ月に二回以上会う相手が、公式。それ以下のは、ド、、 丿公式なんだって。えりち ゃんはロをとがらせて言った。 わたしたちは顔を見あわせ、軽いため息をついた。それから、気を取りなおして、 夕飯のしたくにかかった。えりちゃんもわたしも、料理上手なのだ。いつほうのミコ ちゃんは、「華麗」タイプの定石どおり、手料理なんかはほとんどしない。 わたしたちはエプロンをつけた。えりちゃんのは、刺繍のしてある白っぽいの。わ たしのは、うすビンクのびらびらの。
く色つぼくて魅力的だった。ねえ、あの人素敵だね。同僚は言って、うっとりと兄の 姿を目で追った。 兄はわたしと兄妹であるというそぶりは、みじんも見せなかった。むろんわたしの ほうも。同僚は、しばらくそのお店に通っていた。また一緒に行こうと誘われたが、 断った。ケイ ( 兄の源氏名である ) さまにはなかなか手が届かないわあ。ものすごく 競争相手が多くて。同僚はときおりこばしていた。 三十歳で結婚することになったとき、父と母はわたしの相手を見て一瞬腰をぬかし そうになった。わたしの恋人である坂本さんは、兄にそっくりだったのだ。 性格や、声や、動作の感じは、ずいぶん違うのだけれど、顔だちと体型が、兄その ものだった。喋りはじめると、坂本さんは兄とは異なった雰囲気をかもしだす。けれ ど黙ってわたしと父母のやりとりを聞いているときには、そこに兄が座っているよう にしか思えなかった。 式の当日まで、父母はもう坂本さんに会おうとしなかった。二人とも大人なんだか 134
美崎さんと「家庭教師」が歩いているところに行き合ったのは、ほんとうに偶然だ ったのだ。下見がてら、第一志望の大学の学祭に行ってみた、そこでばったり二人に 会うなんて、思ってもいなかった。 「あ」と美崎さんが言い、それからものすごく嬉しそうな顔で、手をふってきた。「家 庭教師」のほうは、あいかわらず若年寄ふうに落ち着きはらっていた。 行きがかりじよう、わたしたちは三人で歩きはじめた。大学祭はにぎやかで、美崎 さんはきよろきよろと周囲を見まわしつばなしだった。 「家庭教師」の視線に気づいたのは、少したってからだった。 美崎さんの、くりの深いワンピースの胸の谷間を、「家庭教師」は確かにぬすみ見 ていた。美崎さんが横を向いた時に、ちらり。うしろを振り向いた時にも、ちらり。 のびあがった時にまた、ちらり。かがんだ時にも、ちらりちらり。 ほら、やつばり胸は有効だよ。心の中でわたしは拍手したけれど、同時に、なんだ かちょっといやな気持ちにもなっていた。 216