321 第九章 け、後戻りしてこちらに寄ってきて、手を前に差し出した。 「いったいどうしたんだ、ニック ? 握手もしないつもりか ? 」 「ああ。僕が君のことをどう思っているか、わかっているはすだ」 「頭がどうかしてるそ、ニック」と彼は間を置かずに言った。「まったくどうかして る。まともしゃないぜ」 「トム」と僕は問いただした。「あの日の午後、ウイルソンに何を言ったんだ ? 」 彼はひと言もなく、ただじっと僕の顔を見た。それですべてがわかった。あの不明 の数時間に起こったことについての僕の推測は、間違っていなかったのだ。そのまま 振り向いて立ち去ろうとした。しかし彼はすかさず前に踏みだし、僕の腕をつかんだ。 「本当のことを教えただけだーと彼は言った。「我々が旅行に出ようとしているとき に、あいつがうちにやってきた。うちのものに留守だと言わせたんだが、力すくで二 階に上がってこようとした。頭が変になっていたし、もしあの車の持ち主が誰か教え なかったら、ウイルソンはきっと僕を殺していただろう。家の中にいるあいだ、あい つの手はすっとポケットの中のリヴォルヴァーの上に置かれていたのだし こで彼は開き直ったように、息をついた。「本当のことを言って何がいけない。あの 男についていえば、要するに自業自得だったわけだぜ。君もディジーと同しように、
224 「こっちの車はどうだい ? とトムは訊いた。「先週こいつを買ったんだが」 「素敵な黄色ですね」とウイルソンは給油ハンドルを懸命にひつばりながら言った。 「買いたいか ? 」 「こいつはむすかしい」と言ってウイルソンはカなく笑みを浮かべた。「しかしあっ ちなら適当な金になりますー 「どうしてそんなに急いで金がいるんだね ? 」 「ここに長居をしすぎました。よそに移りたいんです。女房も私も西海岸に行こうと 思っています」 「奥さんが望んでいるって ! 」とトムは思わす大きな声を上げた。 「あいつはもう十年くらい、あっちに行こうってすっと言い続けてきました」、彼は 少しのあいだ手で目の上にひさしを作り、給油ポン。フに寄りかかって休んだ。「でも 今となっては、あいつが望もうが望むまいが、一緒に連れて行きます。無理にでもひ つばって行きますよ」 二人の乗ったクーべが僕らの横を、土ぼこりを立てて勢いよく通り過ぎていった。 手を振るのがちらりと見えた。 「いくらになる ? とトムが吐き捨てるように訊いた。
77 第三章 隣家からは、夏の夜をとおして音楽が流れてきた。青みを帯びた庭園には、男たち や娘たちがまるで蛾のように集まって、ささやきや、シャンパンや、星明かりのあい だを行きかった。午後の満潮時に客たちが浮き台のやぐらから海に飛び込むのを、あ るいは熱い砂浜で日光浴をするのを、僕は眺めた。そのあいだギャッビーの二艘のモ ーターポートが海峡の水面を切り裂き、ポートに引かれた水上スキーが、泡の奔流の ハスと 上を滑っていった。週末になると、彼の所有するロールズ・ロイスが乗り合い なり、朝の九時から未明の時刻まで、人々を乗せて街と屋敷とのあいだを行き来し た。そのかたわら、彼のステーション・ワゴンは活発な黄色い甲虫みたいに、てきば きとすべての列車を出迎えた。そして月曜日になると、八人の召使い ( うちの一人は かなづち 臨時雇いの庭師 ) がモッ。フとデッキ。フラシと金槌と植木ばさみを手に、前夜のどんち ゃん騒ぎがもたらした被害を一日がかりで修復するのだった。 毎週金曜日には、ニーヨークの果物店からオレンジとレモンを詰めた箱が五つ届 第三章 サウンド
274 しげな美しい一日をそれは約束していた。 「彼女があの男を愛したことなんて、一度もなかったはすだよ」、ギャッビーは窓か らこちらに向き直り、挑むような目で僕を見た。「君も覚えているだろう、オール ド・スポート、 彼女は昨日の午後、とても興奮していた。あの男は彼女をすごく怖が らせるために、あることないことを並べ立てた。私をまるで安つぼい詐欺師みたいに 思わせようとした。そのせいで彼女は、自分が何を口にしているのか、ろくすっぽわ からなくなってしまったんだ」 彼は暗い顔でそこに腰を下ろした。 「むろんちょっとのあいだくらい、あの男を愛したこともあったかもしれない。結婚 した当座はね。でもその頃だって、あいつなんかより私の方をより愛していたことは 確かだ。そうとも」 そこで彼は出し抜けに不思議な台詞を口にした。 「ともあれ、それはただの私事にすぎない」と彼は言った。 その言葉をいったいどのように解釈すればいいのか ? この問題についての彼の想 今 5 には、 測り知れぬほど烈しいものがあったと推測する以外にないのだ。 彼が帰還したとき、トムとディジ ] はまだ新婚旅行中たった。彼は軍から受け取っ
257 第七章 にやられたのだ。 大きなカーブを曲がり切るまで、トムは速度を控えて運転した。それからアクセル をぐいと踏み込み、クーべは一路夜を抜けて疾走した。ほどなく低くかすれた忍び泣 きの声を耳にした。トムの頬を涙がこらえかねたようにこぼれるのが見えた。 「恥知らすの畜生が ! 」と彼は声を詰まらせた。「あいつ、車を停めもしなかったん だそ」 。フキャナンの屋敷がほとんど出し抜けに、行く手の闇の中にぬっと浮かび上がった。 樹木の葉が軽やかに音を立てていた。トムはポーチのそばで車を停め、二階を見上げ た。二つの窓に明かりが煌々とともっているのが、蔦のあいだから見えた。 「ディジーは戻っている」、車を降りるとトムは僕の顔を見て、かすかに眉を寄せた。 「君をウ = スト・エッグで降ろせばよかったな、ニック。今夜はおかまいする余裕も なさそうだ」 彼は人が変わったようだった。今ではきつばり、重みのある声で語ることができた。 月光に照らされた砂利道をポ】チに向かって歩きながら、言葉少なにてきばきと状況 を処理した。
259 第七章 それから僕はゆっくりと引き込み道を歩ぎ、家から離れていった。門のあたりでタク シーを待とうと思ったのだ。 二十ャード歩いたか歩かないかのところで、名前を呼ばれた。ふたつの茂みのあい だからギャッビーが姿を見せ、小径に足を踏み人れた。そのとき僕の神経は少し変に なっていたのに違いな、。 僕の頭に浮かんだのは、月光の下で彼の。ヒンクのスーツは ずいぶん派手に光るなということだけだった。 「こんなところで何をしているんだ ? 」と僕は問いただした。 「ただ立っているんだよ、オールド・スポート」 なぜかそれは卑しむべき行いであるように僕には思えた。たとえば彼はこれからま かんぼく さにこの家に泥棒に人ろうとしているのではあるまいか。背後の暗い灌木のあいだに 「ウルフシャイムの一味」の凶悪な顔が見えたとしても、僕は驚かなかったはずだ。 「来る途中で、何か騒動を目にしなかった ? 」、やや間があって、彼はそう尋ねた。 「ああ」 彼は言おうかどうしようか迷った。 「女は死んだのか ? 」 「ああ」
ョ の自然の作り出す珍奇なるものの中でも、それはとりわけ人目を引いた。ニュ ーク市から二十マイルばかり離れたあたりで、一対の巨大な卵が、西半球ではもっと も従順な海水域ーーらまり口ング・アイランド海峡という湿った大きな裏庭ーーに向 けて突き出している。両者の輪郭は実に瓜ふたつで、ただ名ばかりの湾によってあい だえんけ、 だを隔てられている。どちらも完璧な楕円形ではなく、かのコロンブスの卵のように、 そろ 内陸にくつついている下の部分が、揃って平らにヘしやげていた。とはいえ両者のか たちはみごとなばかりにそっくりだったので、その上を飛ぶカモメたちでさえ、きっ としよっちゅう混乱をきたしているはずである。しかし翼を持たぬものにとってより 強く驚かされるのは、かたちとサイズを別にすれば、ほかのすべての点において、こ のふたつの土地が似ても似つかないというところにある。 僕はウエスト・エッグに住んでいた。つまり、比べるとより「高級感に欠ける」地 域ということになるわけだが、 両者のあいだにある風変わりで、あまり穏当とは言い がたい対照ぶりを表現するにあたっては、これはあまりにも皮相的な定義づけだろ う。僕の家はその卵の文字どおり先つぼにあり、海峡からは五十ャードと離れていな いところに、ふたつの広大な地所に挟み込まれるような格好で建っていた。どちら側 も、一シ】ズンにつき一万二千ドルとか一万五千ドルとかで賃貸に出されるような地 サウンド
145 第四章 ったのよ。二人は派手な遊び人のグルー。フと交際していた。みんな若くてお金持ちで、 無軌道だった。それなのにディジ 1 には、浮いた話がまったくと言っていいくらい出 てこなかった。たぶん彼女がお酒を飲まなかったからでしようね。酒浸りの人たちの あいだでは、お酒をまったく口にしない人って、すいぶん得をするのよ。お酒を飲ま なければ口が軽くなることもないし、ちょっとあぶないことをするにしても、まわり のみんなが酔っぱらってほとんど何も見ていないし、見ていたとしても気にもかけな いころあいを見計らうことができる。たぶんディジーは浮気したことはないと思うん だーーーそれでもね、彼女の声には何かしらそれに近いことを匂わせるものが : それはさておき六週間ばかり前に、彼女は実に久かたぶりにギャッビ】の名前を耳 にしたわけ。私があなたに質問したときにね。覚えているかな ? ウエスト・エッグ のギャッビーって人を知っているかって尋ねたでしよう。あなたが帰ったあと、ディ ジーは私の部屋にやってきて、私を起こして尋ねた。「ギャッビーって人、ファース こっちはほとん トネームはなんていうの ? 」。そして私が彼の様子を説明すると ど眠りかけていたんだけどーー彼女はがらっと違う声音で言った。それはきっと私が 昔知っていた人だわ、と。そう言われて私もようやく思い当たったわけ。そうか、ギ ャッビーって、彼女のあの白い車に乗っていた将校だったんだ。
ロッパに行く方が穏当しゃないかな」 「あら、あなたはヨーロツ。、ス ノカ好きなの ? 」と彼女はびつくりするくらい大きな声を 上げた。「私はモンテカルロから戻ってきたばかりなのよ」 「そうなんだ」 「去年のこと。私は女友達と二人であっちに行ったわけ」 「長くいたの ? 、え。私たちはモンテカルロまで行って、そのまま戻ってきただけ。マルセイユ 経由で行ったの。行くときには千二百ドル以上のお金を持っていたんだけど、個室み たいなところで二日のあいだに、すっからかんに巻き上げられてしまった。帰りの旅 はそりやもう、悲惨の限りだったわよ。まったく、モンテカルロっていけすかないと ころ ! 」 夕方が近づいて、空はしばしのあいだ地中海の蜜のごとき青をたたえつつ、窓の外 に輝いていたのだが、 やがてミセス・マッキーのきんきんした声が僕を部屋の中に連 れ戻した。「私ももうちょっとでとんでもない過ちを犯すところだったんですよ」と 彼女は声高に宣言した。「何年ものあいだ私のことを追い回していたちびのユダ公と、 あやうく結婚するところだったの。私より下の階層の人間でした。みんなが私に忠告
162 も一分間くらい、揃ってもしもしと黙り込んでしまうことになった。キッチンでお茶 をいれるので、手伝ってもらえないかなと、僕はやけつばちに提案し、それを潮に二 人は勢いよく席を立ったのだが、まさに折悪しく、憎らしいフィンランド人の家政婦 が、お茶を載せた盆を持って部屋に人ってきた。 茶碗やらケーキやらのやりとりがひとしきりあり、そのあいだにありがたいことに、 それらしき配置が自然にできあがった。。 キャッビーはなるたけ目立たないところに位 あんうつ 置を定め、ディジーと僕とが会話しているあいだ、緊張した暗鬱な目で、二人を代わ るがわる念人りに眺めていた。しかしながら、ただ場を落ち着かせればそれでいいと いうものではないから、適当なところで僕は席を立ち、少し失礼させていただくよと 一一一一口った。 「どこに行くんだい ? とギャッビーはさっと顔を上げ、僕に問いただした。 「すぐに戻ってくるよ 「その前にちょっと君に話したいことがあるんだが」 彼は取り乱した顔つきで、僕のあとをついてキッチンに人った。そしてドアを閉め、 声を殺して「ああ、どうしよう」と言った。ひどく落ち込んだ様子たった。 「いったいどうしたんだ ? 」