えば、黄色い煉瓦でできた小さな塊りみたいなものがひとつ目につくだけで、それが 荒涼とした土地の端っこにぼつんと鎮座していた。このひとっきりの建物がいわば当 地のメイン・ストリートのごとき役目を果たしており、その先に繋がるものは何もな 建物には三つの店が入っていたが、うちの一軒には「貸店舗」の札がかかり、あ とのひとつは終夜営業のレストランで、入り口には灰の踏み分け道がついている。三 つ目は車の修理工場で、「修理・ジョ 1 ジ・・ウイルソン・自動車販売及び買い入 れ」と看板にある。僕はトムのあとについてその中に入った。 ひとけ 中は人気がなく、閑散としていた。目につく唯一の車はほこりをかぶったがらくた 同然のフォードで、それが薄暗い片隅にうすくまっていた。このお粗末な修理工場は ただの見せかけで、階上にはきっと贅をこらしたロマンチックな秘密のアパートメン トが拵えられているに違いない、そんな妄想をたくましくしているところに、経営者 自身がぼろきれで両手を拭きながら、事務室の戸口に姿を見せた。金髪の、のそっと した印象の男だった。顔立ち自体は決して悪くないのだが、生気というものがい うに感じられない。我々の姿を見たとき、彼の淡いブルーの目に、希望の光がか弱く 宿ったように見えた。 「やあ、ウイルソン」、トムは彼の肩を機嫌良く叩きながら言った。「商売はどうだ
341 翻訳者として、小説家として一一一訳者あとがき て読まなくてはならない。そして声に出しながら移し替えなくてはならない。それが うまくいったかどうかは、僕にもよくわからない。しかしそれが僕の翻訳にとっての ひとつのポイントであり、基本方針であったということは理解していただきたいと思 う。ますリズムがあり、流れがあり、そしてそれに相応しく密着した言葉がおのすと わき出てくる、それが僕の考えるフィッツジェラルドの文章の美点なのだ。 僕自身とこの小説の関わり方について、そしてまた翻訳作業そのものについて、 ささか長く語りすぎたような気がする。まだまだ書き足りないような気もするのだが、 きりがないのでそういう話はひとます置いて、スコット・フィッツジェラルドがこの 『グレート・ギャッビー』を書いた経緯について、いくつかの歴史的事実を書き記し ておくのが、翻訳者としてのもうひとつの責務だろう。とても簡単な、粗筋みたいな ( そしてまるで見てきたような ) 記述になるが、詳しいことを述べ始めると際限がな いので、興味のある方は伝記のようなものをあたっていただければと思う。 フィッツジェラルドがこの『グレート・ギャッビー』の構想を得たのは一九二三年 のことである。翌年の春、夫人のゼルダとともにフランスに渡って暮らすようになっ てから執筆が本格的に始まり、その年のうちに書き上げられ、一九二五年の四月、彼
339 翻訳者として、小説家として一一訳者あとがき あるいは色合いを一段階弱めた。ニックやギャッビーやディジーやジョーダンやトム は、文字通り僕らの隣で生きて、同じ空気を呼吸している同時代人でなくてはならな った。彼らは我々の肉親であり、友だちであり、知り合いであり、隣人でなくては ダイアローグ ならなかった。そのためにはひとつひとつの会話が生命を持ったものでなくてはな らない月 ) 、説にとって会話というものがどれくらい大事な要素になり得るか、それを 僕が身にしみて学んだのも、実を言えばこの小説からなのだ。 お読みになっていただければわかるように、この小説の登場人物の一人ひとりには、 くつきりとしたキャラクターの造形があり、それによってしゃべり方も規定されてく る。しかし彼らは決してひとつのかたちに固定されてはいない。行動規範は一貫して いるものの、状況によって環境によって、彼らの心や視点はーーあなたや僕と同し生 身の人間としてーー徴妙にぶれていくし、それにつれて彼らのしゃべり方も少しすっ 変化していく。そう、彼らの会話は生きたものでなくてはならないし、息づかいのひ とつひとつが意味を持たなくてはならないのだ。 もうひとっ僕が心がけたのは、文章のリズムである。スコット・フィッツジェラル ドの文章には独特の素晴らしいリズムがある。それはすぐれた音楽を思わせる優美な リズムだ。彼は文章をそのリズムに乗せ、童話に出てくる魔法の豆の木の蔓のように、
って、空に細かく散った銀色の星をじっと見上げていた。落ちつきのある動作や、芝 生に両脚で揺らぎなく立っ様子から、ギャッビーご本人であると推測できた。おそら くはこの地域の天空の、どれほどの領域を自分が所有しているか確認するために、お 出ましになったのだろう。 声をかけてみようかと思った。ミス・べイカーがタ食の席で彼の話を持ち出してい たし、それが自己紹介のきっかけになるだろう。でも結局声はかけなかった。という のは、彼がそのときにとった突然の動作によって、この人物は一人でいることに満ち 足りているのだと察せられたからだ。彼ははっとさせられるようなしぐさで、両手を 暗い海に向けて差し出した。そして遠目ではあったものの、彼の身体が小刻みに震え ていることがはっきりと見て取れた。僕は思わす、伸ばされた腕の先にある海上に目 をやった。そこには緑の灯火がひとつ見えるきりだった。小さな遠くの光、おそらく は桟橋の先端につけられた照明だろう。それから再びギャッビー氏の方に視線を戻し たとき、そこにはもう誰もいなかった。僕は騒がしい夜の闇の中に、またひとりで取 り残されていた。 * 1 ローマの政治家。文学・芸術の保護者としてホラテイウスやウエルギリウスを後援した。
125 第四章 歴史に対する理解と、モンテネグロ国民の勇猛な闘いぶりに対する思いやりが見て取 れた。モンテネグロの温かくささやかな心から、なぜ彼に対するこのような賞讃が 導き出されたか、その国家の置かれた複雑な立場を、その徴笑みは隅まで心得ていた。 僕の先ほどまでの疑念は了される思いにとって代わられた。まるでひと山の雑誌を 一気に流し読みしたときのような気分だった。 彼はポケットからリポンのついた一片の金属を取り出し、僕の手のひらに落とした。 「そいつがモンテネグロからもらったやつだよ」 ォルデリ 意外にも、それは正真正銘の本物みたいに見えた。「ダニーロ勲章」という銘が円 形に記されている。「モンテネグロ国王・ニコラス」 「ひっくり返して」 「ジェイ・ギャッビー少佐に , と読めた。「比類なき勇気を讃えて」 「もうひとつ、私が肌身離さす持ち歩いているものがある。オックスフォード時代の 思い出の品で、トリニティ 私の左隣にいる男 ー・カレッジの中庭で撮ったものだ は今ではドンカスター伯になっている ブレザーを着た若者が六人ばかりそこに写っている。彼らはアーチ天井の通路にた むろし、通路の向こうには尖塔がいくつか見える。ギャッビーの姿もあった。今より ・デ・ダニーロ
引 4 る足音が聞こえた。振り向くと、フクロウ眼鏡をかけた男の姿があった。三ヶ月前の ライプラリ ある夜、ギャッビーの家の図書室でその蔵書に驚嘆の声をあげていた男だ。 僕はその夜を最後として、彼の姿を見かけたことはなかった。彼がどのようにして 葬儀のことを知ったのか、それはわからない。彼の名前さえ僕は知らないのだ。雨が 分厚い眼鏡をつたって落ち、彼は眼鏡を外してレンズをぬぐった。そしてギャッビー の墓を覆っていたキャンバス布が取り払われるのを、しっと見ていた。 僕はそのとき、ギャッビーのことを考えようとしばし努めたのだが、彼はもう既に 遠いところに去っていた。僕に思いつけることといえば、ディジ ] が弔電ひとつ、花 ひとっ送ってこなかったという事実くらいだった。でも、それを咎める気持ちはなか った。誰かが「雨に打たれる死者は幸いなるかな」とつぶやくのがおぼろげに聞こえ た。フクロウ眼鏡の男がそれを受けて、「まさしく」と物怖ししない声で応じた。 我々は雨を逃れるように急ぎ足で車に戻った。門のところでフクロウ眼鏡が僕に話 しかけてきた。 「弔問にはうかがえなかった」と彼は言った。 「どうせ誰ひとり来ませんでしたよ」と僕は言った。 「なんたること ! 」、彼は絶句した。「まったく信しられんね ! 宴会には何百人も押
301 第九章 「狂人のしわざです」と彼は言った。「その男は頭が狂っていたに違いない」 「コーヒーでもお飲みになっては ? 」と僕は勧めてみた。 「いや、けっこう。もうなんともありません、ミスターーー」 「キャラウェイです」 「もう大丈夫ですよ。ところでジミーはどこにおるのでしようか ? 」 彼の息子が安置されている応接室に案内し、あとは一人きりにしておいた。小さな 子供たちが何人か階段を上がってきて、玄関の中をのそき込んでいた。今、亡くなっ た人のお父さんが見えているのたからと言うと、彼らはしぶしぶ引き上げていった。 少しあとで、ミスタ・ギャツツがドアを開けて、部屋から出てきた。ロは軽く開か れ、顔はわすかに紅潮していた。涙は思い出したように切れ切れに頬をつたった。そ れくらいの年齢になると、もう死がおそましい驚きをもたらすことはない。彼は今よ うやくひと息ついてまわりを見渡すことができるようになった。天井の高い壮麗な 玄関ホールや、そこから通したいくつもの大きな部屋を目にし、そこから更に通して いるほかの部屋を目にして、彼の悲しみは、畏怖を含んだ誇りと混しり合っていった。 僕は父親をベッドルームのひとつに連れて行った。彼が上着を脱ぎ、ヴ = ストを脱い っこ。
297 第九章 言かが僕に質問してきたが、僕は途中でそれを振り切るようにして、二階に上がっ た。そしてギャッビーの机の、鍵がかかっていない引き出しを手早くさらってみた。 両親が存命であるのかないのか、彼の話がもうひとつはっきりしなかったからた。し かし手がかりは何も得られなかった。あるのはダン・コ ] ディーの写真だけだ。彼は 忘却された荒々しさのしるしとして、壁の上からこちらをじっと見下ろしていた。 翌日の朝、僕は執事に手紙を託し、ニューヨークのウルフシャイムのところに行か せた。ギャッビーについての情報を求め、次の列車で早急にこちらに出向いてはくれ まいかと強く頼んだ。手紙を書いたときには、そんなことをわざわざ要請するまでも あるまいと、僕は考えていた。新聞記事を読んだらすぐさまこちらに驤けつけてくる に違いないと確信していたわけだ。ちょうど、昼までにはディジーも電報を寄越すに 違いないと確信していたのと同様に。しかし電報はこなかったし、ウルフシャイムも 姿を見せなかった。というか、誰ひとりやって来なかった。更にいつばいの警官やら カメラマンやら新聞記者やらが押しかけてきただけだった。執事がウルフシャイムか らの返信を携えて戻ってきた頃には、僕はすいぶん苦々しい気持ちになり、ギャッビ ーと結託してそういう連中全員に対してむかっ腹を立て始めていた。
269 第八章 だと承知しながら、いや、していればこそ、彼はディジーを手に入れたのだ。 さげす しいところだった。というのは彼は疑いの余地なく、自分を別 彼は自分を蔑んでも、 の誰かに見せかけることで、彼女を手に入れたからだ。なにも僕は、ありもしない数 百万ドルを彼がちらっかせたとか、そんなことを言っているわけではない。ギャッビ ーは安心感のようなものを計算すくで彼女に与えたのだ。自分は彼女と同し階層から やってきた人間であり、後顧の憂いなく身を任せられる相手なのだと、ディジーに思 い込ませたのである。もちろん実際にはそんなことはできっこない。後ろ盾になって くれる立派な家柄など彼にはない。それどころか情もへったくれもない政府の思いっ きひとつで、世界の果てにだって送られてしまう頼りない身の上なのだ。 しかし彼は自分を軽蔑しなかったし、ものごとは彼の想像もしなかった方に進んで いった。彼は手に入れられるものを手に入れ、たぶんそのまま姿をくらましてしまう つもりだったのだろう。しかし気がついてみると、彼は聖杯を求める旅路から抜け出 、一ティジーが通常の女ではないということは最初からわか せなくなってしまってした。。 っていた。しかし「良家の」娘がときとしてどれくらい通常でなくなれるかというと ころまではわかっていなかった。 , 彼女がいったんその豪華な家の中に、豊かで満ち足 りた暮らしの中に消えてしまうと、ギャッビーはひとりぼっちであとに残された。デ
135 第四章 「名前を聞いたことはあります」 「世界でもいちばん有名な大学のひとつなんだがねー 「ギャッビーのことを昔からご存しなのですか ? ーと僕は尋ねてみた。 「何年か前からねーと彼は得意げに答えた。「知り合ったのは戦争の直後だったな。 でもね、一時間ばかり話をしただけで、自分の目の前にいるのがひとかどの家柄の人 物だってことがわかった。あたしは思ったよ、『まさにうちに連れて帰って、母親や 妹に紹介したくなるような男だ』ってね」、そこでロをつぐんだ。「あんた、あたしの カフス・ボタンを見ているんだね ? 」 僕はそんなもの見ていなかったけれど、そう言われると目がいった。それは象牙で できており、不思議に見覚えのあるかたちをしていた 「人の臼歯の標本だよ。いちばん上等なやっ」と彼は教えてくれた。 「なるほど ! 」と言って、僕はそれをましましと見た。「発想が実にユニークってい うか」 「そうなんだ。と言って、彼は上着の中にシャツの袖をばっとしまいこんだ。「そう なんだ、、 キャッビーときたら、女に関してはやたら用心深いんだよ。友だちの女房に だってまったく目をくれようとしない