354 します」と答えると、彼らは一様に困った顔をした。そして「何か適当な日本語の訳 語を見つけるべきではないのですか ? 」と言った。もちろん僕としても「何か適当な 日本語の訳語」があれば、喜んでそれを使っていたと思う。しかし適当な訳語はとう とう見つからなかった。。 こ理解いただきたいのだが、僕はこの old sport 問題につい て、もう二十年以上にわたって「ああでもない、 こうでもない。と考えに考えてきた のだ。そして二十年後に首を振りながら、これはもう「オールド・スポート」と訳す 以外に道はないという結論に達したのである。決して努力を怠り、安易に原語に逃げ たわけではない。「オールド・スポート」は「オールド・スポート」でしかなく、「オ ールド・スポート以外のものではあり得ないのだ。僕はそう思った。大げさに言え ば、そう腹をくくったのだ。もちろんこの言葉が些細な場面で一時的に使われている のであれば、適当な訳しようはいくらでもある。それはただの技術的な問題になって くる。しかし作品の中の重要なキーワードとして使われている以上、そのままのかた ちを残す以外に手はなかった。 ゲラのチェックのときに柴田さんに「『オールド・スポート』の訳についてはどう 思いますか ? 」と尋ねてみると、「これしかないと僕も思います。ときつばり言われ た。柴田さんをこの問題に引き込むのは僕の本意ではないが、今のところこれしかな
102 その口癖のような呼びかけには、ひと としゃありませんよ、オールド・スポート とおりの親密さしかこもっていない。安心させるように相手の肩に手をやるのと同じ ことだ。「ところで、水上飛行機を試運転するのを覚えてますよね ? 明日の朝九時 ですから、 そこに執事がやってきて、彼のすぐ背後に立った。 「フィラデルフィアからお電話です」 「わかった。すぐに行く。すぐに行くと言っておいてくれ : : : それでは、おやすみな 「おやすみなさい」 「おやすみなさい」。彼はそう言って微笑んだーーーそれだけで突然、自分が最後の客 の中にいてよかったな、遅くまで残っていた意味はあったな、という心持ちになった。 それこそ彼が一貫して渇望していたことなのだ、とさえ思えた。 「おやすみなさい、オールド・スポート : : : おやすみなさい」 しかし階段を降りていくと、夜はまだ終わりを告げていないことがわかった。玄関 から五十フィートばかり行ったところで、一ダースあまりのヘッドライトが、騒々し く珍奇な光景を明るく照らし出していた。つい数分前にギャッビーの車回しを離れた
244 当たらすといえども遠からずってところだったね」 「それがどうした ? 」とギャッビ ] は涼しげな声で言った。「君のお仲間のウォルタ ー・チェイス君は、そこに一枚加わることにさほど抵抗を感しなかったようだが」 「そしてお前は彼を窮地に置き去りにした。そうだろう ? おかげで彼はニュ ウォルターがお ~ ャージーの刑務所に一ヶ月放り込まれた。ひどい話しゃないかー のことをなんて言っているか、聴かせてやりたいね」 「あの男は我々のところにすっからかんでやってきたんだ。金をいくらか手に入れる ことができて、ずいぶん喜んでいたよ、オールド・スポ ] ト」 「僕に向かって『オールド・スポート』って言うのはよせ ! 」とトムが叫んだ。ギャ ッビ ] は何も言わなかった。「ウォルタ ] は賭博法違反でお前を突き出すこともでき たんだ。しかしウルフシャイムに脅されて口をつぐまざるを得なかった」 見慣れない、しかし何かしら記憶にひっかかる例の表情が、ギャッビーの顔に再び 浮かんだ。 「このドラッグ・ストアの商売なんて、所詮小銭稼ぎにすぎない」とトムはゆっくり と続けた。「しかしウォルターがこの僕にもしゃべれないような恐ろしい何かが、お 前の身辺にはある」
120 「おはよう、オールド・スポート。 我々は今日、昼食を一緒にすることになっている わけだが、 ついでだから一緒に街まで車で行かないかと思ってね」。ギャッビーは車 のステッ。フポードに立ち、せわしなく身体を動かしながら、均衡を保っていた。これ はアメリカ人に特有の体癖で、若いときにものを持ち上げる作業をあまりしなかった とか、きちんと座る訓練を受けなかったとか、そういうせいかもしれない。我々の愛 好する落ち着きなく散発的なスポーツ・ゲームの、形式を欠いた美質にその原因を求 めることも可能かもしれない。 いすれにせよこうした傾向は、そわそわするというか たちをとって、彼の一見隙のない物腰に、止むことなくほころびを作り出すことにな った。とにかくじっとしていることができないのだ。常にこっこっと足で拍子を取っ たり、所在なげに手を開いたり閉したりした。 僕が彼の車を感心して眺めているとギャッビーはとった。 「なかなかきれいな車でしよう、オールド・スポート , と彼は言った。そして車を もっとしつかり眺められるように、地面に飛び降りた。「これを見たのは、君は初め てでしたつけね ? 」 目にしたことはあった。この車に目をとめたことのない人間はますいないはすだ。 こってりとしたクリーム色で、ニッケルが派手に輝き、そのとびつきり長い車体のあ
176 音楽室に入ると、ギャッビーはビアノのそばの小さな明かりをひとつつけた。そし てディジーの持った煙草に、震える手でマッチの火を差し出し、部屋のすっと奥にあ るカウチに彼女と並んで腰を下ろした。玄関ホールから差し込む光をフロアがほのか に反映させるほかには、二人の姿を照らすものはなかった。 「ラブ・ネスト」の演奏を終えると、クリ。フス。フリンガーはビアノ椅子に座ったまま 振り返り、つらそうな顔で暗がりの中にギャッビーの姿を求めた。 「ですから、ぜんぜん練習をしていないんですよ。うまく弾けないって言いましたよ ね。練習というものをーー」 しいよ、オールド・スポート」とギャッビーは命じた。「ただ演 「おしゃべりはもう、 奏したまえ ! 」 朝にも タに、も 僕らは楽しいことがい。し 外では風音が高まり、湾の方に雷鳴の微かなとどろきがいくつも聞こえた。それに
277 第八章 ニューヨークに行きたくはなかった。仕事ができるような状態でなかったのは確か だが、それだけが理由ではない。僕としてはギャッビーをここに残していきたくなか ったのだ。その予定の列車を見送った。次の列車も見送った。それからようやくあき らめて腰を上げた。 「電話を入れるよ」と僕はとうとう言った。 「うん、そうしてくれ、オールド・スポート 「お昼頃に電話するよ」 我々はゆっくりと階段を下りた。 「ディジーもきっと電話をかけてくるはずだ」、彼は心配そうに僕を見た。カ添えを 必要としているようだった。 「僕もそう思うよ 「しゃあ、ごきげんよう」 握手をし、僕はそこを去った。垣根にたどり着く前に、ひとっ心にかかることがあ って、僕は背後を向いた。 「誰も彼も、かすみたいなやつらだ、と僕は芝生の庭越しに叫んだ。「みんな合わせ ても、君一人の値打ちもないね」
264 彼は首を振った。 「ディジーがべッドに入るまではこここ 冫いたい。おやすみ、オールド・スポート」 彼は両手を上着のポケットにつつこみ、真剣な目つきで屋敷の監視に戻った。僕が そばにいると、その寝すの番の神聖さが損なわれてしまうとでも言いたげに。だから 僕は月光の下に立っ彼をあとに残し、黙して歩き去った。それが無益な見張りである ことを知りながら。 * 1 ニックはおそらくは酷暑のために頭がぼんやりして現実感を失い、戸口に出てきた執事 の姿を目にして、探偵小説のシーンをふと思い浮かべたのだろう。殺人事件に執事が登場 するのは、英国の探偵小説のひとつのステレオタイ。フである。もちろんューモアの感覚で 書かれた部分だが、そこにはやはり不吉な予感のようなものも示唆されているはすだ。
「何か要りようなものがあったら、遠慮なく申しつけて下さい、オールド・スポー ト」と彼は僕に言った。「失礼します。のちほどまたお目にかかりましよう」 彼が行ってしまうと、僕はすぐにジョーダンの方を振り返った。驚きの念を彼女に 冫。しかなかった。ギャッビー氏というのはてつきり、血色の良いでつ 伝えないわけこよ、 ぶりした中年男に違いないと思いこんでいたのだ。 「あれはどういう人なんだい ? 」と僕は尋ねた。「君、知ってる ? 」 「要するにギャッビーっていう名前の男よ」 「だからさ、どこの出身なんだ ? どんな仕事をしているんだ ? 」 「あなたが尋ねたから、お答えしますけどね」、彼女は気のない笑みを浮かべてそう 言った。「本人から聞いた話では、以前オックスフォード大学に通っていたことがあ るそうよ」 彼の背後の情景がぼんやりと像を結び始めたが、それは次のひと言ですぐに薄らい でしまった。 「でも、ちょっと信じられない 「どうして ? 「どうしてかはわからないけど」と彼女は言い張った。「あの人がオックスフォード
206 「誰だって ? と彼は不作法に聞き返した。 「キャラウェイ」 「キャラウェイね。わかった。伝えておきますよ ドアが面前でびしやりと閉められた。 うちのフィンランド女は、一週間前にギャッビーが、屋敷の使用人全員に暇をとら せたのだと教えてくれた。あとがまとして新しい使用人が五、六人やってきた。彼ら はウエスト・エッグの村には一切足を踏み人れないし、従って商店主たちに袖の下を つかまされたりすることもない。必要なものが適度な量、電話で注文されるだけだ。 食料品を配達に行った少年の報告によれば、キッチンは豚小屋のような惨状を呈して いるらしい。そして新任の連中はいわゆる「家僕」タイ。フからはほど遠いというのが、 村の人々の一般的な見解だった。 翌日、ギャッビーが電話をかけてきた。 「引っ越しでもするつもりなのかい ? 」と僕は尋ねた。 「違うよ、オールド・スポート」 「使用人全員をクビにしたって話だが」 「つまらないゴシッ。フを言いふらされたくないので、ロの堅い連中を入れた。しつは
166 「やあ、オールド・スポート」と彼は言った。まるで何年も会っていなかったような ロぶりである。握手を求めてくるんじゃないかと思ったくらいだ。 「雨はもうあがったよ」 「そうかい ? 」、僕が何の話をしているのかを理解し、部屋の中に陽光がいかにも軽 快に踊っていることに気がついたとき、ギャッビーは天気予報官のごとく、まるでそ こに再びもたらされた光の後見人のように、うっとりした笑みを浮かべた。そしてそ の知らせをディジーに向かって繰り返した。「ねえ、どう思う ? 雨がやんだよ」 「嬉しいわ、ジェイ」、悲しく痛ましいまでの美に満たされた彼女の喉が語っていた のは、彼女自身の思いも寄らぬ喜びについてでしかない。 「君とディジーにうちに来てもらいたいんだ」と彼は言った。「彼女に中を見てもら いたいと思って 「僕も一緒におしやましていいのかな ? 」 「もちろんだよ、オ ] ルド・スポート」 ディジーが化粧直しに二階に行っているあいだーー。・きれいなタオルを出しておけば よかったなと後悔したが、あとの祭りであるーーーギャッビ】と僕は芝生の上で彼女を 待った。