254 て上げられたが、 途中で止まって腰のあたりに落ちた 「飛び出していって、ニュ ーヨークから来た方の車が正面からどんとぶつかった。時速三十から四十マイルは出 ていたね」 「この場所の地名は ? 」と警官が質問した。 「ここには名前なんてありませんや」 肌色の薄い、身なりの良い黒人がそばに寄ってきた。 「黄色い車でした」と彼は言った。「大きな黄色い車です。新車でした」 「事故を目撃したのか ? 」と警官が訊いた。 しいえ、でもその車はこの先で、私のすぐ脇を通りすぎていきました。時速は四十 マイルより出ていました。五十かあるいは六十か」 「こっちに来て名前を教えてくれ。ほらほら、この人の名前が必要なんだよ」 この会話の一部が、事務室の戸口で身を揺すっていたウイルソンの耳に入ったらし あえ というのはその喘ぐような叫びの中に、新しい主題が登場したからだ。 「どんな車だったか、教えてもらう必要はないそ ! それがどんな車だったか、俺は 知ってるんだ ! 」 トムの肩の背後の筋肉が硬く引き締まるのが、服の上から塊りとして見えた。彼は
120 「おはよう、オールド・スポート。 我々は今日、昼食を一緒にすることになっている わけだが、 ついでだから一緒に街まで車で行かないかと思ってね」。ギャッビーは車 のステッ。フポードに立ち、せわしなく身体を動かしながら、均衡を保っていた。これ はアメリカ人に特有の体癖で、若いときにものを持ち上げる作業をあまりしなかった とか、きちんと座る訓練を受けなかったとか、そういうせいかもしれない。我々の愛 好する落ち着きなく散発的なスポーツ・ゲームの、形式を欠いた美質にその原因を求 めることも可能かもしれない。 いすれにせよこうした傾向は、そわそわするというか たちをとって、彼の一見隙のない物腰に、止むことなくほころびを作り出すことにな った。とにかくじっとしていることができないのだ。常にこっこっと足で拍子を取っ たり、所在なげに手を開いたり閉したりした。 僕が彼の車を感心して眺めているとギャッビーはとった。 「なかなかきれいな車でしよう、オールド・スポート , と彼は言った。そして車を もっとしつかり眺められるように、地面に飛び降りた。「これを見たのは、君は初め てでしたつけね ? 」 目にしたことはあった。この車に目をとめたことのない人間はますいないはすだ。 こってりとしたクリーム色で、ニッケルが派手に輝き、そのとびつきり長い車体のあ
323 第九章 たのだ。自分が話している相手は、子供みたいなものなんだと。それから彼は真珠の ネックレスをーーあるいはただのカフス・ボタンかもしれないがーー購入するために、 宝飾店に入っていった。僕の田舎もの特有のこだわりなんか、あっという間に忘れて。 僕が出て行くとき、ギャッビーの屋敷はいまだ空き家のままで、庭の芝生はうちの 芝生と同じくらい伸び放題になっていた。村のタクシー運転手の中に、ギャッビーの 屋敷の門の前を通りかかると必す車を停め、中を指さして一席ぶたないと収まらない 男が一人いた。事故の当日の夜、ディジーとギャッビーをイースト・エッグまで乗せ て行ったのが、あるいはこの運転手だったのかもしれない。そして彼は自分なりの物 語を拵えたのだろう。そんな話を聞きたくはなかったから、列車を降りると、この男 の車だけは避けるようにした。 土曜日の夜はいつもニュ 1 ヨークで過ごした。というのは、ギャッビーの家で開か れていたあのきらびやかで大がかりなパーティーがまだ僕の頭の隅に残っていて、あ ちらの庭から音楽や笑い声が微かに、切れ目なく聞こえてくるような気がしたからだ。 そして車回しを行き来する車の音も。ある夜、実物の車がやってくる音を僕は耳に した。その灯火が玄関の階段の下で停まるのも目にした。でもそのまま放っておいた。
250 しまっていた。 新聞が名付けた「死の車」は停止しなかった。それは刻一刻と深まっていく闇の中 からぬっと姿をあらわし、一瞬ぐらりと悲痛によろめいたものの、そのまま次のカー ブを曲がって消えていった。ミカエリスは車の色さえ定かには覚えていない。淡い緑 色だったと彼は最初の警官に言った。あとから一台別の車がやってきて、それはニ ーヨーク方向に向かう車だったが、百ャードばかり行き過ぎて停止し、急いでバッ クしてマートル・ウイルソンのもとに戻ってきた。 , 彼女は力すくで生命を断ち切られ、 路上にひざますくような姿で、どろりとした黒い血を地面に染みこませていた。 ミカエリスとその男が最初に彼女のもとに駆け寄った。まだ汗で湿っているシャッ ブラウスを破ってみると、左の乳房がもげてぶらぶらしているのが見えた。その下に ある心臓の鼓動を確かめる必要もなかった。ロはかっと大きく開かれ、その両端が裂 けていた。まるで、長年にわたって溜め込んできた恐ろしい量の活力を一度に吐き出 そうとして、それがつつかえたみたいに。 そこに着くずっと手前から、三、四台の車と人だかりが目についた。 「事故だ ! 」とトムが言った。「よかったな。これでウイルソンも少しは仕事にあり
223 第七章 ながらウイルソンの店の看板の下で急停止した。ややあって経営者が建物の中から姿 を現し、どろんとした目でしげしげと車を見つめた。 「さあガソリンを入れてくれよ ! 」とトムが乱暴にどなった。「なんのために車を停 めたと思ってるんだ。景色を観賞するためか ? 」 「具合が悪いんです」とウイルソンは身動きひとっせず言った。「朝からすっとふら ふらしていまして」 「どうしたんだ ? 」 「何をする気も起きないんですよ」 いいのか ? 」とトムはびしやりと言った。「電話しやす 「じゃあ俺が自分で入れりや いぶん元気がありそうだったがな」 ウイルソンは日陰の中で戸口にもたれかかっていたのだが、やっとそこから歩み出 て、はあはあと息をしながら車の燃料キャツ。フをゆるめた。明るい日差しの中で彼の 顔は苔のような色をしていた。 「昼食のお邪魔をするつもりはありませんでした」と彼は言った。「でもどうしても 金が必要なんです。それでおたくの古い車をどうなさるつもりなのか知りたかったも ので」
255 第七章 急ぎ足でウイルソンのそばに行くと、相手の顔をまっすぐ見据え、両方の二の腕をぎ つく握っこ。 「しつかりしろと彼はしやがれた声で言い含めるように言った。 ウイルソンの目はトムの姿を認めた。彼ははっとつま先立ちで身を起こしたが、も しトムがまっすぐに立たせていなかったら、そのまま崩れ落ちていたに違いない。 「いいか、よく聞くんだ」とトムは相手を軽く揺さぶりながら言った。「俺はたった 今ニーヨークからやって来たばかりだ。例のクーべをお前のところに運んできた。 今日の午後に運転していたあの黄色い車は俺のものしゃない。わかったか ? あの車 は午後になってからまったく目にしちゃいない」 近くにいて彼の言ったことを聞きとれたのは、黒人の男と僕だけだった。しかし警 官はその声音に穏やかならざるものを聞きつけ、きつい目でしろりとこちらを見た。 「何をそこでうだうだやっているんだ ? 」と彼は訊いた。 トムは警官の方を向いて言ったが、両手はそのまましつ 「僕はこの男の友人でね」、 かりウイルソンの身体をつかんでいた。「そのひき逃げした車を知っていると彼は言 っている : : : 黄色い車だったと」 何かが漠然とではあるが警官を刺激し、彼はトムに疑惑の目を向けた。
220 ひそめてトムを見た。そしてなんとも判別のしがたい表情がギャッビーの顔をよぎつ た。それはまったく見慣れない、しかし同時にどことなく心当たりのあるー、ー一言葉で 表現されるのをどこかで耳にしたことはあるという類いの , ーー表情だった。 「さあ、行こうぜ、ディジー」とトムは言って、手で押して彼女をギャッビーの車に 乗せようとした。「このサ ] カス馬車で君を街まで連れて行こう」 彼女は身体にまわされたその腕から逃れた。 彼はドアを開けたが、 「あなたはニックとジョーダンと一緒にいらっしゃいよ。私たちはクーべであとをつ していくから _J ディジーはギャッビーの脇に寄って、彼の上着に手を触れた。ジョーダンとトムと 僕は、三人でギャッビーの車のフロント・シートに並んで座った。トムが不慣れな車 のいくつかのギアをためらいがちに試すと、車はむっとする熱気の中に勢いよく飛び 出し、あとの二人の姿はあっという間に背後に見えなくなってしまった。 「あれを見たか ? 」とトムが尋ねた。 「見たって、何を ? 」 彼は鋭い目で僕を見た。そして僕とジョーダンが前々から事情を承知していたこと を見てとった。
129 第四章 れたものがそこにある。クイーンズボロ橋から街を俯瞰するとき、それは常に初見の 光景として、世界のすべての神秘とすべての美しさを請け合ってくれる息を呑むよう な最初の約束として、僕らの目に映しるのだ。 一人の死者が、花輪を山と飾った霊柩車に乗せられ、僕らの車とすれ違った。その 背後にはブラインドをびたりと下ろした二台の車が続いた。そのあとに故人の友人た ちを乗せた、もう少しにぎやかな何台かの車が従う。その友人たちは窓から我々の方 を見た。ヨーロッパ南東部風に彼らの目は哀しみの影をたたえ、上唇は短い。ギャ ッビーのあでやかな車が、彼らの陰気な休日にいくぶんなりとも光明を投げかけたこ とを、僕は喜ばしく思った。ブラックウエルズ島を抜けるときに、一台のリムジンと すれ違った。運転手は白人で、客席には当世風のなりをした三人の黒人が座っていた。 若い男が二人と、娘が一人。彼らはいかにも尊大に、対抗心をむき出しにしてこちら を睨み、どんぐり眼をくりくりさせたので、僕は思わすふきだしてしまった。 「この橋をいったん越えてしまえば、どんなことも可能になるのだ」と僕は思った。 「思いも寄らぬことさえ : そう、このギャッビーですらそれほど突飛ともいえない存在になってしまう。
253 第七章 と、警官に向かって小声でもそもそと、意味の通らないことを話しかけた。 」と警官はロにしていた、 「いやそうじゃなくて、 」と相手の男は訂正した。「ー 「ちょっと聞いてくれ ! 」とトムはぼそぼそした声で荒つぼく言った。 「」と警官は言った。 トムの大きな手が肩にとんと強く置かれたので、警官は顔を上げた。「何 か用かね ? 」 「いったい何があったんだ ? それだけ教えてほしい 「車にはねられてね、即死だった」 「即死だった」とトムは目を据えたまま、相手の言葉を繰り返した。 「道路に飛び出していったんだ。車の方はまったく停まりもしなかった」 「車は二台いた」とミカエリスは言った。「こっちから来るのと、あっちに行くの」 「あっちに行くって、どこに ? と警官が鋭い口調で尋ねた。 「それそれの方向に向かっていた。それで彼女は」 ミカエリスの手は毛布に向け
引 3 第九章 あめ 三時少し前にルター派教会の牧師がフラッシングからやってきた。ほかにやってく る車はないものかと、僕は窓の外にちらちらと目をやっていた。見るまいと思いつつ も、つい視線がいってしまう。ギャッビーの父親も同しように外に目をやっていた。 そして時間が経過し、使用人たちが姿を見せ、玄関に立って出発の合図を待ち始め たとぎ、彼の目は心配そうに細められ、心許なげに、困ったように雨について何か言 った。牧師は何度か時計に目をやった。僕は牧師を見えないところに呼んで、あと半 時間ほど待ってもらえないだろうかと頼んだ。しかしそんなことをしても無駄だった。 結局誰も来なかったのだ。 五時頃に我々は三台の車に分乗して墓地に着き、入り口のわきで車を降りた。小糠 雨が降りしきっていた。先頭は霊柩車で、これは雨に濡れて、おそろしいほど黒々と 見えた。その後ろにミスタ・ギャツッと牧師と僕が乗ったリムジンが続いた。それか ら少しあいだをあけて、四、五人の使用人と、ウエスト・エッグから来た郵便配達人 が一人乗ったギャッビーのステ ] ション・ワゴンがついてきた。全員がぐしょ濡れに なっていた。我々が入り口の門をくぐろうとしたところで、背後で一台の車が停まり、 それから濡れた地面をベちやペちゃと踏みしめながら、誰かが一行のあとを追ってく 「」ぬか