大阪 - みる会図書館


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1. モノ・マガジン 1991年8月2日号

町人の町人による町人 のための大阪 江戸時代は、町人文化花開いた頃。江戸時 代というくらいだから、江戸がすべての中心 と思われがちだが、さに在らず。文化の発信 地ははじめ京都であとは大坂なのであった。 大阪 ( 大阪は明治以降の書当芳 ) は、豊臣 方の本拠地という , 」ともあり、徳川は侍に支 配させることを恐れた。豊臣政権崩壊後、大 坂城には最初で最後の城主として家康が最も 信頼した松平忠明が入ったが、後にー天領 ( 幕 府直轄地 ) となった。行政の元締めは町奉行 所だが、実際の行政は有力町人から選ばれた 「惣年寄」による合議で行われた。 大坂万の人日の内武士は、蔵屋敷関係者 ほか数千人でしかない。城主ならぬ預かり人 の殿様 ( 城代 ) もその配下も所詮「お客さん」 であり、大坂は名実ともに町人の町だった。 こうした社会状況から町人文化である元禄 文化は、浪華で生まれたのである。 その大坂が発展するのは、秀吉以降である。 大坂城を造り、堺の商人を移住させ、城下町 を作った。これが現在の大阪の基礎。 それ以前、大坂城のある上町台地には古く 難波京があったがその後は人気は途絶えた。 中世後期、石山本願寺の 8 代法主蓮如が、寺 を建てて布教の中心とした。このとき守領内 に人を住まわせ、寺内町、門前町を発達させ 。蓮如は織田信長と五分にわたりあった豪 傑たったから、寺内町は、種自山都市的な 気風を育てたようだ。 天下の台所になったのは、片世紀の前半、 寛、水のことである。政治がごっそり江戸に移 動してしまったので、大阪は町人ばかりの町 になった。町人は仕官して出世を望むべくも ないので、いきおい商売の道で立身を夢みる。 もともと、堺やら近江やらの名だたる商人が 軒を連ねる町であった。 朋Ⅷ S Ⅷ ス浪 イヒ ワ の る ま 「大阪の精神は商業なり、大阪の空気は商業なり、大阪の教育、大阪の工芸、 大阪の美術、全ての商業頃向を有せざるはなし」 商都大阪を云い尽くしているコトバである。そ也もろもろ大阪の 思言ヾワーの源流となる硬のエピソードをどうそ。 3 文 / 富樫暁美 ごとく、水陸の交通の便に恵まれている。さ らに、日本海から瀬戸内海を経て大阪に到着 する西廻り航路が開け、文字どおり日本全国 から生産物が大阪に届くようになる。江戸・ 大阪間の航路も発達、生産地・集散地・消費 地が完備され、大阪は商都となった。 大阪に米相場が立ち、全国の名産品が並び、 一大消費地江尸に向かって船は出る。江戸は 日本一、中期以降世界一の人口規模を誇った が、人口の半分が武士、面積の間 % が武家屋 敷 という、武士の町だった。武士は、商業と 金を軽んじ、米が大事の農本主義がどうもぬ けない。参勤交替で国を離れて、消費するし かないくせに農本主義もないものだが。大阪 町人は、江戸武士をきっちり喰いモノにして 大いに稼ぎ発展したわけである。 浪華商人の特徴は「始末」の一言につきる。 つまり帳尻をあわせること。細かいことの積 み重ねを大事にする。また一見損な投資でも、 何年かしてきっちり算盤が合 - フこともある。 自山かったっ、変幻自在。一方で保守的。こ 中間というもの力あって、 れは、商売上、株イ 排他的組織を築いていたからに他ならない。 文化も浪華商人の特徴が現れる。学間では、 懐徳堂という学間所があった。ここは、瑕な ときに学びたいものが学べ、という自主独立 の学校である。言い換えれば商い優先、商売 を犠牲にしてまでくるなという精神である。 鴻池など、商人の出資でささえられていた。 福沢諭吉などを出した適 ( 適々斎 ) は 緒方洪庵が自力で支えただが、やはり自山 と自主を旨とし、各々適した学間をすればい 、という学校であった。 遊廓にも大阪の色があった。京の島原・江 戸の吉原とならんで大坂の新町は有名だった が、京都の風情と格式をかね備え、庶民的で 気が置けない。 大阪町人の夢は、井原西鶴が書いているよ

2. モノ・マガジン 1991年8月2日号

タウ、誌て新鮓情報菊水丸 02 発売 / あのカーキ音頭の大ヒットで、関東でも せつか大阪に行くなら、決まりきった観 光コー 大人気の河屋菊水丸。大阪ではすでに別年 たけでなく、ライプな大阪の旅を楽 0 たカセットの中の「レゲエ一代男 しみたい。特になるべく新鮮な、活き 、ポプ・マーリー物語」のヒットでスターと 活きとしている新しい大阪の街を なっていた。独自の流派新聞 ( しんもん ) 詠 体験したい。そのために / 0 み河内音頭の家元である彼は、わずか 9 歳の はやはり東京など で手に入れたガ時に父・河内屋菊水に入門し、高校 3 年でな んば花月のソロ公演をおこなっている。年 イドブックだけで 以降も「グリコ森、奕事件」「阪神タイガース は、はっきり言って 情報不足。そんな時優勝物語」「三浦和義物語」「明石家さんま物 語」「ワイわ横山じゃ」などタイムリーな名作 に情報源として活用す を生み出していった。特に「リクルート大事 るといいのが、大阪のタウ 、 , ン誌。代表的なのは京阪神エルマガジン社の件傑作集」は大ベストセラーを記録した。ア 発行している〃マガジン % 東京で言うと〃ア ントニオに同行し戦火のイラクへも行っ ング当なんかの感じで、数日しか大阪で過ている。夏のあいだは盆踊りの櫓の上での仕 ・事が忙しく年には通算 333 ごさない観光ガイドブックの目では、絶対に 3 櫓を達成。その水丸のメジ 第。キャッチできない、地元ならではのきめ細か二ン ャーデビュー「新聞詠み・古 ら一い情報を提供してくれるのがうれしい その他、同じ出版社の " ミーツ・リージ , ナ - 河菊典河内音頭ネタ十八第一集」 が発売される。美空ひばり、フ ル〃は女性向けのオシャレな生活情報がいっ メジャーでは〃ハナコウエスト〃や セインから小田原相撲 騒動記の古典まで、得 れ , " びあ。関西版がある。どれも大阪の書店で手 意の節回は絶好調。⑩ —LO っ 0 ー ー 5136 、マガジンハウス阪谷ー 371 ・物アポロン谷 ー 8750 、びあ大阪容ー 313 ー 4111 おわせます。ーン ~ た 華客船て行く大阪の旅 せつかく大阪の旅を楽しむなら、いつもなのが、ゆったりのんびり海の道をゆく「豪 、わった味わいのある旅をしてみる壟各船で行くエキゾチック大阪」のクルージ の ( いのでは ? たとえば、たまの休日だングだ。これは西日本が用意した、横浜 から少しペースダウンしてみるという手もあから神戸までのロマンチックなクルーズと大 る。たつぶりと旅の時間をとるということな阪での宿泊をプラスしたプランで、単なる船 のだが、単純に大阪での滞在日数を増やすだ旅ではない思い出に残る、うっとり口マンチ けではなく、移動という旅のプロセス自体をックな船の時間を味わうことができるもの。 もっとじっくりと味わうような、旅のスタイ神戸までの豪各船ジャパニーズドリーム ルだってあるはずだ。 号は、まるでヨーロッパの伝統的なホテルを そんな時間を大切に感じたい人にピッタリ思わせるくつろぎの空間で満たされている。 すべての部屋にべッド、シャワールームが付 き、特にロイヤルスイートルームは、バスタ プ付きのバスルームとツインべッド、冷蔵庫 付きのミニバーも用意されている豪華さ。 プリックスペースにはオープンカフェやプテ ィックもあり、まさに動くホテルといっても 過言ではない素晴らしい空間だ。 料金は船室の等級、大阪での宿泊ホテルに よって異なり船中泊 1 日、大阪泊 1 日の計 2 ″ 泊 3 日間で 4 万 5800 円、 8 万 7000 円 までのコースがある。太平洋を望みながらの 船旅はいつもと違う大阪の表情を感じさせて くれるかも知れない。 ⑩西日本トラベルシップ市ヶ谷谷 ー 0 ワ 3 、 6 1 ーワ 94 1 0 〃 . 渋社宛 都会 中紙京式係 施所東株衄 住 1 薬ッ トキ〒光ン ン、久サ製 ゼび光 のコ レ官 = = 。 1 プは 4 試望・ 、希令区京請 供ご年谷東→ ) のサ . 真田広之 タテ・ヨコ・ナナメに伸縮自在。 ひじ・ひざ・腰などの激しい動きにもビッタリフィット。 伸びて縮んで、はかれない 新しいタイプのシップ剤で魂 身・ねんさ・筋肉・筋肉労・第第・こり のびのびサロコ 1 当 攣伸自在 打身・ねんざ・筋肉痛・筋肉疲労・腰痛・肩こり H に爛第

3. モノ・マガジン 1991年8月2日号

じゅうそう 十三は不思議な街である。大阪がいちばんが瞬間的に「とてもかなわない」と思ってし 良かった頃の 1960570 年代のあの活気まった。そんな気配を察してかどうかは知ら とモノの価値観で、ずっと時間が止まってい ないが、男性のほうから話しかけてきてくれ るような第かするからだ。派手なネオンの間 た。最初は遠慮がちに、そして次第に自信に には、ホルモン焼きとネギ焼きの煤けたよ、つ満ちあふれた口調で語る男性の話は、もつば な匂いが立ちこめ、飲み屋と食べ物屋が軒をら「角』の話であった。 連ねる横丁の入口では、市販で 500 円くら 「僕は昭和のひと桁生まれだけれど、例か若 いのお菓子の詰合せが 350 円で山積みしてかった頃は『角』は盆と正月しか飲めなかっ 売られていゑビジネス街や繁華街の活気と たね。今なら普通に飲めるけれど、それでも は明らかに性質の異なる、民族的な活か漲やつばり『角』は特別なんだな。大事に飲む っているのだ。記憶の断片に残っている昭和っていうのかさ、僕の青春なんだよね」 の活気は、間違いなくこれだったと思う。リ ″その時代を生きてきた人しかわからない個 ドリー・スコットが映画の舞台にこの街を選人世界の傑作品。そんな言葉が頭の中に浮か んだ理由がなんとなくわかるようなかした。んできた。その男性の世代感黨か羡ましくて、 泉ではまず口にすることのできない質と無意識に自分の世代感覚とシンクロさせてみ ヴォリュームの焼肉で満腹になった後、隣のようとこんな質間を投げかけた。 ″十三トリスパー〃で一杯傾けた。懐かしい鯨「オールドもそんな思い入れがありますよ のべーコンとジャックダニエルの水割りに舌ね。」大人の大人は黙って首を振った。 鼓を打っていたら、右となりのスツールに腰「ダルマを飲むということは " 精神の墜落〃 ということなんだよ、僕らの世代はね」 かけていた壮年の男性が旨そうに『角』を呷 っていた。人生を駆け抜けてきた男の凄みと、プルジョアジーへの反骨というべきなのか、 立ワ 清濁あわせのむような度量が身体全体から発その言葉の奥に『角』というウイスキーの本け、 / 散されている感じがして、理由はわからない当の位置付けが隠されているようで、この世 カ ~ と んリ 飲ト、 第レた ? クっ トリス 22 ・

4. モノ・マガジン 1991年8月2日号

完成した。ルナバークの入場料は 5 銭、なぜ かターバン巻いたインド人が切符もぎりに立 ち、内部には、。、ヴィリオンが並ぶ。いわく 美人薐館、エジプト館、不思議館、水山館、 幹線鉄道館など。からくりや、冷房、ミニチ ュアワールドなどて人々の耳目を驚かせたと いう。また芝居や音楽のパヴィリオンもあっ 通天閣の脚部は、アーチ状、凱旋門風の造 りて正面から見ると、ルナバークへの華麗 な門のようだ。脚部から階段て上がると上は 空中庭園、そこからエレベーターて全長メ ートルの塔上に登る。ルナバークとここは 4 人乗りのロープウェイて結ばれていた。 新世界の 3 本の道の入口には、凱旋門モド キの美しい門があり、訪れる客人達を迎え入 れた。新世界全体に、様々な趣向がこらされ、 写真を見る限り店舗・建築も統一イメージが 貫かれている。こうしたことごとすべてが、 おそらくは土居の夢と理想を反映していたの 、つつ - フ 「構造の壮大なると、装飾の業を尽くせる とは先ず人目を驚かすの第一階段」 当時の言葉てある。 天王寺は前出の某氏のおっしやる通り、四 天王寺参詣てにぎわった界隈てある。四天王 寺は農村地区の信仰を集めていた。彼らにと って天王寺参りは日帰りレジャーだった。参 詣ついてに、歓楽街て遊ぶのが常だったが、 ミナミまて足を伸ばすのも億劫だし、パキハ キの大阪人ばかりて気がひける : : : というこ とて天王寺周辺には、難波より価格帯も下て 気どりのない歓楽街がてきていた。 新世界以前にその中むになっていたのカ 入ュ呂商業倶楽部』てあった。 1889 年 ( 明 治年 ) に完成したといわれるこの建物は、 八角形の高楼展望台を備えた堂々たる木造洋 風建築。周囲に、蒸至風の建物、築山・池・ 滝などを配し、庭園に草木を植え、鳥や動物維新後は、新政府役人となる。五代友厚が を放していたという。ここには、舞台や料亭、統轄していた外国事務局大阪運上所に勤務。 温泉、店舗も多くしつらえられ、総合娯楽セ五代友厚は、大久保利通の政大阪政財界 ンターだったが、後には、入場科を払って見の大立者、大阪商工会議所 ( 設立当初は商法 物させる有料庭園のようなものに変じたらし会議所 ) の初代会頭てもある。 い。「らしい」というのも、ム營商業倶楽部は土居は、五代の下て異例の早さて出世した。 勧業博の敷地のどまん中にあり、開催のため初年月 7 両の俸給が、一年後には 100 両に に解体撤去されたからてある。その営業はわなっていたというから恐れ入る。 1871 年 ずかⅡ年てあり、記録は少なく判然としない ( 明治 4 年 ) 、大阪府権少参事荷する役職か しかし、八ュ呂の賑わいに、 理想的娯楽施設は知らねども、偉いのだろう ) を辞して上京、 をこの地にと見た〃誰かみがいなかったとは大隈重信邸に寄宿した。同年秋より、司法省 断定はてきない。 勤務となる。土居は以後肥年間にわたり、裁 これを申し合わせると、通天閣とルナバー 判官として過ごす。この間、大隈重信、北畠 クは、いわば天王寺地区再開発計画だったの治房、五代友厚はじめ、政財界の人々と親交 てはなかろうか。勧業博に、遊園地施設てあを深めていった。 るメリーゴーラウンドなど配置したことから ところが司法状況が変化した。役職につき も、土居はおそらく始めからルナバークをイさえすればあとは良識判断という「大岡裁 メージしていたこと力分かる。 き」から、ヨーロッパ式に専門家を育て司法 当時の大阪にコニーアイランドとエッフェに当たらせるものへと変わってきたのてある。 ル塔という計画は、千葉にディズニーランド ノンキャリアの土居にしてみると、居心地 を作るというよりスゴイ。ては、この壮大なが悪かっただろう。或いは、五代友厚が野に 計画を描き、実行に移した土居通夫とはどう 下って活躍する姿にインスパイアされた結果 いう人物だったのだろう。 かも知れない。 そのとき、大阪の「三皋商」から土居に誘 伝・土居通夫 彼は、四国は伊予宇和島藩士の六男と いカかかった。住友と鴻池 ( といま一つは不 して 1837 年 ( 天保 8 年 ) に生まれた。 明 ) だ。明冶年、司法省を辞し顧問として 剣と学問をよくし、剣の則は後に「壬生鴻池に入る。鴻池は、皋商し J してかの淀屋と 浪士」っまり、新選組から誘いを受けるほど肩を並べた近世の名門だが、維新後どうも不 ごった。もちろん断ったが。 振をかこっていた。テコ入れ人材として土居 彼の運命は、 1861 年 ( 文久元年 ) に急に白羽の矢がたったのてある。 転した。宇和島へ来た坂本童馬との邂逅てあと同時に、土居は立未界て様々な活動を始 る。童馬との出会いが勤皇に彼を駆り立てた。めた。年秋に大阪株式取引所創立秀貝に名 1865 年 ( 慶応元年 ) 脱藩し大坂へ赴き、を連ね、同年肥月には大阪電燈株式会社を創 金貸て手代をしたり ( 土居は算術に長けてい立させ、翌幻年に社長に就任している。また た ) 、商家の鯊〈館のもとに寄宿したりしなが年には大阪毎日新聞社相談役、 % 年には日 ら、勤皇派との接触のチャンスを待った。や本生命株式会社相談役 ( % 年取締役就任 ) がて彼の望み通り、後藤象一一郎と出会い、輩さまざまな役職をした。さらに、京阪電 下て活動した。 鉄・阪鶴鉄道・紀和鉄道・伊賀鉄道・宇和島 32 ・

5. モノ・マガジン 1991年8月2日号

大阪の自慢といえば太閤さんに大阪城、碁 盤の町並み、喰い倒れ、通天閣に阪急電車に 阪神百貨店、野球の阪神・ しかし今、大阪の自慢の種はそれだけでは ーヴィレッジと ない。大阪港の天保山ハ 海遊館の完成、大阪テクノボート計画、西梅 田の再開発に、現在ロフトのできた新大阪駅 近くの茶臼町周辺の再開発、都市型リゾート と住居を融合させた弁天町の大阪リゾートシ ティ ( 0RC200 ) 、大阪城に隣接した川と 緑に囲まれた大阪ビジネスパーク (oma-) の建設が進行中。加えて」の外環状線、地 下鉄新線、幹線道路の拡張、高速道路の建設 も併せて進められている。伊丹から新関西国 際空港をつなぐ南北の座標軸は、新大阪・梅 田・難波を含む商業軸、大阪南港から弁天町、 をつなぐ東西の座標軸は、文化・情報 軸。拠点が見事に東西南北に配置されているし 超近代的で贅をつくした計画ながら、随所へ に大阪らしさがにじみでる。 ona- を例にとる ると、巨大な街区構成で、建坪率を低くした ため、高層ビルでも充分なオープンスペース′、 かとられて新宿副都心のような息苦しさがな 。新都庁 0 ような権威を主張し人を威圧す一な るかのデザインもここにはない。威嚇を嫌い、 押さえつけられるのが嫌う大阪人らしい計画 である。そしてどの施設も端正ででかい 外から見ると、雑多と混沌が大阪のパワー のように思えるので、整理されすぎてしまう のはつまらないような気もする。しかし、ど こに行っても、どや、面白いやろ、すごいや ろという嬉しそうな声が聞こえるようで、な んだか、ほのばのしてしまうのである。 現在、大阪は大大阪となり、さらに膨張して いる。都市がとめどもなく大きくなり、人を 受け入れるただの器になったとき、大阪は東 京と同じ位相を持つようになるだろう。 どう転ぶかは後の判断に任すとして、どこ もしつかり観光地化しているので、今はただ 幻世紀に向けた新しい大阪を楽しんで見よう。 臨し風象ノ は価ユ胸大大か景つ的ラ 格ニポ阪阪 . レ、しのこなマ 3 ーケにはバ広と風 物 5 なトー一分ラり多カ バナソニック・スクエア 欲 0 旋にズでにマがいメ 眺バ大 ホ 0 の入。広力は ッ 0 アるがメ並に 0 B P ツイン 21 内にある ルコりにラヒ它 ト ラバンの再ならサる一 最新のエレクトロニクスゾー イミムバあ生られイとズ ンノがクるす、るズ何 % ン。学ぶ・知る・創る・体験すをルでト土るかのだ こ・タきさ地。ら簧と るの 4 つのゾーンに分かれて 覧るもな て弓の だ いる。本物の F3 マシンで体 は さ先 験する富士スピードウェイの みヮ未 F 3 シミュレーションなど、 アミューズメントが結構あっ るイ来 てかなり遊べる。学ぶゾーン では、コンヒ。ュータの仕組み を子供にわかるように説明・ 展示してあるので、勉強にな る。 @谷 06 ー 949 ー 2122 印パ MINOLTA Panasonic バナソニック・スクエアで見つ けたオリジナル・グッズ各薯 F 3 シリーズをいくつカ介。 300 円くらいからあるぞ。問バナ ソニックスクエア容左参照 の PanasoniC 24 ・

6. モノ・マガジン 1991年8月2日号

■材 り、スケート場を含む娯楽センターになった。 スケートはすいぶん流行った。大阪人はスポ ーツ好きだそうでスポーティな服装も好むが、 写真を見る限り ( 冒頭の女性 ) スケート場で も、どこか派手である 浪華っ子の心意気 スクラップ & ビルドの続く東京では、旧い ものを残そうとい -2 風慨は少ない。気慨があ っても、実現しない方が多い。聖ルカ病院の 鐘楼も、も消えてしま - フ。そもそも は金なのだが、寄付して残す、または復興さ せるほど、街に愛着があるかどうかである 大阪においてよ・、 ー . = カ一変する。市民の寄 付でできたものの代表は、大阪城大守閣。昭 和 3 年から復興基金が募られ、それだけであ の巨大な城を創ってしまった。 そのパワーはすごい 大阪人の心意気とは、自分の街を自分で成 してきたという、自立の気風と誇りであろう。 たからこそ、古い街並みや建物に愛着を抱き、 残そうとする。決して「もったいなあ、まだ 使えるやん」という倹約だけではない。その 気風自体、大阪商人が培ったものなのだ。 中之島にある大阪市公会堂は、明治 年に、岩本栄之助が寄付した 100 万円を元 大正 7 年に完成したもの。 3000 人を 収容する大ホールをもち、当時としては稀な 規模の近代建築である。 岩本は、若くして株式で財をなした風雲児 だ。とはいえ全くの一個人か公共のために、 大金を是供するということは、前例力ない 明冶年 1 月四日、株式相場は急騰し、仲 買人は窮地に落ち込んだ。そのとき大阪株式 取引所の大株主だった岩本が、一気に売りに 出た。これがきっかけで、大株相場で 100 0 円もの高値をつけていた株価は下落、同年 Ⅱ月には大阪株式取引所の株は円まで下が った。おかげで野村徳七 ( 野村証券創始者 ) リ 3 以下、大阪の仲買人は破産を免れた。実は、 いずれにせよ、後々までの語り草になった、 破産を目前にした野村らが、岩本に頭を下げよ・、 十′力」し気 ー、は目録を残して、淀屋は断絶した。 にきていたのである。義侠心からの大勝負だ 淀屋橋は淀屋がかけた橋である。大阪に蔵 ったが、岩本は大金をつかんだ 屋敷がなかった頃、淀屋は各藩からの廻米を しかし、この大勝負の味を忘れかね、失敗独占していた。米市場は店の前で開いた。米 を繰り返した挙げ句、第一次大戦後のインフの運送と人の出入りのため、橋をかけた。 レのため急騰した相場で大きな穴を開けてし淀屋が橋を作ったのは、公共心ではなく、 まう。彼はこれを苦に大正 5 年月、自分の商売上の理山による。江戸時代、明治にかけ 身体にもピストルで穴を開けた。発見されたて大阪で掘割の開削が盛んに行われたが、こ 時にはまだ息があったが、手当のかいなく、 れも、交通が商売と密接につながるからであ 公会堂と堂島川を隔てた病院の一室で息を引る。港の建設も財界の手で行われた。公共事 き取る。ついに彼は公会堂を見ることはなか業に見えるが理山は右に同じ。 基本的には商売から離れた行動は取らない 岩本の悲劇は、大阪人の記憶に刻まれた。 のである。公共施設の寄付云々は、官を当て だからこそ、先年老朽化した公会堂を取り壊にしない大阪人の誇りだろう。合理的、拝金 す話がでたときも、保存のための市民運動が的、独断的、独立的。よくも悪くも商人が大 これをひっくりかえしたのだ。 阪を育てた。大阪には政府はないが商売と金 大阪の街の公共施設は、市民、ありていに があった。だから、自助自立を貰こうとする。 いえば商人の寄付によるものが多い その気風は、形は変われど今も受け継がれ 住友財閥の住友春翠は、茶日山の上地庭園ている。商都大阪は誇りを持って、未来へ突 を市立美術館用地として寄付。大阪府立図書き進む。最近の再開発計画は未来の『浪花商 館も彼の寄贈によるものだ。 都ストーリー 』となるだろうか 医師であり、亜鉛精錬未を興こした塩見初めに引用した文章の著者に再登場いただ 政次は、大阪大学理学部に寄付される塩見理こう ( 「明治文献資料礙巻」明治文献資料刊行 化学研究所の設立資金を。紡績業を営んだ竹会 ) 。 尾治右衛門は、竹尾結核研究所 ( のちに微生「 : : : しかも尚短所あらんか、商業教育、商 物研究所 ) を。山日玄洞は山日厚生病院を。業団結、その他の手段方法を持ってこれを補 野村徳七は大阪商科大 ( 現市大 ) 経済研究所 優に文明的商業の天地に突進するを得べ を : : : まだまだある。そのココロは「キタナし。日本の商業地たる大阪、東洋の商業地た く儲けて綺麗に遣う」である。儲けさせてもる大阪、漸く進んで世界の商業地たらんとす。 ろうたから、恩返ししよ、という精神なのだ。ああ大阪は幸福なるかな」。 浪花商人か行く 淀屋橋に豪商淀屋があった。いまは地名を 残すのみ。元禄に、所払い & 財産没収となっ たからである。その罪状は、奢侈である。名 目は、奉行の名を騙って、ほかの商家から借 金をしたというものだが、大阪一の豪商が借 金をする必要があるだろうか 参考資料 : 「浪花のなりわい」「浪花のにぎわ い」原田智彦編 / / 柏書房「写貢で見る大阪市 ー 00 年」「南区史」「続南区史」 / ( 財 ) 大阪市 都市協会「浪速写真館」読売新聞大阪社会部 編 / 朋興社「大阪経済人と文化」宮本又次 / 実教出版「上方の研究 4 巻」宮本又次 / 清文 堂出版「鴻池善右衛門」宮本又次 / 吉川弘文 館「通天閣年のあゆみ」 / 通天閣観光株 「南区志」 取材協力 / 大阪城天守閣

7. モノ・マガジン 1991年8月2日号

うに、「若いうちは身を粉にして働き身代を成 し、不惑の歳で引退して好きな芸事にいそし むこと』だそうだ。実際に、商人たちは「教 養」を貴んだ。浄瑠璃を見て義太夫を語り、 文人画をものにし、書画茶器を集める : : : 引 退した日一那衆の多芸多彩ぶりが、元禄文化を 生み出したのである。 摂津から大阪へ 維新後、大阪は摂津から大阪府になる。大 阪府は摂津の東半分に、和泉と河内を加えた 地域だ。元来、摂津は現在の大阪市と神戸市 尼が崎、芦屋など淀川右岸から京都 ( 山城国 ) との国境までを指した。 東大阪短期大学の伊勢戸佐一郎教授による と「明治政府なんて、脆弱な基盤しか持って いないから、神戸・大阪一帯の経済力を恐れ て、分断したのでしようね。その上で河内・ 和泉の農村部を繰り入れて財力を奪った」 維新のときは、幕府からも勤皇からも冥加″ 金を要求され没落した商人も多いのに、踏ん だり蹴ったりだ。しかも、首都が東京に決ま ったとき、お金は商都大阪に、ということで 造幣局擁立で慰撫されたものの、蓋をあけた ら、札の発行は東京の印刷局が握っていた。 そんなこんなで、明治初期にすっかり地盤沈 下を起こしていた大阪も日露戦争 ( 明治 ー年 ) 後の景気、紡績、工業の発達で勢い を伸ばし、第一次大戦後の戦凧気で東京を 抜くほどの勢い。明治年の第一次市域拡張 以後の地下鉄・市電など交通網の整備と摂 って大阪は膨張していった。 大正年、第一次都市計画が始まる。近代 化に備え、表通りの店舗の軒切りが行われた。 この年、心斎橋筋が 8 メートル道路になった。 それまで、商家は鰻の寝床式に奥行きの長 い家で、前が店舗、奥に家族手代丁稚が一緒 に住んでいた。しかし、軒切りのため、住居 部分を別にしなくてはいけなくなった。 ー 4 し ミ自ー自 4 7 4 1 しかし、生活は地味でも趣味は派手。気候 商家の家族は、芦屋などに家を建てて移り 住んだ。このとき、船場の旦那衆が集めた美的なものもあるだろうが、大阪人はパアッと 術品家具調度が、ごっそり大阪から持ち出さ華やかなものを好む。宝塚少女歌劇が始まっ たときは、男のファンが多かったという。 れた。と同時に、商家の暮しが変わった。大 店ほど奉公人も見習い女中も多く、日々の暮芝居・演芸が大阪で人気が強いのは、華や しは質素にしなければ、家計はあっという間かさへの憧れだろう。ふだんの暮しが地味だ に破綻してしまう。それが、主人と奉公人のから、いっそう、とい -2 持ちも働いた道 暮しが別になったため、芦屋で「細雪」の華頓堀の中座では、現在も歌舞伎公演のたびに 麗にしてモダンな生活が展開されるのである。 200 メートル以上の行列ができる。大阪の 一方、大阪文化の中むにはばっかり穴があファッションリーダーは、徳川時代から歌舞 き、そこに中国・四国・瀬戸内から商いを志伎役者だった。だから大阪の化粧はケバい。 した人々がやってきて文化の穴を、埋めてし大正から昭和はモダニズムの時代だった。 まった。さらに戦後の復興期や高度成長期に 好景気と大震災で壊滅した東京を支えたカが は各地から出稼人が言語・習俗を変えるほど自負と自信をもたらした。 集まってきた。もちろん、大阪の文化に染ま大正初め、道頓堀にキャパレー・ド・ ーである。もちろ りながら変えていったのである。 ンができる。今でいう、ハ 大阪の街を歩くと、センスのいい人と悪い ん銀座あたりの古いバーを想像してはいけな 人の差が極端である。伊勢戸教授に尋ねたと パノンの 5 色のカクテルが流行って、大 ころ「本来の大阪人はモダンな感覚の持ち主正 3 年には「半分はパノン、半分は芝居交際 です。大阪に出てきた地方の人がそれを下手費」と川柳にも詠まれたほどだった。 にまねて失敗しておるのでしような」とカ この後も道頓堀にはこのテの店が増え、昭 港にはいち早く外国の文物が届く。たくさ和の初めには、カフェー・プームとなった。 んの品物を見ることでセンスは磨かれる。徳道頓堀に軒を並べて、電飾で競いあう広告合 日期に天下の財の 7 割が大阪にある、と言わ戦。赤い灯青い灯が道頓堀に映り、いまに劣 れたほどだから、いいモノを見る機会には恵らぬ華やかさ。ムーランルージュばりの赤い まれただろう。なるほど。 風車を屋根にのつけたカフェーもできたそう 大阪は色彩の街、コントラストの強い街でで、昔から好きだったのだなと納得する。 ある。ファッションも御同様で、大阪人は人と同時期に一幕の芝居「道頓堀行進曲』がヒ 同じことは絶対にヤダというタイプが多い ットし、芝居のレコードとなり、歌になって 流行、ジャズを流打させるきっかけになった。 個性的に装うのが当り前だから冒険をする。 いいけど、失敗すると悲ステージ付きジャズカフェーなるものを現出 成功してればかっこ 惨だ。モノマネならもっと酷いことになる させ、道頓堀は多くのジャズマンを育てた。 浪花ロコとイミグラントの間に横たわる断青年たちはきれいな女給目当てに、安くな ノノンの常連には、文 層が、泥臭い混沌と雑多と、ある種のソフィい酒を飲みに行った。。、 ステイケーションを生み出している。 化人も多く、カフェーには、ちょっと文化的 な匂いがしたようだ。やがて東京にも進出し、 派手好み 商家の暮しは「茶漬・昼一夜一一菜」という東 ~ 月年も夢中にさせた。 昭和 7 年、大阪歌舞伎座がビルに建て変わ 質素なものだった。

8. モノ・マガジン 1991年8月2日号

大阪駅にあるリゾ とにかく広いのだ ・ 0 ( ′ 0 ・ 0 ートアイランド「ギャレ大阪」 ア休引 = 火曜 アウトドアやリゾートでの遊 び道具、ウェアーなど高感度 なショップがこの中に揄い 鳳 ' している。また、ここには蜃 気楼のような滝司ミラージ ュ・カスケード』を初めとし たリゾートゾンもあり、楽し さあふれるスペースになって ー 00 -4 ( 0 ー戸 0 0 0 いる。⑩ 大阪駅構内のコンコー スにある「セルヴィス』。ここ は例えば移動中、あいた イ事をするには与り・、よ、 カオ ( カ と言って喫茶店で時間つぶし 駅はやつはりドラマチックでなけりや / セをするには長すぎる「そんな ・時に利用できるどジネスルー ルーム内には、。、 ムなのだ。設備も充実されて コン、電話、 u-<>< いるので是非、足を運んでみを初め、書類を預け たり受け取ったりで ーワ 0 -4 ( ーっ 0 一 .0 、 6 ー きるシークレットボ 編物物 1 を ックスなどがある。 ・ケートレイン 文具、化粧品、お菓子や煙 草の輸入品などを取り扱って いるバラエティーショップが ここ、ケートレインだ。いわ ゆるキョスクを女性向きにフ アッション化した店なのだ。 ーっ 0 4 っ 0 ーワ】冖 / っ 0 1 品る 出 g 店く 0 型になんがこだわらない それが浪花のスハーアーション 奩ステーン かって「駅」は旅立ち、別離の舞台として、のフレキシプルなアイデアにより大きく動き さまざまな映画や小説のシーンを彩ってきた。出している。 4 月にオープンした、アウトド しかし、それは、われわれニッポン人がまだ、ア & リゾート感覚の大空間ショッピングゾー ン〃ギャレ大阪〃を始めとした数々の高感度 = 一 ] ゅ 0 くりと一日を過ごしていた昔の出来事と いえる。 2 時間余りで東京と大阪を直結する ショップやサービス施設が大阪駅を一つの多 スーバー新幹線が登場しようとする今日、 目的空間へと進化させたのだ。「駅」が情報発 「駅」はかってのドラマチックな場所から目 信地としての機能をもち始めたのである。こ 的地への通過地点へと変わってしまった。それにより「大阪ステーション」は、一通過地 れをもっとも敏感に察知したのが、かっての点としての「駅」から、再び「駅」本来の人 国鉄マン達だ。世間が何と言おうと「駅」に対が集う空間へと生まれ変わろうとしている。 する想いはわれわれの想像以上に熱いのであ 「大阪ステーション」がトレンデイドラマの る。そうした中、西日本・大阪駅が、彼ら出逢いの舞台となる日も近いかもしれない ・ギャレ大阪

9. モノ・マガジン 1991年8月2日号

ッ義 - にく 浪花の ・疑問 大阪では美味しいラーメン屋やタ霻か成り立つかとい睨そっか、成塗並っ 其ノ一 コ焼き屋の隣に似たようなお店がのその理田は、同しよう刈をかもし 出店している、シンメトリーな出店形態が出した方は多くなるし、客の蹇 見受けられます。このような「大阪シンメさすことになる。とくに喰い倒れの奩は トリー」で営業が成り立つのはなぜ ? 舁並んだ方が景気かいい。な実に 3 ・奩のには「隣より旨い庫といもある。両方の店とも回し巒かやってたり うる。たしかに回レうな店のツクリする。一軒をニ軒に分割した方が、客の入 c み、 でシンメトリーの代」いえる。たしかに多いよっに見一る」いう知襄 日本橋の電器屋街の近くに「五階が、次々にーか大阪禹に生れ、五、六 其ノニ 百貨店」と名付けられた一一階建て年で滅ひてしまっこののを舌 の道具屋があります。ここの百貨店のオー道具市か継いでいるのか " 五貝盾である。 ナーは世の中を欺いているのでしようか ? だからニ階であっても五階なのだ 明治、ー駅の南に霾一としては、同し場ではなくくの という木造五来た高さメあったところよりも少へ移っている。 ートル、螺僕、回りながら屋上にのほる大 取初の古日で曹六当になっ モノ・マガジン取材班の、 学〃大阪取材の過程で、 大阪に対する、さまざまな疑闃 不思議が生まれた。そこで、その疑問を間の質問にまとめ、 大阪のすべてを知り尽くしたともいえる、作家の藤本義一氏に聞いてみた。 、大阪弁といえばまず頭に浮かぶのナルホド、マッタクという課の他にアリ 其ノ亠 ノが「おおきに」という一言葉。さて、ガトウとい「もある。大きく包み込むよう この「おおきに」とい -2 言葉は、、つご、 しオ、に肯霻口に用い漢字に当てはめるの どんな漢字をあてるのでしようか ? そしは難しいが、強いて書くなら″大きにイ″とで てその語源は ? もなるのだるつか。サンキューもノーサンキュ 4 キニとは″大いドの訛ったものではーもオオキニであるから、の人ーし ないかと思う。サンキューベリーマッチのべなければいい大阪 リーマッチではないかといつのが藤本説であ ホルモン焼きとは「放るもん」っキ置りでもない。むしろ " 食霑。性か 其ノ七 まり捨てるもの、というのが語源ら生れたものだと蟹したい。豚の腸 ( モ だと聞きました。これは大阪人独特の気取之の栄篇と磊にホルモンと唱した りなのでしようか、それとも開置りなのと考えられそ一「た。たしかに子からい ですか ? うホルモンとは離れた寝であるつが、安くて ホルモン「裼霧といっえは旨くて滋養分に、エネルギとなるなづ 後から起ったものだと思う。 市井サイドのホルモンだ。 決しくの気取りでもなければ、開 え光ラー 26 ・

10. モノ・マガジン 1991年8月2日号

町中でもほとんどメートルおきくらいに小 さな地蔵堂や社があって、きれいに手入れを して花を供えてあるのが目につく。 大阪でもこのところ急激に開発の波が押し 大阪の街の風景を作っているものの中に、寄せて、こういった風景が次々と姿を消して 明治や大正、昭和のはじめの時代のままの面いる。近い将来大阪も壅泉のように、新しい 影を残している建物の存在がある。泉でもビルばかりになってしまうのだろうか。近過 かってはあちこちに見られたものだが、今で去のタイムマシーン大阪は今が最後かもしれ はほとんど新しいビルとなってしまった。 大阪ではまだまだこういった建物などが、 あちこちに残されていて、独特の魅力で街の 雰囲気を作っている。とくに新世界あたりや 環状線の外の街などでは一般の住宅も、かな り古いものがそのままで残っている。また、 くかや染田。とが齷帰①谷ー とん第前一んの、て。菓 んあなでたツやい。買も製 も、て笠あラちていひい なばい度のクだっしぜた田 てれし三みのま売嬉にり前 時代を超え , 気第朝 なもんやムマシーン それが花オ七テッカワ 味探訪ウラくいたおれ 大阪の食べ物のうまさについては、もう触 れたが、うまいものはなにもミナミやキタば かりではない。よくみるとなんでもない街の 中にも、見たこともないような未知の食べ物 を発見できる。ちゃんとした店へ入るのもい いが、こういう物をあれこれと食べてまわる のもまた大阪の食の楽しさ。 こういうものを探すならやつばり庶民の生 活の場に近い、市場の中などを丹念に見て歩 くのがベスト。驚くほど豊富な素材に、芸術譴北、〔 3 的とも言える、おいしく見せるディスプレイ大千 0 ( ク久 ッてく物プ のテクニックは、ローカルな市場だから体験。りらりドチ マる曲がガら・み・ ~ 《・ できるものだ。 な ( るだ しにさ・目いろ るまう小、でこ あやよとやんと こうしの・、な つが、つれ 」 00 一 000 門け卓てぎさ 黒ど食るには介 はなのまリ用で紹 一番行きやすいの は、難波の西にあ る黒門市当特に 鮮魚類か豊富な 72 ・