白澤さんは当時そんなやりとりがあったことを知らなかった。「わかっていれば絶対怒 るし、担任の先生は喧嘩になると思って、私のいる保健室では言わなかったんだと思いま す」と話す。 こうして寺田さんの短い保健室登校は幕を閉じた。案の定いじめは続いたが、保健室に 頻繁に足を運ぶようになった寺田さんの心境は、以前とは違っていた。 「私には保健室がある、と思えるようになりました。白澤先生はお母さんに近い存在なの かもしれない。優しくて、陽だまりのようで。だから毎日学校にも行けました」 自殺のイメージがよぎると、「白澤先生がついていてくれるから負けてられない。私は 生きるんだ」と自らを鼓舞した。 父親への告白 年が明け、学校での苦悩が多少なりとも和らいだ寺田さんの心は、家庭内でずっと気に かかっていることに向きつつあった。父親に、男性が好きだということや、性同一性障害 じゃないかと悩んでいることを「ちゃんと言わなきや」と思ったのだ。父親がわが子の趣 味や関心から、それとなく察している様子があったからだ。 180
保護者については、学校として打つ手なしの状況だった。 自立するしか道はない、が 相葉さん自身は、母親を迎えにいった騒動のことを「あのとき気持ちが吹っ切れたのか な」と振り返る。実際、長谷川先生によると、その頃から相葉さんは、涙を見せることが 目に見えて減ったという 長谷川先生はそんな様子に接するうち、ある結論に達する。 それは、「彼女自身が自立するしか道はない」というものだった。 折しも、 2010 年 4 月から高校授業料無償化が実現されたばかり。高校に受かりさえ すれば進学は許してもらえそうだと、相葉さんは見通しを語っていた。 相葉さんと長谷川先生は、どんな学校なら自立に役立つかを一緒に考えた。その結果、 都立の商業高校を目標とすることにした。 在学中に資格を取得できるので、高校卒業後の自活につなげよう、という狙いだ ノイト代をもらい 「高校生になったらアルバイトできるし、賄い付きの飲食店で働けば、ヾ ながらご飯も食べられて一石二鳥だよ」 0
のとなる。 そのうえで卒業後の生徒のケアをはじめ、学校の保健室だけでまかなえない部分につい て地域と連携できれば、支援は一層広がりのあるものとなるだろう。 養護教諭の仕事ぶりを間近で見て思ったのは、どんなに素晴らしい取り組みをしていて も、「子どものために当然のことをしているまで」という意識が本人たちにあるせいか、 あまりに学校内外にアピ 1 ルされず、知られていないことが多いということだ。 室 健 保健室はもっと、目を向けられるべき存在だ。それは、誰に讃えられすとも職務に励む 保 A 」 養護教諭のためばかりでない。 い」 養護教諭が日々キャッチしているのは、社会への発信力のない子どものだ。 子 ゅ 私たちは保健室を介して、見えづらいこのを受け止めるべきだと思うからだ。 保健室を取りまく環境は厳しい。しかし、子どもの心身を「養護」することは、この国わ の未来に直結する投資でもある。 章 「はじめに」に書いたことを、もう一度繰り返したい。 第 保健室が、子どもたちを救う最前線として認識され、その力をさらに発揮できるように なることを願う。この社会はそれだけで今よりすっと良くなるはすだ。
ターの役割を担う必要がある」 また、学校・教職員向けの生徒指導の基本書として 2010 年に文科省が出した「生徒 指導提要」には、養護教諭は生徒指導において、教職員内での「コンサルテーション的役 割」があると掲げられている。 いずれも重責だ。 そしてうまくいけば、たしかに保健室も学校も円滑にまわるだろう。 しかし、前出・竹内准教授は、これらについて批判する。 「研修などで十分に教えていないのに、要求だけしている。養護教諭に失礼な話。これで はたまたまできる人ができるというだけです」 国として、養護教諭がチーム支援に欠かせない役割があると認識はしていても、養護教 諭の自助努力に頼りがちなのが現状なのだ。 だから、柳先生のようにチームを東ねられる人もいれば、その後任の養護教諭のように 保健室にこもってしまう人もいるようなバラッキが出てしまう。あるいは虐待ゃいじめに 直面する相葉さんに「相談ならにして」と言ってのけてしまうような、コーディネー タ 1 の役割を履き違える人も出てくる。 226
冷ややかな目で見られてきた。担任はそれらの問題を、彼個人の資質によるものとして受 け止めていた。 高崎先生が他の教師に、彼がハサミを怖がること、虐待の疑いがあることを共有するこ とで、彼への見方や指導の仕方は大きく変わるだろう。さらに今後、彼に新たな虐待の芽 がないか、多くの大人の目で見守ることができる。この意義は大きい。 一方で、課題も見えてきた。彼のケガは父親がいなくなったことで止まるかもしれない が、家庭環境は不安定なままだ。愛着障害も残る。 学校としては、彼への教育はできても、母親にじかに介入するのは難しい 高崎先生は「学校と家庭を結ぶ存在がいてくれるといいですよね。この地域は、昔なが らのお節介なおばちゃんみたいなクご近所さんクもないから」としみじみと言った。 隠蔽されることが多い性的虐待 養護教諭が虐待の可能性をつかむきっかけは、他にもいろいろある。 「今、とても気になる子がいるんです」 窓の外が真っ暗になった頃に、高崎先生が切り出したのは、 1 年女子のことだった。普 37 第 1 章いまどきの保健室の光景
取材が再度動きはじめたのは 2015 年のことだが、準備段階から、学校に入っての取 材がプライバシ 1 の問題でますます難しくなっていることを痛感させられた。 それでも事を運ぶことができたのは、すでに取材させてもらっていた人たちの多大な尽 力や励ましがあったからだ。そして、現場の実情をもっと知ってもらいたいという志ある 学校の先生たちとも新たにつながることができた。 4 年の間にも、保健室は大きく変わっていた。 取材を再開した当初、私はルボの仮題を「少女たちの保健室」にしようか、くらいの頭 でいた。だが、 いざ蓋を開けてみると、第 5 章で書いたように男子の姿ばかりが目立つよ うになっていて、あっけにとられた。 貧困や虐待の問題も、より深刻化していた。そうした問題が広く知られるようになり、 養護教諭や取材者である私が、そうした目を昔より持つようになったことも影響している かもしれない。 取材者として、歳月が経ったからこそ持ち得た視点もあった。保健室の常連だった子た ちの「その後」についてだ。相葉さんの話にしても、新聞連載が予定どおりに掲載されて いたら、高校進学という美談で終わっていた可能性が高い 252
組織に埋没している印象を受けることもあります」 もちろんすべての養護教諭に当てはまるわけではないが、もし先に触れたスクールカー ストに萎縮しているのだとしたら、子どもたちへの支援の足かせになる。今後スクールソ ーシャルワーカ 1 が広く配置されて、さらに保健室の機能を生かすためには、養護教諭の 役割の重要性が今以上に認識されるべきだし、萎縮してきた養護教諭も誇りを持って、主 張すべきは主張してもらいたい。 まちかど保健室を各市町村に ここまで保健室をめぐる課題を色々と書いてきたが、それらを踏まえて、私が願ってい ることがある。 」い、つ 各市町村に一つ、「川中島の保健室」のようなまちかど保健室があってほしい、 ことだ。 学校の保健室とは直接関係ない話じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、そんな ことはない。むしろ、学校の保健室が抱える弱みを補完できる存在となる。 川中島の保健室は、子どもにとってはもちろん、保護者にとって、そして現役の養護教 241 第 5 章変わりゆく子どもと保健室
障害という一言葉に拒否感があり、本人が未成年なので難しいということだった。 それからというもの、私は寺田さんのお気に入りだという本を手に取るたび、いっか会 えたらと願ってきた。 そして 2015 年。成人した寺田さんは、変わらず川中島の保健室とつながっていると いう。満を持して同じお願いを白澤さんに申し込むと、今度は央諾してもらえた。 ( 同性愛者や性同一性障害などの性的マイノリティ ) の子と、保健室の結びつき を知りたい。それこそが 4 年半ぶりの再訪の目的なのだ。 性教育の持っカ 電通ダイバ ーシティ・ラボの 2015 年の調査によると、日本国内での割合は 7 ・ 6 % 。およそ人に 1 人の計算となる。学校でいえば、人学級なら、 3 人はいても おかしくない しかし、私の知る養護教諭の中には「私の見てきた生徒の中にはいませんね」と自信 満々に言い切ってしまうような人もいた。 白澤さんは性同一性障害の可能性のある子に「どこの学校でも出会ってきた」と言った 163 第 4 章性はグラデーションなんだ
養護教諭は、森智子先生。代になったばかりで、花を愛し、落ち着いた華やかさをま とった女性だ。一方で、保健室や職員室では、生徒や他の教師たちに言うべきことをひる まずに主張する。 そんな芯の強さが伝わるのだろう。この学校に転任してきて 1 年目とは思えないほど、 森先生を慕って保健室を訪れる生徒は多い。もっとも森先生自身は、「養護教諭が誰であ れ、生徒は保健室という場所が落ち着くから来るんですよ」と笑い飛ばすが 朝、 3 年のホンゴウ君が保健室のドアを開け、顔だけ突き出した。 「おれ、タバコやめるわ」 それだけ宣一言すると、去っていった。 森先生が「さっき校長が言っていた中の一人です」とささやく。 ちょうどその日、職員室の朝の打ち合わせで、喫煙している生徒がいるとの近隣住民か らの目撃情報が増している、という話が出たばかりだった。職員室で名前が浮上している のは 3 年生数人の「やんちやグループ」で、彼もその一人であり、保健室の常連だという。 ホンゴウ君は学校内でも、保健室とそれ以外では顔つきが変わる。
高崎先生のその言葉どおり、マスクを通して保健室とつながる「常連」がいる 「はざま」の子 「おはよっす」 2 時間目の途中、制服を着崩した 3 年男子が保健室のドアを開けた。 「おー、マキ君、いま来た ? 」 彼はうなずきながら、慣れた様子でマスクの入った箱に手を伸ばす。忘れ物を取りに一 景 旦帰宅し、そのまま教室へ行かずに保健室へ来たのだという。それを聞きとった高崎先生 健 は職員室へ校内電話をかけ、 3 年担当の教師に伝える。 保 の 電話の間、彼は「分寝るわ」と言ってべッドに向かうも、すぐに出てきて水を飲んだ ど り歩き回ったりしている この学校では、授業開始時に席に着いていない子がいれば、ただちに手の空いている教 章 師たちが「捜索隊」を結成し、学校内外を捜しまわる。だから休み時間以外に保健室にい 第 るような場合は、あらかじめ授業の担当教師などにサインしてもらう「連絡票」を持って こないと、高崎先生がすぐに校内電話をかけることになる。