十歳そこそこの年齢のはすだった。 「こんなものは証拠にならないと言われればそれまでだが、ほかには何もないし。偽 造したものでも、盗んだものでもないよ」 「まあ、いいです , と言って、みさおはそれを男に返した。「榊先生と呼べばいいん ですか ? 「いいよ。君は貝原みさおさんだ。そうだね ? みさおはうなずいた。「先生はなんのお医者さんなの ? 「心理学者だと一一『ロえば、わかり易いかな」 べみさおが戸惑っていると、医師は少しほほえんだ。向かって左側の糸切り歯のとこ レろに、プリッジの金具が光っていた。 「それとも、脳と心の医者だと説明しようか。それが今、君に必要なものだからね。 ここは私のクリニックで、君は入院患者だ」 「あたし、入院してるの ? 「その必要があると、私が判断した」 「どうして ? 365 「その理由は、君がいちばんよく知っているはずだがねー
「親身になって患者さんを診てあげる、本当にできた先生ですよ。治療の手が離れて からも、就職の世話や、住むところの心配までしてあげるんですから 勢い込んでそう言ってから、明美は決まり悪そうに目を伏せた。 「だから、あまりたくさんの患者さんを診てあげることができなくて、今日みたいに 門前払いしてしまうこともあるの。ごめんなさいね」 いいんです。気にしていません」 「その代わり、たとえばほかにどういう病院があるかとか、そういう問い合せになら、 ぺいくらでもお答えしますよ。だからあたしも、こうして出てきたんだもの。榊先生も、 そ、ついうことでしてあげられることがあれば、ふりの患者さんの力にもなってあげな さいって、いつもおっしやってます。冷たい、だなんて、先生を誤解しないでくださ いね」 「わかってますー 芝居をしている、という緊張感のなかにありながら、彼はふと、明美に対して温か なものを感じた。この人、榊という医者に恋してるんじゃないかな。 「若い先生なんですか ? 」と、彼女が訊いた。明美はうなずく。 298
て、つい、つふ、つい ~ しい、 3 以下は看護士や看護婦でもいい 人以外の非常勤の医者でも ) そのあとの番号が、登録番号だ。つまり、あんたは院長 決めてある。やは性別、 の俺が直に診ている男の患者の百七十五人目ということになる。記億を封じこめてい るあいだ、あんたたちがもし病院に運ばれることがあった場合、その番号を証拠に 『うちの患者だ』と言い張って、連れ出すことができるように、書き込んでおいたん レベル 7 。それは、パキシントンによる帰路のない旅の象徴であると同時に、村下 ル猛蔵にコントロールされることの代名詞でもあったのだ。この一言葉を腕に書き込まれ べた人間は、廃人になるか、逃げても逃げても「主治医 . の猛蔵のもとへ連れ戻されて、 なわば レ彼の縄張りから出られなくなるかー・ーーそのどちらかの道しか残されていなかったのだ。 三枝が、ふうと息を吐いて祐司を見た。 「あとの話は歩きながら聞かないか ? 孝のいる場所に案内してもらおう」 猛蔵に近付くと、素早く両腕をうしろにねじあげて、背中に銃口をつきつけた。 「孝はどこにいる ? 」 ゆが っこ、つに意気消沈した様子もなく、目もぎらぎら 猛蔵は顔を歪めている。だが、い している。 609
557 猛蔵の身内が、今さらどうして、孝のカルテなんかをこそこそ取り出していたんだ ろ、つ ? ・本立ョに、老 , が死んでいるとしたなら。 僕は、あらためて確信した。孝はやつばり生きているんだ。彼はなんらかの治療を 必要としており、だからカルテが要った。 孝は、潟戸友愛病院にいるーーきっとそうに違いない 源さんは東京にいるという。ほかに、昔あそこから脱院 ( 脱走のことだそうだ ) し た経験のある友達もいる。だから、あそこから孝を連れ出す手伝いになるかもしれな というんだ。それを聞いて、僕はとるものもとりあえず上京した。それが五月十 べ日のことだったんだよ。 東京で源さんと彼の仲間に会い、いろいろな話を聞いた。友愛病院は漫性的な人手 不足で、とくに医者がいっかない。それも、猛蔵の経営方針が医者としての良心をふ みにじるものだからだ。そのせいで、あそこに居着いている医者は猛蔵の身内ばかり になっている、ーーと聞いたときには、ますます意を強くした。それなら、孝を匿って いても、発覚の危険はそれほど大きくないからね。 ひんばん いちばん不気味だったのは、友愛病院では、かなり頻繁に、患者の記憶を「消す」 処置をほどこすことがあるーーーという話だった。
549 レベル ・院内で患者が死亡すると、遺体を家族に対面させない。ひどいときは勝手に荼毘 にふしてしまう。死因がわかると困るからだ。 ・食事はいつも、ばろばろの麦飯か、腐りかけた古米。おかずは粗末きわまりない。 患者は食事代を徴収されているのに、その金はそっくりそのまま横領されて、村下 ふところ 一族の懐に入っている。 ・入院患者の所持品が、隣町のバザーで売られているのを見た。 ・薬をたくさん使えば、それだけ保険で請求できる。検査をしてもその料金を払っ てもらえる。健康保険制度がある限り、患者を入院させて抱え込み、必要があろう となかろうと薬と検査を繰り返していれば、金はどんどん病院に入ってくる。 かせ ・「作業療法」の名目で患者を日雇い労働に出す。稼ぎはもちろん病院でピンハネ。 ・友愛病院がアル中患者を喜んで受け入れるのは、彼らが、一度退院してもまた戻 ってくる確率の高い いいお客だから。アル中の患者は家族からも見離されること か多いので、入院費は払うから病院から出さないでくれと頼まれるようなケースも ある。そうなれば、その患者を院内に留めておくだけで、面白いように儲かる。東 京の山谷や涙橋あたりにも人を派遣して、アル中の患者を掻き集めているのもその せいだ だび
「村下猛蔵は、さっきも言ったように、潟戸友愛病院という大病院を経営してる。本 人も精神科の医者で、直接患者を診察もしている。娘二人は医者じゃないが、二人と たんな も精神科医と結婚した。長女みどりの旦那が『榊クリニック』の榊達彦、次女えりか とおやまあきら の旦那の遠山顕は潟戸友愛病院の副院長だ。ここまではいいか ? 「ええ、わかります」 「次に、長男の一樹だな。彼も医者にはならなかった。東京にいて、事件の時報道さ れた限りでは、パプを経営してるらしい 「みどり、一樹、えりかの三人は、全員、最初の夫人である清子とのあいだに生まれ としえ べた子供ですね ? 一一番目の俊江と、今の夫人の寛子とのあいだには、子供は生まれな レかったわけだ」 「そういうこと。で、『幸山荘事件』の犯人、問題の宮前孝の登場となるわけだ 三枝は何枚か束ねてホチキスでとめてある切り抜きを取り出した。雑誌の特集記事 らしい。ページを斜めに横切って、「『幸山荘事件』凶悪犯人の過去に何があったか」 という見出しが躍っている。 「そもそも、俊江と猛蔵が知り合うきっかけをつくったのが、孝だったんだ。彼は、 通っていた高校の教師を殴って停学処 十六歳の時ーーっまり、今から六年前だな 313 ひろこ
550 ・再入院の場合、過去に一度入院したところに送られることが多いので、友愛病院 では入院患者の腕に番号を振る。そして、そ、ついうふうにしているということを世 間にも報せておけば、県外や東京の患者でも、行き倒れで保護されたりした場合、 すぐに友愛病院に連絡が入る。それだけ安定した数の患者を確保できることになる。 ・治療なんてしない。患者を治してしまったら儲けられなくなる。名目だけ偉い先 とおやまあきら 生が名前を列ねているが、村下猛蔵と、婿の榊達彦、遠山顕以外の医師がいたため しかない。 レ ・看護婦も看護士も、絶対数が少ない。患者の中から人を選んで、患者を監督させ べている。映画で観たナチスの収容所みたいだ。 レ ・村下猛蔵は、地元の警察とはなあなあの仲になっている。町全体が猛蔵に牛耳ら 、。最近東北地方で勢力を拡大してい れているのだから、警察も役所も例外ではなし る暴力団ともつながりがあり、傷害や殺人事件で逮捕された組員を、村下院長が、 分裂病などの適当な病名をでっちあげて、罪を軽くしてやったことがあるという噂 を聞いた。そうした組員は、措置入院で友愛病院に送り込まれると、院長のボディ ガード役を務めたり、いつのまにか「看護士ー待遇にされて、患者たちを見張る役 目につくこともあるらしい。だから、友愛病院の患者たちのなかには、看護士に拳 み
419 ちょうまっ 言われているのに、ある種の懲罸的な意図をもって患者にかける病院がある。もちろ ん、そういう病院は少ないよ。圧倒的に少数だ。どが、 オ現実にあることはある。儲け 主義で、患者のことを真から治療する気なんか毛ほどもない悪徳病院ー 「榊クリニック」の太田明美は言っていた。 ( アル中の患者さんなら、うちから別の病院を紹介してあげることもできる。でも、 榊先生は、あんまりその病院に患者さんを送りたくないみたい 三枝は続けた。 「そしてだな。この電パチにかけられると、記憶力が落ちることがあるんだ。頻繁に おれ さかのば べかけられたために、一年も二年も遡って記憶が消えてしまった患者を、俺は知って レる」 潟戸友愛病院は、日本でも有数の精神科専門の大病院だ。総入院患者数八百人。よ そでは受け入れてくれない重度のアルコール中毒症患者も喜んで受け入れている 「あんたたちの記億を消したいという動機があり、かっ、その手段も持っていた人間 は、たぶん一人だけだよ」 三枝の言葉を、祐司は理解した。腕のナンバーを見て、そして、答えた。 「おそらくーーーまず間違いなく、村下猛蔵だ」 さかき ひんばん も・つ
分を受けてるんだ。その後も暴力的なふるまいがやまないので、思い余った俊江が、 当時、登校拒否児や、家庭内暴力をふるう子供を積極的に受け入れて治療していた潟 戸友愛病院へ相談に行ったんだな。で、孝は入院させられ、母親の俊江が彼を見舞っ たり、今後のことを相談に通ったりしているうちに、院長の猛蔵と親しくなった というわけだ。この当時、すでに、猛蔵の最初の妻の清子は亡くなっていた。宮前俊 江の方も、夫とうまくいってなかったらしい。孝のこととか、まあ原因はいろいろあ ったんだろう。それだから、俊江が夫と別れ、猛蔵と再婚するのにも、これといって 障害はなかったわけだ。みどり、一樹、えりかの三人は、もう成人していたしな。 べ「潟戸友愛病院は、この六年前の時点で、すでに日本でも指折りの大病院だった。総 入院患者数が八百余名というんだから、すごいだろう ? そこの院長の結婚だから、 ひろう 再婚とは一言え、俊江との結婚披露は盛大なものだった。東京のホテルで式をあげてる んだが、 国会議員がぞろぞろ出席したそうだから」 「だけど、病院のお医者さんなんでしょ ? と、彼女が目をばちばちさせる。 「まあな。だが、村下猛蔵という男は、医者というよりはむしろ実業家なんだよ。一 時期は、東京でもホテル経営に手を出していたことがある。と言っても、表面に出て いたわけではなかったんだがね。 314
、」 0 「あたしはただの事務員で、病気のことはわからないから」と言い、その代わりあち こち病院の名をあげ、費用はどの程度かかるとか、病院によって治療の仕方が違うと か、現実的なことを説明してくれた。 「あなたがたのお父さまは、もちろん、健康保険に加入してるでしょ ? 」 「え ? ああ、はい」 「それなら、たとえ入院したとしても、かかるお金は、ほかの病気のときと同じぐら いですよ。差額ベッドのある病院にでもいかない限り、それほど心配することないわ。 べでも、さっきの電話の話だと、お父さまが、会社で指定している病院にはかかりたく レないって言ってるそうだけど、ほかの病院ならかかっても、 しいと思っているのかし ら 「そ、つ : : だと思いますー 架空の父親像を維持していくのは、結構たいへんだった。 はため 「そうですか : いえね、いわゆるノイローゼの患者さんで、傍目で見ててもかなり がん おかしくなってて、家族は医者にかかることを勧めるんだけど、本人は頑として『そ の必要はない ! 』って言い張るケースもあるんですよ。そういう人は、無理に入院さ 296