410 2 かたぎ 石橋社長の顔は強張っていた。もともと職人気質であまり笑顔を見せない人ではある が、今の表情は明らかにふだんの仏頂面とは違う。内心の狼狽を必死に押し隠した結果、 表情が硬くなっているのだと足達道洋は見て取った。石橋は道洋を認めると、顎をしゃ くって「上がれ」と言った。道洋は一礼して、石橋の家に入っていった。 石橋の妻は会社で経理をやっているので、当然ながら面識がある。しかし今は顔を見 くぎ せず、居間で石橋とふたりきりになった。出てくるなと、石橋が釘を刺したのだろう。 お茶など持ってこられても道洋も困るので、今はふたりだけの方がありがたかった。 「倒れた木、見てきました」 石橋が口を開くより先に、報告した。腕組みをした石橋は、わずかに眉を動かす。石 橋の返事を待たずに、道洋は続けた。 「おれが担当した木でした。いえ、おれが診なかった木でした」 しわ 「診なかった ? 」今度は、石橋は眉間に深い皺を刻んだ。「診なかったって、どういう 喋っているうちに、義憤が湧いてきた。特に被害者が子供だという点が許せない。今 の日本がどんどん駄目になっていくことを、幸造は常々憂えていた。 あご
178 しい宗教の区別すらっかないらしい。ふだんだったら憐れんでやるところだが、今は腹 立ちの方が勝った。 「じゃあ、それがあんたとどんな関係があるんだ ? 」 逆に訊き返された。その質問には虚を衝かれ、ハナはわすかに言葉に詰まる。利害関 ただ 係を超えたところで活動するから意味があるのに、そこを問い質されるとは思わなかっ 「別に直接の関係はないですけどね、緑がなくなると悲しいじゃないですか . 「どうせ新しい道路を造ったら、また別の木を植えるだろうよ 「そりやそうですけど ! でも、だからって今の木を伐ってしまう必要はないでしょ しゃ。よくわからんけど、あんたは 「必要があるから伐るんだと思うが、まあそれはい、 今植わっている木を残したい。そのためには道路拡幅の計画を阻止したい。だからおれ にここに居座り続けて欲しい。そういうことなんだな」 意外にも河島は、簡単に状況を整理した。そこには多少の知性も感じられる。馬鹿で はないが教養がないのかと、ハナは理解し直した。 「そのとおりです , 「で、おれがここに居座り続けて、何か得があるのか」 「は ? あわ
405 「今、どこにいる ? 何かあったんじゃないだろうな。健太は無事か」 「ご、ごめんなさい・ しんじん とたんに光恵は啜り泣き始めた。いつも気丈な光恵が泣き始めたことに、加山は深甚 な衝撃を受けた。健太の身に何が起きたのか。泣いていないで教えて欲しかった。 「健太は、健太はどうした ? 」 「今、今、救急車の中なの。まだ病院に着かないのよ」 「やつばり事故に遭ったのは健太だったのか」 すでに確信していたが、改めて光恵の口から言われると鈍い衝撃が波紋となって胸の 底に広がる。同時に、光恵の説明が気になった。 「病院に着かないって、どういうことだ。病院なんて目と鼻の先じゃないか」 他ならぬ加山の父が入院している病院が、すぐそこにある。あそこに運ばれていれば、 とっくに治療を受けられているはずではないか。いったいなぜ、もたもたしているのだ。 「あそこは手いつばいだからって、他を探してる。まだ受け入れてくれる病院が見つか らないのよ」 「なんだって」 そんなことがあっていいのか。小さい子供が、頭から血を流すほどの大怪我をしてい るのだ。それなのに搬送される病院すら見つかっていないとは、とても信じられない。
302 病院の待合室に入った瞬間、今が何時なのかわからなくなった。 まるで平日の日中のように、待合室には人の姿が多かったのだ。これまでの夜間診療 時間ならば、先客がいてもせいぜいひとりかふたり程度だった。それなのに今は、ざっ と見渡して七、八人はいる。いったいどうしたことかと、安西寛は首を傾げた。 腕時計を見ると、午後の十時を回っていた。もちろん、確認するまでもなく今が夜間 診療時間帯だということはわかっている。待たされるのがいやだからあえて夜になるの を待っていたのに、こんなに先客がいては順番が回ってくるのがいつになるかわからな い。自分だけの特権を奪われたように感じ、寛は不愉央になった。 受付を済ませ、べンチに腰を下ろした。さりげなく、先客たちの姿を観察する。これ だけいっぺんに救急患者がやってくるのは、どこかで事故でもあったためではないかと 考えた。事故に巻き込まれたが軽傷で済んだ人たちが、手当ての順番を待っているのか もしれない。しかし見たところ、目立った怪我を負っている人はいなかった。顔色から して、怪我よりも病気を抱えている人たちばかりのようだった。 知らぬ間に、悪夢の中にさまよい込んだ心地だった。 9-
417 に当てた。なぜこれほど遅いのかという疑問が、しばらく前からすっと脳裏を支配して いる。それでも加山は、電話をかけてきた光恵に事情説明は求めなかった。 「今、どこにいるんだ ? 尋ねたのはそれだけだった。光恵は病院の名前を告げる。すぐには病院の所在がわか らず、目が合った同僚にいつもの癖でメモを渡した。同僚はすぐに住所を調べてくれた。 すいぶん遠い。そんな遠くまで搬送さ メモ用紙に書かれた住所を見て、愕然とした。。 れていたから、こんなにも連絡が遅くなったのだ。どうしてそのような羽目になったの かと、強い憤りが胸を掻き乱す。 「健太の具合は ? 」 最も知りたく、そして最も聞きたくないことを尋ねた。光恵は疲れた声で答える。 「手術室に入った。怪我がどの程度なのかは、あたしにはぜんぜんわからない 「そうか。すぐにおれもそっちに行く そう告げて、電話を切った。携帯電話を閉じてから、海老沢も含めた一同に詫びる。 「すみません、心配をかけて。息子は今、手術中だとのことです。おれは今から駆けっ けるので、皆さんはもうお引き取りください 「何かあったら、おれに連絡をくれ」 海老沢だけが声を発した。加山はそちらに頷き、手荷物を掴んで会社を飛び出した。
447 ともかく今の加山には、事実を 族は皆同じように考えるのか、どちらともわからない 明らかにするとい、つ目的こそが生きる支えだった。 「お怒りはごもっともです」石橋は床に正座したまま、加山を見上げた。「どんなにお 詫びしても許していただけないことと思います。それでもこちらとしても精一杯のこと をさせていただくつもりでいますので、今少しお待ちいただけないでしようか」 「待っ ? 何を待てと一言うのですか」 この期に及んで待てとは、とうてい理解できない言葉だった。待って何かが変わるの かいくら待っても、もう健太は帰ってこないのだ。 「今ここで事情をご説明しても、まずご理解いただけないと思うのです。ですから警察 の捜査を待って、改めてきちんとした謝罪に伺うつもりでおりました」 石橋の態度は、平身低頭としか言いようがなかった。それでもその言葉の内容は、ま ここでも警察の捜査を理由に、真実を言い渋るつもりか。加山 ったく受け入れがたい。 の裡で、何かが弾け飛ぶ音がした。 警察の捜査なんか待ってたら、いっ真実が明らかになるかわかった 「冗談じゃないー もんじゃないですよ。結局お宅の怠なんでしよう。お宅がやるべき仕事をしなかった から、健太は死ぬことになったんだ。そうじゃないんですか ? それも認めようとしな いんですか」
560 者の側に立ち、自分にできることを精一杯やってきたつもりだった。 しかしそれはあくまで、傍観者としての行動でしかなかった。当事者がこんな辛いも のとは、まったく想像が及ばなかった。もし知っていたら別のことができたかもしれな ご、つまん いという悔いが、今になってじわじわと押し寄せてくる。むろん、それが傲慢な発想だ という自覚はあった。できることには限界があり、己の力を過大に評価するのは傲慢で しかない。だとしても今の加山には、やるべき使命があると思えてならなかった。当事 者でなければできないことをしなければ、健太の死が無駄になると考えた。 事故原因を紙面で追及するなら、責任を問う相手は市までにしておけと海老沢は言っ た。だがやはり、書くならすべてを書かなければならないと加山は思い直した。もちろ ん、個人名は伏せる。個人批判がしたいのではなく、誰の心の底にも普遍的に潜んでい る些細な我が儘こそが、闘うべき相手だと見定めたのだ。そのためには、加山が目の当 たりにしたすべての我が儘を活字にしなければ意味がなかった。 海老沢は理解してくれると、加山は予想していた。健太の死に誰よりも憤ってくれて いた海老沢である。加山が今の思いに至るまでの経緯をきちんと説明すれば、必ず了解 してくれるものと信じて疑わなかった。 ところが相談を持ちかけてみると、海老沢は渋い顔をした。加山を納得させる言葉を しばし吟味するように黙り込むと、ようやく顔を上げて口を開いた
加山はこれまで自分の性格を、どちらかというと温厚だと捉えていた。よほどのこと かない限り声を荒らげることはなく、むしろじっとこらえてしまう。時間をおけば感情 が静まることを経験から学んでいたし、他人を怒鳴っても自分が不愉央になるだけだと 考えていた。怒らずに問題が解決できるなら、それが一番望ましい。たやすく感情を爆 発させる人は、自分とは別種の人間だとすら思っていた。 それなのに今は、まるで感情の抑制が利かなかった。自分の中に荒れ狂う別人が入り 込んでしまったようだ。謝り続ける相手を怒鳴りつけている己に違和感を覚えても、そ れを止めることができない。思考回路を経由せず、感情が直接口を動かしているようで あった。 「まったくおっしやるとおりで、こちらとしてはただお詫びするしかありません」 ふたたび石橋は額を床に擦りつけた。そのまま顔を上げす、言葉を続ける。 「私どものせいで、大事なお子さんの命が失われたことは重々わかっております。です が、これはもう単なる言い訳にしか聞こえないとは思いますが、怠慢のせいでこんなこ とになってしまったわけでは決してないのです。ご理解いただけるとも思えませんけど、 やむにやまれぬ理由があったのです。それをご説明できるようになるまで、なにとぞ、 なにとぞ今しばらくお待ちいただけないでしようか」 「だからどうして待たなければならないんですか ! 事情があると一言うなら、今この場
そうか、と思った。大は家族なのか。確かにそんな話は聞いたことがあるが、自分に は関係ないと受け流していた。おれには家族がいるのだから、代わりに大を飼う必要な んてない。手のかかるガキは、ふたりもいれば充分だと考えていた。 しかし、それは間違いだったと今は痛感している。幸造に家族はいなかったのだ。幸 造は家族を作ることに失敗した。家族とは、血の繋がりだけを言うのではない。精神的 な紐帯があってこそ、本当の家族なのではないか。ならば、幸造に家族はいない。妻や 子に充分な愛情を振り向けてこなかった幸造は、当然の報いとして今、孤独を味わって いる。ならば、新しい家族を作ろう。やり直すチャンスを妻や娘たちがくれないのだか ら、自分で新しい家族を作るしかないではないか。幸造は簡単に結論を出し、それに満 足した。一度決めたら、いても立ってもいられなくなった。 その場で女性に、どこで大を買ったらいいかと尋ねた。唐突で性急な質問に女性は驚 いたようだったが、 丁寧に教えてくれた。幸造は礼を言い、駅に向かって歩き出した。 てのひら そして女性に教えてもらったペットショップで必要な物一式と、掌に載りそうなほど小 さいトイプードルを買った。仔大の値段の高さにはいささか面食らったが、家族をこの 価格で買えるかと思えば安いものだった。幸造は意気揚々と、仔大を連れて帰宅した。 なんの相談もなく大を買ってきたことを妻がどう思うか心配したのは、家が近づいて きてからだった。昔なら妻の反応など気にかけなかったが、今はそうもいかない。だか
ものとして市役所のキャビネットの中に眠り続けていたのだった。 その古い計画を引っ張り出してきたのが、今の市長である。次の選挙で再選を望む市 長は、市内の渋滞状況と自転車事故の多発に着目し、ふたつの問題を同時に解決する妙 案として道路拡幅を思いついた。幸い、老朽化した道路沿いの家屋は櫛の歯が欠けるよ うに取り壊され、親から土地を引き継いだ所有者たちは過去のいきさつも忘れておとな しく代替地に引っ越していった。三十年前に比べて、計画を推進しやすい状況になって いたのである。市民の意見を調査すれば、おそらく今は拡幅に賛成する人の方が多いの ではないかと行政側も睨んでいた。 それでも、道路沿いの住民が全員セットバックに応じたわけではなかった。過去の反 対運動の激しさも、市役所内では代々語り継がれている。だからこうして話しかけられ ると、脊髄反射でクレームに怯えてしまうのだった。 市役所の仕事は大きく分けてふたつあると、以前に先輩から教わったことがある。市 民からのクレームを処理する係と、処理しなくてもいい係のふたつだそうだ。麟太郎が 所属する道路管理課は、その分け方で一一一口うなら、以前はクレームの矢面に立たされる課 であっただろう。だが今はむしろ、市民との接触が少ない課のひとつである。自社の都 合ばかりを主張する土建屋のおっさんとの折衝に胃を痛めることはあったが、それでも 発注する側の優位があるので、市民相手に頭を下げるよりはすっとストレスが少ない おび