377 を問われることになった医師。あのニュ 1 スを聞いたとき、もし自分が同じ状況に置か れたら絶対に診療拒否をしようと考えた。患者の側にしてみれば腹立たしい話だろうが、 医者も自分の身を守らなければならないのである。告訴される危険を避けるためには、 難しそうな患者は診ないのが一番だ。頭を打った子供など、久米川の手には余るとしか 言えなかった。 「ちょっと待っててもらって . ( いかなかった。診察を続け、戡 目の前に患者がいる状態で、本音を口にするわけによ 者を部屋の外に送り出す。それから改めて、羽鳥に言った。 「まだ待ってる患者はいるんでしよ。無理だよ。断って」 「でも、事故現場はすぐ近くみたいですよ」 電話を保留にした羽鳥は、不安を顔一面に浮かべていた。診療拒否などして、後で問 題にならないかと案じているのだろう。しかし受け入れてしまう方が危険なのだ。君子 危うきに近寄らず、と言うではないか。患者のたらい回しは確かに社会問題となってい るが、だからといって正当な理由があって診療拒否した医者の責任が問われたという話 、 0 、ヾ は聞かなし しすこも事情は同じなのだ。 「近くだろうとなんだろうと、おれは内科医だもん。頭を打った子供なんて、診る自信 ないよ」
386 携帯電話が鳴った。・ ティスプレイに表示されている名前は、社長の石橋だった。造園 業という職業は、緊急の事態が少ない。だからこんな時刻に社長から電話がかかってき たことは、かって一度もなかった。それだけに足達道洋は、反射的に不吉な予感を覚え てしまった。 和感を覚えた。 子供が下敷きになったなどと聞いたから、地面に血糊がべったりついているのではな こん いかと想像していた。しかしそんなことはなく、目を凝らして見回してみても惨劇の痕 せき 跡はない。下敷きになったという話は、どうやらデマだったようだ。人が死ぬのと死な ないのでは、事態の深刻さがまるで違う。これでひとますは安心できた。 とはいえ、この事故が問題になるのは必定だった。市の管理責任が問われるのは間違 いないだろう。なぜ街路樹診断をしたばかりだというのに、木が倒れてしまったのか。 担当業者が怠慢だったとしか思えなかった。 市の責任の範囲は、果たしてどこまでだろう。業者に致命的な落ち度があればいいの だが : : : 。横たわる街路樹を見ながら、麟太郎はそんなことだけを考えていた。 8 ちのり
589 ものが欠けたためだった。ひとりでいるときよりも、ふたりきりになった方が 互いに健太の不在を強く意識する。だから話題がなくなり、家の中は静かなの だった。 「あたし、ここに行ってみたい。一緒に行こうよ」 光恵は絵葉書の写真を指差して、そう提案した。光恵がどこかに行きたいと 言い出したのは、健太が死んで以来初めてだ。加山はそれが嬉しく、仕事のス ケジュールも考えすに「いいね」と返事をした。ふたりでひとつの目標を持っ のは、空虚な生活にわすかな張りを与えてくれるかもしれないと思った。 しかし、実際に行動に移すには問題があった。絵葉書には、地名が書いてな かったのだ。ェアメールではないから日本のどこかなのだろうが、それ以外に これでは訪ねていきようがなかった。 手がかりはない。 「この海の色は沖縄よ」 光恵は断言した。なるほど、澄みきったというよりはむしろ青い海の色は、 本州の海とは思えない。沖縄以外に、こんな色の海はないはすだった。 「沖縄と言っても、それなりに広いぞ。どこの島かもわからないし」 本島だけに限っても、岬は回り切れないほどあるだろう。もう少し絞り込む とんじゃく 光恵はあまり頓着しなかった。 方法はないものだろうかと加山は頭を捻ったが、
117 いいお天気ですねえ」と尋常に挨拶をする。隣人の女性はすでに七十前後のはすだが、 老人と形容しては申し訳ないほど体も気持ちもしつかりしている。子供たちはすでに巣 立ち、夫には先立たれてひとり暮らしだが、何かというと娘が子供を連れて遊びに来て いるようなので寂しそうではなかった。 「そろそろ暑くなってきたから、今のうちに庭木を刈り揃えておこうと思いましてねえ。 真夏にはできないじゃないですか」 手を休めて、隣人はそう話しかけてきた。寂しそうではないとはいえ、そこはひとり 暮らしの女性である。ハナと会えば何くれとなく話しかけてくるので、しばらく相手を することになるのが常だった。急いでいるときなどは多少煩わしいと感じないでもない が、相手をしてあげるのも近所付き合いだとハナは考えている。 「ホントねえ。草木って、手を入れないとあっという間に茂っちゃいますからね」 そんな相槌を打った瞬間、別の話題を連想した。そうだ、この問題はひとりでも多く の人に知らせておくべきことだった。ハナはさっそく、「ところで」と切り出す。 「コンビニがあるバス通り、拡幅するって話がありますでしよ。あれ、いよいよ工事が 始まるみたいなんですよ」 「あら、そうなんですか」 隣人はにこやかに応じるだけで、そのニュースに対してなんの意見も持たないようだ
と運動に賛同する人が増え、ついには業者側も木を保存する方向で建築計画を変更する ことになったんですよ」 「そうですか。それは素晴らしい話ですね。八百年も生きてきた木を、簡単に伐っては いけないですよ。地域の住民の方々にも、英断を下した開発業者さんにも、拍手をした いですね」 「ホントよねえ」 あいづち 画面に向かって、ハナは相槌を打った。このパーソナリティ 1 は、テレビタレントに しては庶民の気持ちがよくわかっている。大手不動産会社の身勝手な計画に屈しなかっ た住民たちは、テレビで賞賛されるに値する偉業を成し遂げたのだ。ハナは食事をする うなず 手も止めて、何度もパ ーソナリティーの言葉に頷いた。 そうなのだ。粘り強く交渉しさえすれば、経済効率にばかり縛られた企業でも折れる ことがある。ハナたちが直面している問題の解決目処はまるで立っていなくても、いっ か運動が実を結ぶと信じてがんばるしかないのだ。パ 1 ソナリティーから勇気をもらっ た思いで、ハナは決意を新たにした。 昼食を終えてから、すぐに電話を手にした。すでに手に馴染んだ番号を押して、繋が るのを待つ。先方はハナから電話がかかってくることを予期していたかのように、すぐ に電話に出た。ハナは「田丸ですーと澄ました声を発してから、本題に入った。 つな
315 「ええっ ? 夜間診療ってそういうものじゃないだろう。なんのための夜間診療なのか、 わかってないのかな」 「わかってないんでしようねえ。最近は非常識な患者さんも増えてますから 「ああ、知ってるよ」 我が儘勝手な患者が増えていることは、医者の間でも話題になっていた。病院をホテ ルのように、看護師を小間使いのように考えてこき使おうとし、それが叶えられないと 大声で怒鳴ったり、場合によっては暴力を振るう患者までいる。物事の理非がわかって いない子供ならまだしも、 いい年をした大人がそんな振る舞いをしていると聞けば、日 あんたん 本人のモラルが明らかに低下していると見做さざるを得なくなり暗澹とした気分になる。 そのせいで病院では、暴れる患者を取り押さえる仕事まで警備会社に依頼をしなければ ならなくなった。患者の我が儘に対応するためのマニュアルも、あちこちの病院で作成 きぜん されている。自己主張の強い患者の要求にはいちいち応じないこと、毅然とした態度で 接すること、といった内容だ。本来医者や看護師は、患者に優しく接するのが理想であ る。それなのにマニュアル的対応を導入せざるを得なくなったのは、患者の側に問題が あるからだった。自分で自分の首を絞める患者たちに、久米川は呆れる思いを禁じ得な かった。 「日本はいったい、どうなっちゃうんでしようかねえ。団塊の世代は威張れる機会を絶
503 たあの短い期間の記憶などひとかけらも留まっていないようで、寛を傷つけた。可奈と の付き合いはもう完全に終わっているのだと、改めて思い知らされた。 寛はロをつけていないコーヒーカップを置いたまま、ふらりと席を立った。衝撃のあ まり、足許がふわふわと頼りなくなっている。突然加山に呼び止められ、子供の死の責 そんなことは今や意識の片隅にも留まらないほ 任を問われたときもショックだったが、 かなた ど遥か彼方に追いやられていた。会ったこともない子供が死のうと、どうでもいい。傷 ついた自分の心をどのように慰めるかだけが、寛の最大の問題だった。 -6 2 大学のキャンパスを後にしたとき、加山聡の胸にあったのは敗北感にも似た思いだっ た。この思いは、病院を訪ねたときからすでに生じていた。病院ではます、救急外来の 責任者に面会を求めた。健太の受け入れを拒否した理由を、きちんと尋ねたかったから だ。だが医局長は詳細を知らず、当直の医師は内科だから他の病院に回ってもらったの だろうと推測でしかものを語らなかった。責任者が受け入れ拒否があったことを知らな 何も知らない人を責めても意味はない。あの夜の当直医 かった事実に加山は驚いたが、 の名前だけを聞き出し、その場は引き下がった。
582 うに書いたのはどうしてだ。お前なら、もう少し配慮した文章が書けるはずだろうが」 「配慮なんてしたくなかったからですー 開き直ったわけではなく、むしろあまり考えもせずに事実を答えた。しかしそんな態 度が、海老沢を鼻白ませたようだ。わずかに仰け反ると、しばし目を泳がせてからもう 一度問いかけてくる。 「物事にはやり方があることくらい、お前だってわかってるだろう。あんなホームペー ジを、いくら被害者サイドとはいえ新聞社の人間が作ったら問題になると、予想できな かったのか。問題になっても、 しいから、世間の人に見てもらいたかったのか」 「まあ、そうですね」 問題になることなど予想していなかった。ただやり場のない怒りを、ひとりでも多く の人に知ってもらいたかったのだ。同情してくれる人を捜し出したかっただけなのだ。 しかし今は、説明が面倒だった。 「つまり覚悟があるってことか」 海老沢はなにやら、ひとりで納得していた。加山には、海老沢の間違いを訂正する気 もなかった。 「ならわかるだろうが、上はホームページを閉じろと言ってる。ああいうべージをこれ からも続けたいなら
132 し上げているのです」 「うるせえ。ごまかすんじゃねえよ。最初にこの家に来た役人は、立ち退けとはっきり 言ったんだぞ。おれはあの高慢ちきな野郎の態度を、今でもはっきり憶えてるぜ , 「三十年以上も前のことですよね。その際の不手際は私どもも充分に反省しまして、市 民の皆さんの側に立った行政を心がけております。水に流してくれ、とまでは言いませ んが、新たに話し合いに応じていただけると大変ありがたいのですが」 「水に流してくれと言ってるようなもんだろうが。え ? お前、あの高慢ちきな役人が どれだけおれを怒らせたか、わかってるのか ? おれの肚の虫はな、三十年経ったくら いじゃとうてい収まらねえんだよ」 本当に思い出しただけで腹が立ったのか、河島は茶碗酒を一気に飲み干した。そして、 据わった目を上村に向けてくる。麟太郎は思わす、上村の陰に隠れてその視線を避けた。 「三十年経とうが反省しようが、単に上辺の態度を変えただけで、てめえらの本音は結 局同じなんだよ。この年寄りめ、がたがた言ってないでさっさと死にやがれ。そう腹の 中で考えてるんだろ。違うか ? 」 違わないかもしれない。問われて麟太郎は自分の本心を確認した。確かに河島が死に さえすれば、問題はすべて解決するのである。今となってはそれが一番穏当な決着かも しれないと思えてきた。
それがなんの間違いか、友達付き合いをすることになった。昌子がハナと中学の頃か らの付き合いだとかで、その縁でお喋りをするようになったのだ。昌子は同じ建て売り 住宅を買ったくらいだから、家庭のグレ 1 ドは似たようなものだ。羨ましいとも妬まし いとも思わない。話し相手としてはテンポがのろいので苛々するが、生活水準が同じく しし友達だった。 らいという安心感かあってやはり、、 そんな昌子を間に挟んでいるからか、ハナを含めた三人の付き合いは意外に楽しいも のになっている。ハナだけが生活レベルが違うのでたまに話題が噛み合わないこともあ るが、そんなときは内心でハナの世間知らすぶりを嗤うこともできる。新品の自転車の ように目に見える形で互いの差を突きつけられると腹が立つものの、女同士の付き合い としてはおおむねうまくいっているのではないかと考えていた。ハナをからかう材料が 見つかる限り、和代の方から付き合いを絶っつもりはない。 自転車のチェ 1 ンをぎこぎこと鳴らしながらペダルを漕ぎ続け、問題のバス通りに差 しかかった。ここは歩道が狭く、ふたり並んで歩いている人がいると自転車では通り抜 けられない。そんなとき和代は、遠慮なくべルを鳴らして人をどかせていたのだが、本 当は自転車は歩道を走ってはいけないのだと最近知って驚いた。歩道は歩行者のための ものであり、自転車は車道を走らなければならないのだという。そんなことを言われて も、車道には路上駐車している車も多く、走っている車はスピードを出している。とて ねた