462 しい古風な女だった。 しかしそれは、道洋がそう思い込んでいただけなのかもしれない。不意にそんな考え が兆し、首筋が寒くなった。泰代が従順に見えたのは、単に恨みや怒りを腹の底に溜め るタイプだったからではないか。一度そんな疑惑を覚えると、穏やかに見えた顔立ちま でもが偽りの仮面に思えてきて、道洋を愕然とさせた。 「あたし、寝るね」 泰代はほっりと言うと、隣室に消えていった。道洋を慰めたり、励ましたりする気持 ちはまったくないようだ。それもまた、言葉にしない非難の気持ちの表れに違いなく、 道洋は自分が失ったものの大きさを思い知らされた。見慣れたはすの我が家が、突然知 へんばう らない場所に変貌したかに感じられた。 翌朝、いつもどおりに目を覚まし、泰代が作った朝食を食べ始めた。会社は自己都合 で休みということにしているので早起きする必要はないのだが、体が勝手に目覚めてし まう。こうしてふだんと同じように行動していると、昨夜のことは悪夢だったのではな いかと思えてくるが、道洋のそんな甘い考えを打ち破ったのはやはり泰代だった。 「ねえ、あたし、考えたことがあるんだけど聞いてくれる ? 」 改まった話を切り出すというより、単なる世間話のように泰代はロを開いた。それで も道洋は、いやな予感を覚えて箸を動かす手を止めた。泰代は目を伏せたまま、静かな
561 「お前の気持ちはわかるよ。口先だけじゃない。本当によくわかっているつもりだ。そ れはお前だって疑っていないんじゃないかとおれは思ってる」 「もちろんです。だったら、事実をすべて書いてもいいですよね。 「よっほどそのじいさんの態度に腹が立ったんだな。そうでなければ、お前がそんなこ とを言い出すわけがないからな」 これ 正確に一言うなら、フンを放置した人の言動だけがきっかけだったわけではない。 まで相対した人が揃いも揃って、皆同じ反応を示したことが加山の気持ちを固めさせた のだ。しかし今それを言い募るのは、海老沢が相手であるからには無意味だと考えた。 海老沢は加山の気持ちを『わかっている』と言っているのだ。 「でもな、加山」 海老沢は机の上に両肘を置き、組み合わせた手を口許に押しつけるようにした。その めいりよ、つ 、つも物言いが明瞭な海老沢には珍しいことだ せいで声がくぐもって聞き取りにくいし った。 「新聞は犯罪者でもない一市民を批判したりしちゃまずいんだよ。マスコミの力は、慎 重に使わなければならない。言論はときに、暴力になり得るんだ」 「そんなことはわかっています . まるで新人に言い聞かせるような口調が、いささか腹 立たしかった。「ですから個人名を出すつもりはありませんし、批判と取られる表現は
538 佐々倉の助言に従い、自分で自分の気持ちに整理をつけるべく、加山は市役所に向か った。警察が行政の責任を問えないとわかったからには、やはり新聞が追及するしかな いと思う。海老沢が一言うとおり、手段があるだけまだましなのだと考えることにした。 今回は正式に新聞社からの取材として、面会を求めた。しばらく応接室で待たされた 末に、道路管理課の課長と名乗る人が現れる。応接室にやってきたのはその課長だけで、 フンを始末しなかった小林は姿を見せなかった。 「このたびは大変痛ましい事故が起きてしまい、市民の皆様を不安にさせてしまったこ とを深くお詫びしたいと思っています」 整理がつくなんて、そんなことはあり得ないんです。気持ちの整理は、自分でつけるも のなんです。待ってたって、いつまで経っても整理なんかっかないんです」 加山はようやく、淡々としている佐々倉の口調の意味を知った。そして今、わすかに 早口になったその気持ちをも理解できた。加山は「そうですね」としか応じなかったが、 それで充分だろうと思った。「よけいなことを言いました」とつけ加える佐々倉の声は、 心なしか恥すかしそうだった。 1
537 から事実を争う余地もほとんどありませんでした。ひとり娘だったので辛い状況でした が、もし轢き逃げだったり、目撃者がいなかったりしたらもっと苦しかったろ、つと思い ます。だから、ロ幅ったく聞こえるでしようが、一応加山さんのお気持ちはわかるつも りです。この事故は私の娘が死んだときよりもずっと複雑な状況ですからね」 「そ、つ・・ : : でしたかー 悔やみの言葉は、軽々しく一言えなかった。そんな言葉を佐々倉が欲していないことは、 誰よりも加山がよくわかっていた。 「とはいえね、事故の状況が単純だろうが複雑だろうが、子供を喪った悲しみは同じで すよ」 相も変わらす淡々と話す佐々倉だが、加山の胸には重く届いた。まさにそのとおりだ と、深く同意せざるを得なかった。 「娘が死んだのは五年前のことです。五年かかってわかったことがあります。偉そうで すが、それをお話ししてもいいですか」 「せひ、お願いしますー 心からそう頼んだ。自分がこれから、とても大事なことを聞けるのではないかという 予感があった。佐々倉は一拍おいて、少し早口になって言った。 「子供を喪ったりしたら、気持ちの整理なんかっかないですよ。時間が経てば気持ちの
440 「それはもちろんです」 「いっすべてが明らかになるんでしようか」 「いっと言われても、捜査のことですから期限なんて切れませんよ。ご遺族のお気持ち も考え、なるべく急ぐとしか約東できません 捜査の見通しなど語れないのは、考えてみればもっともである。業務上過失致死の疑 いで捜査が進んでいるという事実を知っただけでも、収穫と思わなければならないかも しれないと考え直した。 「わかりました。では次のご連絡をお待ちしています。でもせめて、街路樹を検査する はすだった業者の名前を教えてもらえませんか」 かなり譲った末の、最後の申し出のつもりだった。にもかかわらず佐々倉は、それす らもあっさりと拒絶した。 「それも無理です」 「どうしてですか ! 」 「捜査に支障を来すからですよ。加山さん、お気持ちはわかりますが、どうか冷静にな ってください。すべて我々に任せていただけませんか」 困ったとばかりに佐々倉は眉根を寄せ、懇願口調になる。しかしそんな表情がごまか しに過ぎないことを、加山はよく知っていた。
そのものが起きなかったと思えてならなかった。フンを放置するという行為はごく些細 なマナー違反でも、その罪は誰よりも重い。 にもかかわらず、その人を特定するのはこれまでほとんど不可能だった。できること なら真っ先に見つけ、面罵してやりたかった。それができすにいたことが大きなストレ スになっていたと、手がかりを掴んで初めて気づく。偶然から攫んだこの手がかりを、 決して無駄にはしないと心に誓った。 そして、男は見つかった。空振りに終わった捜索を切り上げて会社に向かう途中に、 光恵から電話がかかってきたのだ。「見つけたわ . と低く告げた光恵の声は、固く凍り ついているかのようだった。 クマがなにやらそわそわし始めた。『ああ、まただ』と三隅幸造は思う。最近ではク マのちょっとした素振りで、何をしたがっているのかわかるようになった。大の気持ち がわかるなんてすごいことではないかと、幸造は密かに自負している。何しろ相手は人 間ではなく、言葉が喋れない大なのだ。その気持ちがわかるとは、よほど心と心が結び ついていないとあり得ないことだろう。自分の娘たちとはついに、いを通い合わせられな
234 じて、寛は不愉央になる。割って入ってきた女の子には、怒りすら覚えた。 「いや、まあ、うちから近かったからさ」 「ごめんなさい。すごくよけいな差し出口だと思うんですけど、そうまでされても雪代 さんもプレッシャーなんじゃないかなあ、って : : : 」 おずおすとした態度で、女の子は言った。それを聞いて寛は、すっと小さく息を吸う。 そのまま怒声を張り上げたくなるのを、すんでのところで思い留まった。女の子が自分 で言うとおり、まさによけいな差し出口だ。 細いときは、誰かの助けがあった方がいいでしよ。第三者の 「プレッシャーって ? 心 君に、何がわかるの ? 」 なんとか言葉を選んで言い返したつもりだったが、口調にはどうしても険が混じった。 口を挟むなら、この場から立ち去って欲しかった。 「あのう、安西さん」 寛の怒りを察したか、ようやく可奈が声を発した。可奈は改めて寛に向き合い、きっ ばりと言い放っ 、。皮女は私の気持ちを代弁してくれたんです」 「彼女を怒らないでくださし彳 代弁 ? それはいったいどういう意味だ。女の子の言葉は可奈の気持ちだとでもいう のだろうか ?
526 もう帰ってください」 会話を続けることに耐えられず、相手の返事も待たすに受話器を置いた。興奮してい るのか恐怖のせいか、膝ががくがく震えるのを抑えられない。なんとか気持ちを静めよ うとしていたら、不意に後ろから声が聞こえた。 「あの人、かわいそう」 驚いて振り返ると、冷ややかな表情をした佐緒里が腕を組んで壁に寄りかかっていた。 佐緒里の目には、軽蔑の色が浮かんでいた。 「ママってひどい人だね。あんな言い方、ないよ。ホント、サイテー」 「何言ってるのよ ! 」加山を撃退した猛々しい気持ちの余韻が、ハナを叫ばせた。「全 部あんたのせいじゃない ! あんたがママを馬鹿にするからいけないのよ。子供のくせ に、わかったふうなこと言わないで ! 」 佐緒里は何も反論せず、母親に向けているとは思えない一瞥をくれてリビングを出て いった。残されたハナは、どうしようもなく悲しくなって大声を張り上げて泣いた。 9 一 2 自分では感情を押し殺して仕事をしているつもりだったが、やはりどこか普通でない
468 「あなたなんですか」 静かな加山の声が怖かった。麟太郎は思わず、がくがくと頷いてしまった。 「どうして片づけなかったんですか ? フンを片づけてくれと、市民から苦情があった んでしよう」 きつもん 決して詰問調ではなかったが、それでもじりじりと迫ってくるような、有無を言わさ ぬ迫力があった。麟太郎は頭の中が真っ白になり、話を作って取り繕うこともできなく なった。思考が漏れ出るように、正直に答えてしまっていた。 「か、片づけには行ったんですよ。でも、片づけようとしたらそばを通った子供たちが 馬鹿にしたんで : 「馬鹿にした ? 加山はわずかに眉を寄せた。そんな表情の変化が怖くて、麟太郎は慌ててつけ加えた。 「そ、そうなんですよ。大のフンを片づけるなんて、大の大人がする仕事じゃないとか、 生意気なことを言って。睨みつけてやったら、逃げていきましたけどね。それで、片づ けられなくなっちゃったんです。いや、あの、そのことで何かご迷惑をかけたなら申し 訳ありませんが、でもばくの気持ちもわかっていただけますでしよう ? 本来、そうい う苦情はうちの課で受けることじゃなかったんですし。あのう、それが何か ? 」 気持ちが上擦っていたせいで、ついよけいなことまで喋ってしまった。しかし相手も、
562 こも当てはまる普遍的なことだか 極力避けます。これはおれひとりの問題じゃない、誰。 らこそ、新聞が扱うべきなんじゃないんですか」 「個人名を出さなくたって、書かれた側はわかる。もしかしたら、その周辺の人も察す るかもしれない。だとしたらそれは、個人批判も同然だよ。名前は出していないという のは、ただの言い逃れに過ぎない」 「そんな : : : 」 実は加山も心の底では、海老沢の意見こそ正しいと認める部分があった。加山は結局、 個人を名指しで批判したいのだ。こんな身勝手なことが行われていたからたった二歳の 子供が死んだのだと、世間に向けて訴えたいのだ。だがそんな本音を言えば通らないこ とはわかりきっているので、あくまで公憤を活字にしたいのだと言い抜けようとしてい るに過ぎない。そんな加山の気持ちを、海老沢は見透かしているのだった。 「おれは、お前の気持ちはわかってるんだ」海老沢は強調した。「わかってるんだよ。 だから、記事にすることを許可した。市の責任を追及しろと言ったんだ。その意味が理 解できないお前じゃないはずだ。こんなことを頼むのは情がないと思われるだろうが、 頭を冷やして欲しい。していいこととそうでないこと、やって意味のあることとそうで ないことの区別を、一度整理してみろ」 「つまり海老沢さんは、おれの力にはなってくれないということですね。