212 なぜ評価してくれないのか 「麗ちゃん。その話はしちゃ駄目って言ったでしょ きつい口調で咎める。すると麗美は、ロを尖らせて不機嫌な顔になった。父はそんな 娘たちを見比べ、「なんのことだ ? ーと不思議そうに尋ねる。 「車がどうした ? 調子悪いのか」 「そうじゃないんだけどね、あたしの友達がちょっと擦っちゃったのよ」 口を尖らせたまま、麗美が答える。子供みたいな態度なんだから、と克子は憤慨した。 「ああ、見たぞ。けっこう派手に擦ったよな」 父は怒るでもなく、そんな表現をする。そこは怒ってもいいんじゃないの、と克子は 思ったが、自分が口を出しても父が不機嫌になるだけだとわかっていた。父はいつでも 麗美の味方なのだ。 「そうなのよ。下手くそでいやになっちゃった。だからね、わざわざ修理するくらいな ら、新しい車を買ってもいいんじゃないかなって思ったの」 「麗ちゃん ! 」 言われてしまった。これでもう、父がどのような反応をするかだいたい予想がつく。 新車購入は、すでに決定したようなものだ。こうなったからには、車種選定には絶対に 自分の意見を通さなければならないと方針を改めた。麗美の希望など、意地でも阻止し
。根元を指差しているので何事かと覗き込むと、そこには大量のフンが堆積していた。誰 かマナーのない人が、大にでも用を足させてそのまま放置しているのだろう。何日にも わた 亘って溜め込んだフンらしく、古いものは乾いて干涸らびているが、まさに今日したば かりといった柔らかそうなフンもある。見ているだけで気分が悪くなりそうなので、麟 太郎はすぐに目を逸らせた。 「なんだよ、ひどいなあ。どうしてこういうことをするかね。日本人のモラルも地に落 ちたもんだよ」 同僚は嘆いて、呆れたように首を振った。どうしたらいいかと、もうひとりと顔を見 合わせる。麟太郎は一歩下がったところで、ふたりが判断を下すのを待った。 「片づけないわけにはいかないんじゃないか。踏んじゃうかもしれないし、見て見ぬ振 りをしてたら苦情が届くかもしれないしな」 もうひとりの同僚が、諦め気味に言った。確かにそれはそのとおりだ。先ほど話しか けてきた中年女は、麟太郎たちが市の職員だと認識しているだろう。街路樹の調査をし ていたはずなのにフンを放置していたとなれば、苦情を言われても仕方がない。だかい ったい、、、 とうやって片づければいいのか 「おい、小林。お前、これ片づけてくれよ」 「えつ、ばくがですか ,
345 を言、つな ! 激情に駆られて、手にしていた箸を地面に叩きつけた。立ち上かって睨みつけると、 子供たちは「やべー」と言いながら逃げ去っていく追いかけて首根っこを擱まえてや りたいところだったが、さすかにそこまではできない。しばらく拳を握り締めて、気か 静まるのを待った。 やかて気持ちは落ち着いたが、もうフン拾いはできそうになかった。確かに子供たち の言うとおり、大の大人かするようなことではないと思えてくる。そもそも誰か悪いか と言えば、大のフンを放置する飼い主かいけないのだ。」いくら公僕とはいえ、モラルの はんちゅう しりぬぐ 低い人の尻拭いまでするのは仕事の範疇外だと言いたかった。 投げ捨てた箸だけを拾い、ビニール袋の中に入れて口を縛った。木の根元にはまだフ ンか残っているが、知ったことではない。残りは古いフンばかりだから、それこそ苦情 の主か言っていたように、風に散って消えるだろうもともと動物のフンは、自然に返 るのが正しい姿なのだ。大学まで出た自分か片づける必要など、ひとかけらもないのだ と考えた。 麟太郎はビニ 1 ル袋をぶら下げ、市庁舎へと帰り始めた。どうしようもない不快の念 か心の中で暴れていて、アスファルトを踏み締める足取りが荒々しくなった。
258 退院して、家に帰ってからも闘病が続くのよ。お義母さんもそれはわかっているロ振り だったわ」 「そんな感じだったな」 同居してくれと懇願されたとは、今は言えなかった。ますは光恵に言いたいことを言 わせなければならない 「でも、そうなったらもうお義母さんひとりで背負いきれることじゃないわよね。ひと り息子のあなたがなんとかしなきゃいけない問題よ、これは」 「わかっている」 「あたし、こんなことは言いたくないんだけど、でもなあなあなまま物事が悪い方向に 行っちゃうのが最悪だと思うから、あえてはっきり言うね。あたしにはお義父さんの介 護はできない。健太ひとりの面倒を見るだけで、手いつばいよ。これ以上負担は背負い 込めないし、正直に言ってあなた抜きでお義母さんと会う時間を増やすのも精神的にし んど、。だから、どうするかを真剣に考えて欲しいのよ 光恵は思い詰めた眼差しで、正面から加山を見た。加山が帰ってくるまでの間、さん ざんに考えた末の結論なのだろう。まるで喧嘩でも売るように、鋭い眼光になっている。 その剣幕に、加山はたじろいだ。 「ちょ、ちょっと待ってくれよ。介護はできないって、父さんを見捨てるつもりか」
312 達成感をしつかりと味わいたい。和代と昌子相手に勢いで啖呵を切ってしまったときに は途方に暮れたが、どうやら状况はハナが望む方向へと転がっていきそうだった。 女性たちのお喋りの声は、耳に心地よかった。 「まだいるの ? 」 今晩七人目の患者を診察し終えて、久米川治昭は思わずそう言ってしまった。ひとり 目を診察してからずっと、休憩を取る暇もなく患者を診ている。そろそろひと休みして、 コーヒーの一杯でも飲みたいところだった。 「まだいらっしゃいます。でも、もうちょっとです」 看護師の羽鳥がロビーを覗いて、答えた。久米川はうんざりして、確認する。 「急病つほい人はいる ? どうせみんな、ただの風邪なんじゃないの . 「そうですねえ。症状が重そうな人はいないみたいです」 「どうしちゃったんだよ、ここ最近は」 このところずっと感じている疑問が口から飛び出した。かって、この病院の夜 間診療時間帯は至って暇だった。羽鳥に買ってきてもらった高級弁当をつつきながら、 たんか
6 認めたら、どうすればいいのか。そうか、と笑って受け流せる自信が、幸造にはなかっ 「なに ? 菊江は幸造の葛藤も知らず、明るい表情で振り返る。幸造はなぜか、そんな妻の穏和 な顔が怖くなった。口をばくばくさせた挙げ句、「保険のことなんだけどな」とようや く切り出した。 「ほら、満期の案内が来たんだよ」 生命保険会社からの封書を取り上げて、ひらひらと振る。妻は特に慌てることもなく、 「ああ」と言って近づいてきた。 「そういえばこの前、保険の人から連絡があったわ。もう満期なのねえ。なんか、感慨 深くない ? 」 まるで平素と変わらない態度に、かえって幸造は驚いた。ばつが悪いとは感じていな いのだろうか。これが表面を取り繕った結果だとしたら、菊江は大した役者だ。そんな 女とも知らすに何十年も一緒に暮らしてきたのかと思うと、背筋を冷や汗が伝う心地が した。 「あ、あのな。おれがもし死んでた場合、保険金は五千万円も下りることになってたん だな」 かっと、つ
395 ってなかった ? つまり、あたしたちが妨害しなければ、木が倒れそうだってことがわ かってたかもしれなかったのよ。そ、つなれば人が近づかないよ、つにしてたでしよ、つから、 怪我人も出なかったことになるわ。あたしたち、まずいことをしちゃったのかもしれな いわよ 驚きのあまり、言葉が出なかった。屋我人が出たという事実より、「まずいことをし た」と語る静江の口調の方が衝撃だった。静江たちに任せておけば万事うまくいくと考 えていたハナにとって、それは寄る辺を失うにも等しい不安だった。静江が「まずい と一言うからには、これは本当にまずいのだ。いったいどうすればいいのか 「ど、ど、つしましよ、つ」 瞬時にパニックに陥った。すぐにも警察がやってきて、ハナを逮捕するのではないか と恐怖した。逮捕までいかなくても、怪我をした人から民事訴訟を起こされるかもしれ ない。そんなことになったら、会社勤めをしている夫の立場はどうなるのか。妻が愚か な運動に加わっていたばかりに、夫の社会的信用が地に落ちてしまう。それだけではな 、娘からの尊敬も永遠に失われるだろう。佐緒里は母の人生を軽蔑し、もう二度とそ たた の見方を変えないに違いない。不安はたちまち膨れ上がり、ハナを混乱に叩き込んだ。 、田丸さん ? 」
502 を責める必要はないのだった。 「もう、すごい不愉快です。そんなに可奈に振られたのが腹立つんですか ? あたした ちにこんないやな思いさせて、何か楽しいですか ? 」 へきえき 女友達は辟易した顔で、寛に冷ややかな視線を向けてきた。冗談じゃない、と寛はい きり立つ。振られたも何も、もともと可奈の方から接近してきたのではないか。ノート のコピーを取るだけ取ったら、もう用はないとばかりに寛に冷たい態度をとる可奈は、 とんでもない性悪女である。そんな女にひと言文句を言ったからといって、どうして咎 められなければならないのか。人のことをストーカーみたいに一言うのはやめろ。 あふ そうした反論が心にどっと満ち溢れたが、寛はロにできなかった。他人と感情的に言 うわて い争うという状況が、どうにも苦手なのだった。自分が上手に出ている分にはいいが、 相手が反撃してくるともう気力が萎える。早く逃げ出したいとしか思えなくなるのだ。 そもそも、こんな関係のない女を相手にしても仕方ないのである。寛の関心はすべて 可奈に向いていて、可奈がどう思うかだけが大事なのだった。だから寛は、邪魔な女の 言葉を可奈がどう受け止めているかが知りたかった。女友達が勝手に可奈の気持ちを忖 度し、でたらめなことを言っているだけだと思いたかった。 にもかかわらず可奈は、女友達を諫めようとはしなかった。それどころか、かって見 たこともないほど険のある表情で寛を睨みつけている。そこにはふたりで楽しく過ごし
358 「この前、聡ちゃんに怒られちゃったのよ。聞いた ? 」 食堂はカフェテリア形式だったので、交代で料理を取ってきた。皿数が揃ったところ で改めて食べ始めようとしたときに、義母はそんなふうに話しかけてくる。光恵は曖味 な笑みを浮かべ、同じく曖昧に「ええ」と頷いた。 「少し聞いてますー 「息子に怒られるなんて、なんか新鮮でよかったわー。結局、あたしも余裕がなかった のよね。言われて初めて気づいた。お父さんがこんな大病したの初めてだから、気が動 転してたのね。自分ではしつかりしてるつもりだったのに、駄目ねえ 「そんな、当然ですよ。誰だって動転すると思います。お義母さんはしつかりしていら っしやる方ですよ」 考えるよりも先に、義母を肯定する言葉が口から出た。必ずしもふだんからそう思っ ていたわけではないが、これが会話の流れでは自然だった。そうだ、こうやって義母を 認めることも必要だったのかもしれない。義母に共感を示すと、自分の気持ちも楽にな った。 「そんなふうに言ってもらえると嬉しいわあ。結局ほら、こういうときに頼れるのは身 内だけじゃない ? それなのになんだか自分だけが全部引き受けちゃってるような気に なって、それでカリカリしてたのよ。光恵さんにもひどいことを言っちゃって、ごめん
245 でもそんなわけにもいかないからさ、一一九番に電話してやったの。結局、心臓発作だ かなんだか知らないけど、も、っそれきり駄目だったんだけどね 「佐藤さんは病院までついてったの ? 」 重ねて昌子が尋ねる。和代は苦々しげに顔を歪めた。 「そ、つよー どうしてあたしがって思ったけどさ、電話した手前知らん顔もできないじ ゃない。あのときはさすがにあたしも、自分のお人好し加減にうんざりしたわ。面倒見 かいいのも考えものよねえ」 和代はそんなに他人のことを気にかけるタイプだったかしら、とハナは漠然と考えた が、今はそんなことはどうでもよかった。あの、殺しても死にそうになかった河島が、 あっさり死んでしまったという事実が衝撃だった。 「じゃあ、佐藤さんは河島さんのご家族にも会った ? 」 気になる点を確認してみたら、和代は小刻みに小さく頷いた 「ええ。まあ会ったと言えば会ったけど、ちゃんと話をしたわけじゃないわ。病院で、 ほとんどすれ違いざまに挨拶されただけ。改めてちゃんとお礼を言いたいって言ってた から、また連絡はあるでしようけど」 「家族って、息子さん夫婦かしら」 「たぶん、年格好からするとそんな関係でしよ」 ひとよ