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検索対象: 愚行録
88件見つかりました。

1. 愚行録

「うん、ちょっと声が聞きたくなってね」 その返事で、何か下心があるのだと察しました。声が聞きたくなって電話をしてくるような、 そんな性格ではないからです。 「珍しいこともあるもんね。でも、何か用件があるんでしよ」 私はずばり訊きました。田向さんが鋭い女性を嫌いじゃないことを、私は承知していたんで す。案の定、田向さんはちょっと嬉しそうに、「話が早いな」と言いました。 「そう、用があるんだよ。それで電話してみたんだ。もしよかったら、また会えないかな」 そ、 2 言い出すだろうと予想していました。田向さんがどんな態度で私に接してくるつもりか 興味があったので、会ってみてもいいとは思いました。でもふたっ返事で応じるのも癪なので、 少し焦らしてみます。 「あたしは別に会いたいとも思わないんだけど」 「そんな冷たいこと一言うなよ。頼むよ」 したて 田向さんが下手に出てくるなんて、珍しいことです。というより、私と付き合っている間は 一度もなかったことでした。ちょっと愉央になって、私は続けました。 「田向さんと会って、あたしに何かメリットがあるの ? 」 「食事くらい奢るよ」 「それだけ ? 」 「それだけ、って、他に何が望みなんだよ」

2. 愚行録

ら、ちゃんと名刺は取ってあるから文句を一言おうかと思ってるのよ。あなたも本ができたら送 ってよね。 いいの、か まあ、こんな玄関先で立ち話もなんだから、どうぞ上がってくださいよ。えっ ? って ? いいわよ、遠慮しないで。長くなるからあたしも立ったままじゃ疲れちゃうしさ。他 の人にもこうやって答えてあげたんだから、もう慣れたものよ。だらだら無駄なお喋りしない で要点だけを話せるから、安心していいわよ。あなた、いい相手を見つけたわね。 そこに坐ってて。今、お茶を淹れてくるから。だから ちょっと待っててくださいね。はい、 遠慮しないでってば。あたしだってお茶が飲みたいし。 けんそん 、どうぞ。粗茶ですが。なんて謙遜するまでもなく本当に安いお茶なんだけどね。だか ら遠慮することなくお代わりしてね。 えっ ? あたしが初めてのインタビュー相手なの。あらそう。それは光栄だわ。じゃあ、第 > し一三ロ 舌をしてあげなくちゃね。大丈夫。任せてお 一歩から失敗したなんて田 5 われないように、 ) 、 やつばり、あの夜の話から始めた方がいいわよね。だってねえ、警察に行ったって実際にあ の夜にこの場にいた人なんていないんだから、知りたければあたしに訊くしかないんだもの。 やつばりあたしにしかできない話をしなくちゃね。 そうなのよ。見てのとおり、この辺りはちょっと寂しいのよね。れつきとした一一十一二区の中 でさ、しかも駅から徒歩十分ちょっとのところなのに、こんなに閑散としてるのよ。東京は人

3. 愚行録

そんなふうに彼女は尾形さんに話しかけました。尾形さんも紳士ですから、きちんと応答し ています。いつもだったら夏原さんは、四人共通の話題を見つけて盛り上げるのですけど、そ のときは尾形さんとばかり話していました。私は尾形さんが相槌を求めてきたときだけ、返事 をするような状態でした。 私のところにいらっしやったということは、私と夏原さんがどんな関係になったか、 ) 存じなんですよね。じゃあ、過程をだらだらと話しても仕方ないですから、結論まで飛びまし よう。はい、尾形さんは私を捨てて、夏原さんと付き合い始めたんです。 私を捨てて、なんて一一一一口うとちょっと恨みがましいですけど、客観的にはそ、つなんです。とい っても、私も捨てられた恨みをいつまでも引きずってたわけじゃないですけどね。最初にも言 いましたように、もう過去の話です。だから今は、こうしてありのままにお話しできるんです よ。 陳腐な話になっちゃって、申し訳ありませんね。女同士の友情が男を間に挟んで壊れちゃっ たなんて、あまりにありきたりで恥ずかしいです。ただ、結果はともかく、どうしてそうなっ たかという理由はちょっと変わっていたんじゃないかと思うんですよ。これもあくまで、私の 推測ですけど。 夏原さんは私に産れていたと言いましたよね。私みたいになりたいんだと。だからなんじゃ ないかと思、つんです。 えつ、もっと説明しなくちゃ駄目ですか。ですから、夏原さんは私になりたかったんですよ。 170

4. 愚行録

他の女の子とまったく同じように接してるつもりだったんだけどな」 「なに寝ばけてんだよ。誰が見たってその後の成り行きは予想がついたぜ」 「じゃあ、みんな知ってるのかな」 「そりやそうだろ。別にまずくはないんじゃないか。山本さん、ちょっとシャープな感じの美 人でいいじゃん」 ふたりで飲みたいと持ちかけられたときから、おれも田向の言いたいことはわかってました。 でも最初から察しのいいところを見せてたら、話が盛り上がらないじゃないですか。なので、 そんなふうに鈍感な振りをしたんです。 「参ったなあ。おれ、会社の子には手を出さないようにしてたのに」 あお 田向は真剣に落ち込んで、ビールジョッキをぐいぐいと呷りました。おれにしてみれば、ふ だんは隙のない田向がそんなことで困っているのは面白かったので、さらにからかってみまし 「うちの会社の子なら間違いないじゃん。いい嫁さんになるんじゃない ? ちょっと早いけど、 年貢の納めどきが来たってことじゃないの」 ひとごと 「他人事だと思って簡単に一言うなよ。おれ、まだ一一十四だぜ」 同期の中には、すでにその時点で結婚して子供までいる奴もいました。でもおれも田向も、 そんな奴の気が知れないと思うタイプなんです。一一十四であれこれ背負いたくないじゃないで すか。早くても三十過ぎ、まあおれなんかは四十過ぎたら真剣に結婚考えればいいやなんて思

5. 愚行録

ですから、行かせるなら慶応がいいと言ってました。慶応って、女の子は男の学生に荷物を持 ってもらえるんですって。私、その話を聞いてちょっと笑ってしまいました。だって、なんだ かプレイボーイの集まりみたいじゃないですか、そんなの。大学全体がそうなのかって考えた ら、おかしくありません ? でもそれも、私の育ちがあまりよくないからそんなふうに感じる んでしようね。良家のお子さんなら、荷物を持ってあげたり持ってもらったりっていうのも普 通のことなんでしよう。田向さんとのお付き合いはごく短い期間でしたけど、自分の知らない かいまみ 世界をずいぶん垣間見させてもらいました。お付き合いがたった一カ月半で終わってしまった のは、本当に残念ですけど。 コーヒー、お代わりはいかがですか ? よ : 、 ( しカまいませんよ。まだも、つ一しお話ししなく ちゃならないこともありますし。ちょっとお待ちください。 失礼しました。どうぞ、お代わりはいくらでもおっしやってください。私もコーヒーは 好きなんで。 で、田向さんの交友関係についてですよね。ええ、お付き合いがあったのは私だけではない ですよ。田向さんは社交的な人でしたから、引っ越してきたばかりでもすぐにお友達はできて ました。お料理教室でも、同じ小学校のお母さんでも。 お料理教室の後に田向さんとふたりでお茶を飲んだのは、実はその一回だけでした。次から は、どんどん友達が増えていったからです。もちろん、誘ったのは私ではありませんでした。

6. 愚行録

たりするんでしょ ? 田向さん自身も包容力のある人だと思うんですけど、そ、ついう男性に限 ってしつかりした女性を求めたりするんですよね。 えっ ? 奥さんはそんなタイプではなかったんですか ? 家庭に入っておとなしく夫の帰り を待ってるような人 ? ああ、そうなんですか。時間が経って好みが変わったのか、それとも 付き合う相手と結婚相手は別ってことでしようかねえ。田向さんらしいと一一一一口えば、田向さんら はい、ごちそ、つさま。いつばい飲んだねー。じゃあ、ちょっとゲップをしようか。すみ とんとん。 ません、お行儀が悪いですけど失礼して。はい、 ああ、出ました。こうやってゲップさせとかないと、飲んだミルクを吐き出しちゃうんです よ。最初はうまくゲップさせられなかったんですけど、こういうのも慣れですね。はい、お夐 いつばいねー ごめんなさい、話を戻しますね。私は彼女のことを知って、今はちょっと難しいのかなと思 いました。年上好みなら、私にはもうどうしようもないじゃないですか。もちろん、私自身が 努力して大人になるという方法も考えられます。でも、それには時間がかかりますでしよ。そ んな実るかどうかもわからない努力をするくらいなら、いっそ正面からぶつかってみようって 考えました。 ふたりで会って欲しいと、電話で頼みました。相談したいことがあると言ったんです。そう したら田向さんは、央く応じてくれました。以前にも悩みを解決してもらったくらいですから、

7. 愚行録

社に入った後での返済という約束でお金を貸してくれるローンがあるんですね。田向さんは私 のために、そのローンを使ってデート代を作っていたのでした。それを知って、私はもう心の 底から感激しましたよ。なかなかできることじゃないじゃないですか。田向さんのためならな んでもしてあげたいと、本気で思いました。 だからもちろん、父に田向さんのことを言いましたよ。なんか便宜を図れる ? とはっきり 訊きました。父は何も約束をしませんでしたけど、人事に話はしてみると言ってくれました。 三井物産ではそういう縁故が意味を持つのかどうか私はよくわからないんですが、何もないよ りはましだったんじゃないでしようか。田向さんも喜んでくれました。 あ、ちょっと疑問に思いましたでしょ ? ええ、結局田向さんは三井物産に入らなかったん です。落ちたわけじゃないんですよ。実はちゃんと内定をもらってたんです。でもそれを蹴っ て、今の会社に入ったわけです。理由がわかりませんか。ではその話もしなければいけません ね。 私がそのことを知ったのは、何度目かのデートのときでした。すごくびつくりしましたね。 だって、就職のためだけに私に再接近してきたんだと思ってましたから。それなのに、実は商 社が第一志望じゃないなんて言い出すんですから、そりや驚きますよ。 「三井物産が第一志望じゃなかったの ? 」 私はたぶん、目を丸くしていたと思います。田向さんはちょっとばつが悪そうに頷きました。 「うん、実はそ、つなんだ。恵美には骨を折ってもらってるのに、悪いね」 228

8. 愚行録

付き合っている人がいることを知らなかったんですよ。だから、彼女の存在がわかったときは ショックでしたね。私はすっかり、田向さんと付きムロ、つことになるんだと思い込んでいたので でも、諦めませんでしたよ。田向さんみたいな素敵な人なら、彼女くらいいるのは当然だと 考え直したからです。知り合ったときに付き合っている人がいたのは、単にそ、つい、つタイミン グだったというだけじゃないですか。別に婚約者でもないし、私にだってチャンスがないわけ じゃないだろうって楽観的に考えました。 私、積極的にアプローチしました。当時はものすごく真剣だったんで、恥も何も感じなかっ たんです。それまでにも増して飲み会には頻繁に参加するようにしましたし、その際にはなる べく田向さんの近くに坐れるように努力しました。田向さんも他の一年生よりは私の方が話し やすいと感じていたらしく、けっこう気さくに相手をしてくれます。このままどんどん距離を 縮めていければいいのにと思いました。 でも、谷口さんの件が片づいてからは、田向さんから電話がかかってくることもありません でした。本当に、義務を伴う仕事を終えたという感じでしかなかったんです。だから私、ある とき痺れを切らしてちょっと大胆な行動に出ました。酔った振りをして、田向さんに送っても らったんです。 話すのが本当に恥ずかしいんですけど、ちょっと際どい場所でしやがみ込んで、「あたしも う動けない」なんてことも言いました。どんな鈍い人でもこちらの気持ちがわかるくらい、は つきり意思表示したつもりです。それでも田向さんは、眉を寄せて困ったような顔をするだけ

9. 愚行録

ーミントにしましよ、つか。ちょっといやな話になってきましたからね。 ましよう。今度はペパ ノーミントは苛々した気持ちを和らげてくれるので、こんなときにはちょうどいいんです。 え、いいんですよ、遠慮などなさらないで。私 すぐに来ますから、少しお待ちください。い も飲みたいんですから。 そ、っそう。夏原さんの取り巻きに対する仕打ちといえば、こんなこともありました。中山さ んに対する態度もひどかったけど、あれもどうなんでしようかね。別にひどいと思わない人も いるのかもしれませんが、私は首を傾げます。だって夏原さんは、内部生の考えることをよく わかっていたはずですから。 たなか 彼女の名前は田中さんと言いました。取り巻きのひとりです。といっても、田中さんは取り 巻きの中ではちょっと毛色が変わっていました。彼女は夏原さんに負けないほど美人だったん ですよ。 もちろん、総合点では夏原さんに敵いません。センスという点では一歩も一一歩も譲るし、何 より田中さんのご両親は離婚していました。両親が揃っているかいないかで差別されるなんて 人権問題ですけど、もうおわかりのとおり慶応の常識は他とは違、つんです。両親が離婚してい て保護者であるお母さんはただのパートで働いているとなれば、それは大きなマイナス点なん ですよ。 それでもおじいさんが経済的に余裕がある人だったらしく、その遺産で慶応まで入ったって くんと、つ 話を聞いた憶えがあります。それに、ファッションセンスは夏原さんの薫陶を受けてそれなり 144

10. 愚行録

なかったんだと思います。というのも、内部生の目を引くような素敵な服を中山さんが着てい たことは一度もなかったからです。中山さんは単におしゃれな慶大生になっただけであって、 突出して目立っ存在にはなりませんでした。むしろ全身をプランドものでばっちり決めていた 頃の方が、変に目立っていたくらいだったんです。 無理もないと思うんですよ。夏原さんにしてみたら、なんでもかんでも自分の真似ばかりす る人は鬱陶しいでしようから。まして、真似をする人の方が目立ったりしたら面白くないのは 当然です。自分より少し劣るくらいのところで留めておこうと考えるのは、まあ人情と一一一一口える でしよ、つね。 だから、わかるんです。私も夏原さんの気持ちはわからないでもない。それでも、なんか女 特有のいやらしさというか、意地悪さを感じてしまうんですよ。夏原さんのしたことに。 うーん、この先はちょっと言いにくいですね。亡くなった人を悪く一一一一口うのは、なんだか品性 おとし が下劣みたいじゃないですか。私は決して、夏原さんのことを貶めたいわけじゃないんです。 ただ、私とはちょっと感覚が違、つなと思うだけなんですよ。 : そうですか。まあ確かに、美談ばっかりじやバランス悪いでしようね。あんな事件のル ポなら、綺麗事ばかりじゃ済みませんか。はい、おっしやることはわかりました。でもこれは あくまで、単なる事実を説明するだけですからね。それ以上の他意はないことをわかってくだ さい。 じゃあ、続けますね。さっきも言いましたように、夏原さんには崇拝者が何人かできました。