普通は文句がないでしようから。 「だって、おれたちはあの飲み会のときが初対面だったんだぜ。で、その場のノリで最後まで いっちゃったんだよ。そんな軽い女、いやじゃん」 ・ : ああ、わかりますよ。おっしやりたいことはわかります。すごい身勝手ですよね。その 発一言だけ取り上げたら、なんてひどい男かと誰でも思いますよ。でも何度も強調しているよう に、これは駆け引きなんです。向こうだって承知の上の綱引きなんですから、田向をその気に させられなかった山本さんの負けとも一一一一口えるんですよ。男女の仲って、確実にそういう面があ ると思いません ? ・ おれも言いましたよ。お前、ひどいよって。ただそれは、田向だから言ってみただけで、ま あこれもからかいのひとつです。本音では、『そうだよな』と同意していました。 「その後、会ってないの ? 「何度か会った」 「そりや、向こうはデートのつもりだろ。何度か会ってみても、お前は好きになれないわけ 「うーん」 おれの質問に、田向は考え込みました。田向のためにひと一一一一口言っておくと、こういうときに ちゃんと考えられる田向は真面目だということです。間髪を容れず「好きになれないーと答え ることだってできたわけですから。
ると読んで、その上で「もうすぐ」と言ったんです。 田向さんの考える計画の仕上げは、ビラでした。田向さんは最初に、谷口さんの弱みを握る と言ってました。郵便物の抜き取りをしていれば、そのうち谷口さんの秘密を掴めると考えて いたようです。でも、そううまくはいきませんでした。誰かからの手紙でもあれば一番よかっ たのでしようけど、そんな郵便物は一度も来なかったからです。 そこで田向さんは、思い切ったことをしました。実際にはなかった話をでっち上げることに したんです。それには私もびつくりしました。私ひとりだったら、とてもそんなことは思いっ かなかったです。 田向さんがでっち上げたのは、谷口さんが痴漢常習者だという話です。被害に遭った女性の ノナルワープロを使ってビラを作りまし 証一一一一口という体裁で、当時ようやく安くなってきたパー、 た。けっこう中身はリアルで、谷口さんが私の家の最寄り駅に来るために乗る電車の描写を事 細かに書き連ねたんです。車両を替えても追いかけてくるとか、声を上げたら居直られて逆に 怒鳴られたとか、嘘だと知っている私も信じてしまうほどでした。何も知らない人なら、全部 事実だと思い込むに違いありません。 田向さんはそれを、谷口さんが住むマンションの郵便受けに入れました。谷口さん一家を除 いた世帯、すべてにです。それが配られた後は、谷口さんはさぞかし白い目で見られたでしょ うね。いい気味だと、胸がすっとしました。 一度で済ませてしまうほど、田向さんは不徹底ではありません。それからも何度も何度も、
田向さんは積極的でした。どうしてそんなに入れ込んでくれるんだろうと考えて、私はちょ 、つぬぼ っと自れたことを想像しました。田向さんは私を好きなんじゃないかと思ったんです。それ はすごく嬉しいことでした。 田向さんは私に、ほとんど何もしなくていいと言ってくれました。やるべきことは田向さん がやってくれると一一一一口うんです。それは私への好意のためだと思ったので、少し気が引けました けどお任せしました。仮にうまくいかなくても、田向さんの気持ちだけでありがたいとも考え ました。 まず田向さんは、郵便物の抜き取りから始めました。毎日ではバレるので、三日に一回くら いのペースで郵便物を抜き取ったんです。大半は役に立たないものでしたが、中には予備校の 模試の案内もありました。田向さんはそれを見て、「これはいい」と言いながら破り捨てまし た。模試を受ける機会を失うのは、谷口さんにとって痛手だからです。 それと同時に田向さんは、出前を頼みました。もちろん自分用ではありません。届け先は谷 うなぎ 口さんの家です。ラーメン、寿司、鰻、ピザ。届けてくれるものはなんでも頼みました。いっ ペんにいくつも頼むわけではありません。これも三日に一回ペースで、届けてもらったからに は受け取らざるを得ないように注文するんです。一度や一一度ならともかく、それが何度も繰り 返されれば、不気味な上に経済的にも困りますよね。谷口さんの一家はかなり参ったと思いま すよ。 電話もかけ続けました。公衆電話を使って、谷口さんの家に何度もかけるんです。最初は無 8
で、どうも一一番目に死ぬことになっちゃったみたい。旦那さんを刺しすぎて使えなくなった包 、あ、凶器が包丁だってのは知ってるわよね。それは犯人が自分で持っ 丁を犯人は捨てて てきた物らしいわよ。で、それが使えなくなっちゃったもんだから、子供のことはテープルの 上にあったガラス製の仄皿で殴り殺したんだって。それも、何度も何度も頭を殴ったようなの よ。ああもう、想像しただけで震えてきちゃう。 かわいい子だったわよ。まだ小学校に入ったばっかりで、体に比べて大きすぎるランドセル をしよって登校しているところを見たことがあるわ。道ですれ違うと照れ臭いのか、お母さん の後ろに隠れちゃってね。でもちゃんと、「こんにちは」って挨拶は一一一口えたのよ。あれは親御 さんがきちんと教育しているのよね。今どきの子供にしては大したものだったわ。何もそんな 子まで殺さなくったってねえ。 で、家の中の話ね。次に殺されたのは奥さんと下の女の子がほば同時だったらしいわ。ふた りは一一階にある夫婦の寝室で死んでたんだって。今度の凶器はまた包丁なんだけど、台所にも ともとあった物を使ったって聞いてるわ。ひとりを殺しただけでも、つ使い物にならなくなると 学習したらしくて、一一階に上がる前に一一本持っていったみたい。一本で奥さんをめった刺しに して、もう一本で女の子をーー。ああ、話してて気持ち悪くなってきちゃった。おんなじこと は何度も話してるのに、酷い舌にはとても慣れることなんてできないわねえ。 かわいそうなのはね、奥さんは自分の体の下に女の子を庇うようにしていた痕跡があったん だって。奥さんはほとんど、背中しか刺されていないのよ。でも結局そんな努力も空しく、奥
のせいでいつもバ ートを早引きしてて、肩身が狭くて、すごく腹が立った。どうしてあたしの 足を引っ張るのって、何度も何度も訊いたことあるよ。それなのにあの子は泣くばっかりでさ、 泣きたいのはこっちだよって言いたかった。 あの子は食が細くてね、あたしが作ったものをぜんぜん食べてくれないのよ。食べないから 力もっかないみたいで、ちっとも大きくならなくて、病気なんじゃないかと思った。でも、単 にご飯を食べないってだけで病院になんか連れていけないでしよ。風邪をひいたときにこっち はさんざんパートを休んでるんだからさ。ほっとくしかないじゃない。 お兄ちゃんはわかってるだろうけど、あたし、あの子に手を上げたことは一回もなかったよ。 お兄ちゃんがお父さんに殴られてるところを何度も見てるから、それだけはしちゃいけないっ て思ってたんだ。だから注意はロだけにした。殴ったり蹴ったりしてないんだから、自分が児 童虐待をしてるなんて意識はこれつほっちもなかったよ。あの子がだんだん動かなくなって、 ご飯を食べさせようとしてもロの端からだらっと垂らしちゃうだけで、目が虚ろになってても、 この子は弱いんだから仕方ないって思ってた。あたしは殴ってないんだから悪くないって、本 気で確信してた。だからあの子が息をしてないってわかったときも、救急車を呼ぶのにぜんぜ んためらいはなかった。ああ、病気で死んじゃったんだと思ったから。 そうしたら、警察が来てあたしを逮捕したからびつくりしたよ。子供の育て方がうまくない と、それだけで罪なのね。でも、それだったら世の中に捕まるべき人はいつばいいるのに。ど うしてあたしだけなんだろう。やつばあたしは、不幸の星の下に生まれたのね。もう最悪。せ
て乱暴されたとかそんな深刻な事件はなかったし。静かで安全な地域だったのよ、この辺は。 あたしが事件を知ったのは翌日よ。もうパトカーとか救急車とかが何台も何台も集まってき て、大変だったんだから。第一発見者は宅配便の人だったんだって。届け物を持ってったのに 誰も出てこない、留守かなと思ったら玄関の磨りガラスに何か血みたいなものがついてるって んで、おかしいなと思ったみたい。それで横に回り込んでみたら、リビングのカーテンに血し ぶきがついてて、腰を抜かしたらしいわよ。無理もないわよねえ。でも、その人はそこまでし か見てないんだから、まだましだったわよねってよく一一一一口われてるわ。だって、中はもっとひど かったんでしよ。 よくさ、時代劇を見てると、相手を正面からばっさりやったのに返り血も浴びないってこと があるでしよ。かと思、つと、過剰にプシューって血が飛び出ることもあるじゃない。どっちが 本当に近いのかって言ったら、たぶんプシューの方なんでしようね。だってそうじゃなきや、 ちまみ カーテンが血塗れなんかにはならないわよねえ。 カーテンの血は旦那さんのだったらしいわよ。旦那さんは窓際で倒れてたから。正面から刃 物でめった刺しだって。心臓をまともに刺してるから、刃物を引き抜いたときにプシューっと 血が噴き出したんでしよう。たぶんその一撃で死んでるのに、その後も何度も何度も刺してた っていうんだから、酷いわよねえ。犯人は全身血塗れだったはずよ。 かわいそうなのは子供よ。七歳になる上の男の子は、たぶんテレビを見ててそのまま寝ちゃ ったんでしようね。リビングのソフアで寝てたらしいのよ。でも、そんなところで寝てたせい
だ。何しろガキだからね、お母さんは。 お兄ちゃんと同じいたずらをしても、あたしばっかり怒られたよね。すごい理不尽だと思っ た。「理不尽」っていう表現を初めて聞いたとき、これだって思ったもん。これがあたしのこ とを、つまく言い表す一一一一口葉だ、って。いくつくらいかなあ。ずいぶん小さい頃だと思、つよ。まだ 幼稚園に行くくらいの子供が、親から「理不尽とは何か」を教わるなんて、かわいそうすぎて 涙が出るよね。 でも、あたしはまだましだった。お兄ちゃんがいたから。お兄ちゃん、ずいぶんあたしのこ とを庇ってくれたよね。お母さんが単に自分の機嫌の悪さをあたしにぶつけてるとき、泣きな がら止めてくれたもんね。嬉しかったよ。あたしが世の中で信用できるのはお兄ちゃんだけだ って、ずっと思ってた。今でも思ってる。あたしの味方はお兄ちゃんだけ。 憶えてるかな、お母さんの財布からお金がなくなったときのこと。五千円くらいなくなって たんだよね。それに気づいたお母さんは、証拠もないのにあたしだけを疑ったんだよ。あの頃 あたし、小学校一年だったかな。一年生が五千円も持ち出したって、何に使えるって一一一一口うのよ ねえ。冷静に考えればあたしじゃないってわかるはずなのに、お母さんはあたしの仕業だって 頭から決めつけてたんだ。呼びつけて、板間で正座させて、あたしの頭を平手で何度もびしゃ うわごと びしゃ殴った。「この泥棒、泥棒猫」って譫言のように繰り返しながら。 ごめんなさい、ごめんなさいって、何度も謝ったよ。謝ったって許してもらえないのはわか ってたけど、ともかく謝ることが習い性になってたから、ひたすら謝った。でも考えてみたら、
と、男は取りあえず性格なんて問わないんじゃないかな。あんな美人と付き合えれば、それだ けでいいって感じで。でも付き合ってみれば、田中さんが何を狙っているのかよくわかる。で、 冗談じゃないと男は逃げる。相手の表面しか見てないのはお互い様なんだから、田中さんもう まくギブアンドティクの関係を作り上げればいいのに、そ、ついう知恵は回らない人のようでし た。そうね、こうして思い出してみると、やつばり夏原さんはすごかったわ。田中さんみたい なみつともないところは、絶対誰にも見せなかったから。 でも田中さんも、別の意味でなかなかすごい人でした。一度くらい恋愛に破れたからって、 それで懲りたりしなかったんです。ひとり駄目ならまた次と、さっさと気持ちを切り替えるこ とができたんですね。びつくりするくらいの美人ですから、田中さんさえ望めば相手には困ら なかったみたいです。 「す ) 」い」と言ったのには、ネガテイプな意味もあります。田中さんは失敗から何も学ばなか ったからです。少し下心を隠すなり、隙を見せないようにするなり、改善の余地はいつばいあ ったはずなのに、し ) っこうに態度を改めませんでした。だから二度目の相手とも、あっという 尸に別れてました。 女性の場合、異性に困らない人はとことん困らないんですよね。別れてもすぐ、次の人が現 れるんです。で、付き合っては別れる。そんなことを三度も四度も繰り返してると、そのうち 田中さんには悪いレッテルが貼られるようになりました。つまり、〃手軽な女 ~ だと内部生に 1 は田 5 われるようになったわけです。
ば早期発見できたんじゃないかなあ。でもあの頃って、そういう意識はなかったんだよね、き っと。気づいたときには手遅れ。何度も手術して、放射線治療を受けて苦しんで、でも結局助 からなかったんだから、苦しんだだけ損したようなもんだよ、あれじゃあ。おじいちゃんはお ろおろするだけで何もできないし、お母さんはたまに見舞いに来るだけだし、辛かったね。だ からあたし、今でも病院って大嫌い。あのときのいやな思い出があるから。 お母さんは、おばあちゃんのこと恨んだんじゃないかな。どうしてもっと長生きしないんだ、 あたしに皺寄せが来るだけじゃないかって。本当は皺寄せ食らってたのはおばあちゃんたちな のにね。お母さんはそ、ついう考え方をする人だから、絶対限んだはずだよ。 おばあちゃんが入院しちゃえば、あたしたちの面倒をおじいちゃんだけで見るわけにはいか ないじゃない。だから結局お母さんが戻ってきて、あたしたちと暮らし始めたわけだけど、あ たしはなんだかよくわからなかったな。お母さんってのはたまに帰ってくる人のはずなのに、 なんで一緒に暮らすんだろうって不思議だった。で、実際に暮らし始めてみたら、なんだかど うでもいいことですぐ怒る人だったでしよ。ぜんぜん好きになれなかったよ。優しいおじいち ゃんとおばあちゃんの方がずっといいって、何度も思った。 あれは結局、あたしたちのことが邪魔だったんだね。もっと遊びたいのに、面白おかしく生 きたいのに、それを邪魔する存在だとしか思えなかったんだよ。それじゃあ愛情なんか持てる わけないよね。お母さんは薄清っていうより、ともかくお父さんにナンパされたときにちゃん と避妊しなかった無知さが問題だったんだ。あたしはそう思うよ。一一十代をいつばい遊んで過 121
「うん、ちょっと声が聞きたくなってね」 その返事で、何か下心があるのだと察しました。声が聞きたくなって電話をしてくるような、 そんな性格ではないからです。 「珍しいこともあるもんね。でも、何か用件があるんでしよ」 私はずばり訊きました。田向さんが鋭い女性を嫌いじゃないことを、私は承知していたんで す。案の定、田向さんはちょっと嬉しそうに、「話が早いな」と言いました。 「そう、用があるんだよ。それで電話してみたんだ。もしよかったら、また会えないかな」 そ、 2 言い出すだろうと予想していました。田向さんがどんな態度で私に接してくるつもりか 興味があったので、会ってみてもいいとは思いました。でもふたっ返事で応じるのも癪なので、 少し焦らしてみます。 「あたしは別に会いたいとも思わないんだけど」 「そんな冷たいこと一言うなよ。頼むよ」 したて 田向さんが下手に出てくるなんて、珍しいことです。というより、私と付き合っている間は 一度もなかったことでした。ちょっと愉央になって、私は続けました。 「田向さんと会って、あたしに何かメリットがあるの ? 」 「食事くらい奢るよ」 「それだけ ? 」 「それだけ、って、他に何が望みなんだよ」