「ぶりつ子って、もう最近の男の子たちには通用しないの ? 」 「ぶりつ子。なっかしい言葉ですね」 純子さんは、あははと笑った。洋梨のシブーストをすいと口に運び、おいしそうに咀嚼する。 裏表のある職場の後輩は、匡のことを、ちょっとだけ、ねらっているのだ。そのことを、あ たしは純子さんに言わない。言っても、純子さんなら大丈夫だろう。でもやつばり、言わない。 そういう言いつけぐちって、なんだか下品だと、純子さんに思われそうな気がするから。 純子さんと匡の結びつきの強さをいちばんに感じるのは、食事の時だ。 匡と純子さんは、あまり似ていない。顔も、雰囲気も、喋りかたも。けれど、食事のしかた だけは、そっくりなのだ。 外食の時ならば、メニューの選びか お箸の持ちかた。おかずの食べかた。食事のスピード。 純子さんと食事をしていると、まるで匡と一緒にいるような気分になってくるのだけれど、 最初あたしは、そのことを何とも思っていなかった。 匡は、ものをきれいに食べる。そういう男は、すてきだ。よくそ純子さんは、匡を礼儀正し い男に育ててくれたと、あたしは感謝したりもした。 けれど、いっからだろう。あたしはほんの少し、つらくなってきてしまったのだ。 そしやく 245- ー - ーホットココアにチョコレート
でも、このまえ会った時には、まっくろになっていた。 ひでちゃんは、南の島に移住したのだ。 南の島で、ひでちゃんは包丁研ぎの看板を出しつつ、株式売買をしている。包丁研ぎだけで は、ちょっと暮らしが苦しいから、らしい 株式の方は、どう。 そんなメールを出すと、ひでちゃんは五日くらいたってから、返事をよこす。 返事遅くてすまん。株式は、少し儲かってるよ。この時節柄、けっこうこれってえらいよね。 早く遊びにおいで。それから、研ぐ包丁があったら、持ってきてね。 でも、南の島に行くのは、たいがい飛行機でだろう。飛行機に、包丁を持って乗るのは、と っても難しいし、面倒だ。ほんとうは、使っているパン切り包丁がさびてまったく切れなくな っているので、研いでほしいのだけれど。 ひでちゃんが、株式の取引をパソコンでもってやっている現場を、あたしは以前に一回だけ、 見たことがある。 その時は、けっこう儲かったらしくて、ひでちゃんは喜んでいた。ひっそりと。 くへへへへへ。そんな笑い声を、ひでちゃんはたてた。 その笑いかた、きもちわるい あたしが言うと、ひでちゃんは、わざと笑いつづけた。 もう 97 一一。。ーーひでちゃんの話
「伊吹と、つきあっちゃいなよー」 千絵は言った。でもあたしは、伊吹とっきあうつもりは毛頭ない。たぶん伊吹の方も、同じ だ。そういうことは、なんとなく、わかるものなのだ。 湖の道を、あたしは歩いていた。ここの湖畔の民宿で、オーケストラ部は毎年秋合宿をする のだ。 ーもいるので、まだ二 いつものカルテットの四人だけでなく、オケの他のたくさんのメンバ 日めなのに、あたしはすっかりくたびれていた。 「楽しいねえ」 休憩時間、みんなを避けて湖ばたを歩いていたら、うしろから伊吹が追いついてきて言った。 「楽しくないよ、べつに」 「そうかなあ、みんなで曲を完成させていくのって、すつごい夢があるじゃん」 「はあ、よかったね」 あたしは、できるだけ疲れをにじませた声で言った。伊吹は、くちぶえなんかふきながら、 ついてくる。 「伊吹、あたし、こっちの道を行く」 「じゃあ、おれも」 1 51 クリスマス・コンサート
あたしがその時ばっと目を開いたら、恋人は言ってくれたことだろう。悲しくないよ、と。 でも、やつばりそうじゃない。昔のことは、記憶の中に沈んでゆく。でも、こうやっていまだ に体の表面にうきあがっている記憶は、いつまでたっても沈んでいってくれないのだ。 「で、解決、した」 桐谷さんが聞く。 あたしは、あいまいにうなすいた。なぜなら、お金を払ったのに、いれずみは消えなかった からだ。でも、違う見方をするならば、いれずみは消えた、ともいえる。 いれずみは、今も同じ場所にある。ただし、いれずみの名前が、変わった。 今の恋人の名前に。 「なんだかそれ、昔話の、三つの願い事をかなえてあげます、とかいうお話みたい」 亜美ちゃんは笑った。 「そう。かなえてもらったけど、罠だった、みたいな」 あたしも笑う。 珍しく、今日は亜美ちゃんと二人で居酒屋に来ているのだ。 「ひょりちゃん、なんだかふみ乃ちゃんや桐谷さんと、似た雰囲気になってこない ? 」 亜美ちゃんは言う。 い 2
「ね、旅行、行かない」 わたしは光史に言ってみた。ほんとうは、そのことをきりだすだけで、かなり勇気がいった のだ。いっからわたしと光史は、こんなふうになってしまったんだろう。 しし力もな」 「旅行か。たまには、、、、 金がかかるから、もったいないじゃない。そう光史が言うと思っていたわたしは、少し驚い た。とんとん拍子で、わたしたちは金子さんの言う「おふとん敷きつばなしの宿 , に行くこと となった。レンタカーの手配もすませ、スーツケースに三日ぶんの服をつめこみ、わたしたち は東北新幹線に乗りこんだ。 宿は、駅から車で二時間ほど走ったところにあった。なんにも、ないところだった。 「ほんとに、本、読むしかないようなところだね」 光史はつぶやいた。 「丘の中腹に、おいしいコーヒーをだすお店がありますよ 宿のおかみさんが、教えてくれた。わたしたちは荷物を置き、宿を出た。山の方から、鳥の 鳴き声が聞こえてくる。ときおりカッコウの声が響く。ジー、というくぐもった音もする。地 面のあたりで、虫が鳴いているのだろうか。 「しずかだねー 光史は言った。ぐるりを見回し、それから、久しぶりにわたしの顔を正面から見た。 ピーカン 181
みつけた。けれど漣二さんはほほえみ続けた。あたしのことを怖がるでもなく、さげすむでも なく、遠巻きにするでもなく、ごく普通の感じで。 「あ、少し黄緑になった , 「だからその、緑とか黄緑って何なんだよ、むかっく」 「あなたは、珍しい女の人だね」 静かに、漣二さんは言った。 漣二さんとは、「ルル」で会ったのだ。 ルルは、お酒と音楽のお店だ。いつもあたしは暇になるとルルに行っていた。高いスツール に腰かけて、がりがり氷をかじりながら強いスピリツツを飲んでいると、誰かがやってくる。 そして、話しかけたり、肩を抱いたり、うわさばなしをしたりする。ようするにまあ、暇でゆ きどころのない人間が集まってくるところが、ルルという店だ。 最初に会った時にへんなことを言われたので、あたしは二回めに会った時にも、すぐに漣二 さんの顔がわかった。ふだん、人の顔なんてあんまり見ないのに。 「こんばんは」 漣二さんはそう声をかけてきた。朝晩のあいさつをする人間なんて、ルルに出人りする男や 女には一人もいなかったから、あたしはびつくりした。 202
見られて、わたしはおずおすと、下を向いてしまった。 後で考えてみれば、わたしにはわかっていたのだ。おふとん敷きつばなし、という言葉が、 わたしを引きつけたのだということが おふとん、敷きつばなしならば、光史はセックスするかな。 結論から言うなら、光史は旅行のあいだも、セックスをしなかった。 宿に着いてから、チェックアウトするまで、わたしは常に緊張していた。障子の桟ごしにさ す朝日も、顔を洗う冷たい水も、とれたての野菜や魚をつかった料理も、鳥の声も、ひなびた 景色も、わたしは何ひとっとして楽しめなかった。 光史は、どうだったのだろう。 帰りの新幹線の中で、光史はずっと眠っていた。というか、眠ったふりをしていた。眠って いないことは、わたしにはちゃんとわかっていた。だって、光史の寝息をたしかめることが、 恋愛をはじめたばかりの頃のわたしの、何よりの楽しみだったから。 光史は、眠りはじめると寝息が乱れる。十分ほどすると、乱れはおさまる。ほんの少しだけ 苦しそうに息をする光史の寝顔を、わたしはかって、飽かすにずっと眺めたものだった。 新幹線の中で、光史の寝息は、決して乱れることはなかった。 182
「メー。フルシロップがしみこみすぎます。あと、バターの味がどんどんぼやけます。お願いで すから、食べるのを止めないでください」 あたしはあっけにとられた。どこかのこだわりラーメン屋の親父みたいだと思った。 「続木くん」 あたしは助けを求めた。続木くんは少し顔を上げたが、ただにこにこしているだけで、あま り役に立ってくれそうにない。 しかたない、少しでも早くこのこうるさいホットケーキ屋の親父もどきから逃れようと、あ たしはホットケーキを大きくわりばしできりとった。いそいでロいつばいに人れ、もぐもぐ噛 む。これじゃあ飲みくだすだけで手一杯、おいしいもおいしくないも、ないものだ。 そんなふうにして、あたしがようやく食べおえると、求太くんがまた小さな声で言った。 のど 「そんなにいそいで食べても、喉がつまるだけですー あたしは、がばりと立ち上がった。空になった紙皿をくしやりとたたみ、わりばしを半分に ぼきりと折り、ごみ箱に投げ捨てた。それから、走って部屋を飛び出した。 誰も、追いかけてこなかった。 続木くんに次に会ったのは、二カ月くらいたってからのことだった。 「フィルムのロケハンに飛びまわってたんだ」
僕が言うと、円矣さんはものすごく怒った顔になり、小さな体をせいいつばいのばして、僕 に指をつきつけた。 「私たちの尊厳を傷つけるような、そういう妙なことは言わないでほしい。この小さな狛大が、 たしかに大昔から伝わっているものにほかならないということは、私たちの役場の研究できち んと証明されているのだ」 円矣さんは本気で怒っている。その顔が可笑しくて、僕はますます円矣さんをからかいたく なってしまうのだった。 円矣さんとは、ずいぶん前に知り合った。僕が小学生の頃だったから、もう十年以上も前と いうことになる。円矣さんは、当時とほとんど様子が変わっていない。たぶん年齢は、最初に 会った時が四十そこそこ、だから今は五十を過ぎたろう。ふつくらふとっていて、白髪まじり ひげ の髭をはやしている。僕の両のてのひらをあわせた上に乗っかってしまうくらい小さいけれど、 れつきとした人間である。こびと、と言うと、円矣さんは怒る。私たちはきみたちを巨人とは 呼ばない。大きい小さいは、ただの個体差にすぎない。だから、こびとだの巨人だの、そうい う区分わけのような呼びかたは、ごめんこうむりたい。 円矣さんとはじめて会った時には、そりゃあ、びつくりした。当時僕は、この神社の鎮守の おか い 7
なるほど。 あたしは思った。 気持ちは、分類できない。それなら、カウンター機を二つも持ってても、しようがないんだ あたしは片方のカウンター機を、机の奥深くにしまった。 ハルオとは、今も時々会う。映画を見たり、カラオケに行ったり、たまには手をつないだり する。 「やつばり、気持ちって、分類できないね」 あたしは上原菜野に言った。 「ねえ、島島さんー 「なあに」 「島島っていう名字、わたしとっても、好き」 そう言って、上原菜野はカウンター機を、かち、と鳴らした。 「うれしい あたしも答え、カウンター機を、かち、と鳴らした。 うしろの席から、顔見知りの中文の女の子が、聞いた。 よ。 1 10