最後まで、あたしは迷った。そして、決めた。 数分後、あたしは三万九千五百円を払って、お店を後にした。 「お店に行ってきた ? 」 翌日お店に出勤すると、すぐに桐谷さんはあたしに声をかけた。 「はい 「何を、解決してもらったの」 「いれすみ」 あたしは小さな声で答えた。 昔、あたしは恋人の名前を、足のつけねに彫ったのだ。でも、その恋人とはすぐに別れた。 消してもらえばいいやと思っていたら、あたしの体質が特殊だったらしくて、消せば消すほど、 浮き上がってくるのだ。 今の恋人は、そんなものどうでも、 しいよ、と言ってくれている。 あたしも、そういうのはどうでもいし 、って、思っていた。 でも、この前あたしは、見てしまったのだ。恋人が、じいっとあたしの足のつけねを見つめ ているところを。あたしが眠っていると油断していたにちがいない。恋人は、とっても悲しそ うな顔をしていた。きっとあれが、恋人の本心なのだ。 まっさおな部屋 1 引
三十一歳の誕生日は、少し曇っていた。 いつものように、ナナの部屋で、わたしの三十一歳の誕生日は祝われようとしていた。 ナナと、のぞみと、わたしは、中学時代からの友だちである。いつの頃からか、誕生日には、 実家を出てひとり暮らしをしているナナの部屋に集まってーーー恋人がいる年は、恋人と二人で 過ごす誕生日当日から少しずれた日に集まって 互いがこの世に生まれてきたことをお祝 いする習慣となっている。 ナナの部屋からは、桜がよく見える。児童公園の桜である。 「ねえ、幻世紀って、いっから始まったか、知ってる 誕生日の夜
やつばりそれ、恋だな。森村は、賢しらにうなずいた。 ちがうよっ。あたしは言い、 森村の携帯を奪いとった。 / 待ち受けに恋人の写真を使っている 森村は、いつもその携帯を握りしめ、わざわざそのためにはめている絹の手袋の指先で、常に 恋人の顔をやさしくさすっているのだ。 「きもち悪いから、指先で恋人をまさぐるの、やめて」 その言いかた、エッチでいいねえ。森村は言い、嬉しそうに笑った。 そんなにも京都出張を避けていたはすの新田義雄と、あろうことか二人で京都に行くことに なるとは、予想だにしていなかった。 もともとは、課長と二人で行くはずの出張だった。午後に会社を出て、一泊してから向こう で朝の会議に出席し、そのあと小売店を何軒かまわり夕方の新幹線に乗る、という予定だった。 ところが、課長が突然盲腸になった。 一日めの夜は、京都のおばんざい屋さんの予約をとってあった ( もちろん課長と行くのでは あじゃりもち 一人で行くのである ) 。おみやげは、会社には阿闍梨餅、森村にはよーじゃのあぶらと り紙 ( 携帯の画面を美しく保っために ) と決めていた。一 = 課長はちゃんと部下との距離を適正に とれるタイ。フの人である。京都を楽しむのに、何の障害もないはすだった。 きゅうきょ ところが、盲腸で病院に運ばれた課長のかわりに、新田義雄が急遽その場でピンチヒッタ さか 256
あみ それって占いなんですか、と聞いたのは、亜美ちゃんだ。 きりや ううん、占いとは、ちがうの。桐谷さんは、首をふった。 桐谷さんは、あたしと亜美ちゃんとふみ乃ちゃんの上司で、あたしたち四人はネイルサロン 「ローズヒップ」に勤めている。 サロンの経営者は、このあたり一帯の土地をたくさん持っている男の人だ。ネイルサロンの ほかに、日焼けサロンもやっているし、あとはヘアサロンにエステサロン、ヨガサロンに脱毛 サロン、それに囲碁サロンとオセロサロンまで経営しているという、手広い商売人だ。いつば いサロンを経営しているので、あたしたちは社長のことを「サロンキング」と呼んでいる。 サロンキングは、桐谷さんの恋人だ。愛人関係ではなく、ちゃんとした恋人。少なくとも桐 まっさおな部屋 123
ふみ乃ちゃんがつぶやく 「うーん、かなえるっていうか、まあ、いろんな解決法があるみたい , 桐谷さんは、少し首をかしげた。 亜美ちゃんとふみ乃ちゃんとあたしは、顔を見合わせる。 いったいそれって、どんなお店なんだろう。 サロンキングが、また新しい恋人をつくったのだと、亜美ちゃんが教えてくれた。 「じゃあ、全部で十三人になったの」 ふみ乃ちゃんが指をおって数える。 「十三つて、不吉だね」 「でも、実はもっといるのかも」 「桐谷さん、また美人になったんじゃない ? あたしたちはひそひそ言い合った。桐谷さんは、サロンキングの恋人が増えるたびに、ます ますきれいになる。 その日は、忙しい日だった。残暑のせいでお客さんたちはみんな疲れていて、そうすると、 注文がいつもよりこみいってくるのだ。 「象ときりんを一つの爪に描くことは、できないの まっさおな部屋 125
無心で、かぶりつく。 バターやマーガリンをぬるのは、邪道だからね。パン。レタス。 の中で渾然一体となるのが、最高。おれはそう思うんだよな。 うん、ほんとに、そうだね。あたしはつぶやく こんなにシン。フルな作りかたなのに、たしかに匡の教えてくれたサンドイッチは、思いがけ ないくらいおいしい たっふりいれたミルク紅茶に、新鮮なサラダ。ヨーグルトにはア。フリコットジャム。匡が用 意してくれた、そういうものと一緒に食べると、そのおいしさはまたひとしおだ。 匡は、あたしの恋人だ。あたしたちは一緒に暮らしている。匡はとても優しい。顔も声もい 。清潔で、趣味もいし いうことなしの恋人のはずだし、誰に会わせても、 「すてき」 「うらやましい 「しあわせな奴め」 と、まったくもって言うことなし、なのである。 でも、あたしは思ってしまうのだ。 ただし ハム。その三種類だけがロ 240
ゲイになるかどうかは、生まれつき決まっていることなので、育ちかたや環境とは、まった く関係ないのです。 という説があることは、よく知っている。 ゲイのひとたちを、わけへだてする気持ちも、ぜんぜんないつもりだ。 男と女、というへテロの関係が最上のものだとも、思っていない。 しゅうそう カミングアウトした息子ーー・・就職してしばらくたってからようやく、息子の修三は自分が ゲイであると、私に打ち明けたのだ。さぞ勇気がいったことだろう。私がおろおろすることが わかっていただろうから。そして、修三は親思いの息子だから。ーーのことは、カミングアウト 、とおしい した後だって、前と変わらず同じように、し それじゃあ、ゲイだってかまわないじゃない。 何回、自分に言い聞かせたことだろう。 そう。かまわないのだ。修三にはちゃんと恋人もいるようだし。無理に女のひととっきあっ て結婚するより、その恋人といる方がずっと幸福なのだろうし。 でも、それでも私は後悔してしまうのだ。 私の中の何かが、育てかたのどこかが、修三がゲイになる原囚を作ったんじゃないか、って。
あたしがその時ばっと目を開いたら、恋人は言ってくれたことだろう。悲しくないよ、と。 でも、やつばりそうじゃない。昔のことは、記憶の中に沈んでゆく。でも、こうやっていまだ に体の表面にうきあがっている記憶は、いつまでたっても沈んでいってくれないのだ。 「で、解決、した」 桐谷さんが聞く。 あたしは、あいまいにうなすいた。なぜなら、お金を払ったのに、いれずみは消えなかった からだ。でも、違う見方をするならば、いれずみは消えた、ともいえる。 いれずみは、今も同じ場所にある。ただし、いれずみの名前が、変わった。 今の恋人の名前に。 「なんだかそれ、昔話の、三つの願い事をかなえてあげます、とかいうお話みたい」 亜美ちゃんは笑った。 「そう。かなえてもらったけど、罠だった、みたいな」 あたしも笑う。 珍しく、今日は亜美ちゃんと二人で居酒屋に来ているのだ。 「ひょりちゃん、なんだかふみ乃ちゃんや桐谷さんと、似た雰囲気になってこない ? 」 亜美ちゃんは言う。 い 2
谷さんの方は、そう言っている。サロンキングは独身だから、恋人、という表現は必ずしも間 違ってはいない。でも、奥さんがいないかわりに、サロンキングには、桐谷さんのほかに何人 もの「恋人」がいる。 桐谷さんは、四十歳だ。美人で、スタイルがよくて、少しだけ不幸そうな桐谷さん。 あたしたちは、サロンが終わったあと、近所の居酒屋で飲んでいるのだ。 月に一回くらい、あたしたちはこの居酒屋にくる。たいがい、桐谷さんがおごってくれる。 「占いじゃないんなら、何なんですか」 亜美ちゃんはくいさがった。 「それは、行ってみればわかるの」 そのお店はとても不思議なお店なのだと、桐谷さんは言う。 お店に入れるのは、恋の悩みを持つ人間だけ。 悩みをうちあけると、店主が必ず解決してくれる。 「だから、それってやつばり占いつぼいじゃないですか 「でも、占いは、アドヴァイスだけでしよう。そのお店では、ちゃんと悩みを解決してくれる のよ」 「えつ、じゃあ、恋の願い事をかなえてくれるっていうこと」 124
「六十でも、するんだー」 グレープフルーツ色のカクテルをすすりながら、みみちゃんがつぶやいている。 日が暮れる前に、わたしたちはてぎばきと片付けをし、解散した。金子さんも佐野さんも美 代子さんも、晩ごはんまでには家に帰るという。 「みんな、旦那さんと仲良しなんだねー」 カクテルの最後のひとすすりを、みみちゃんは大事そうに干した。もう一杯。おんなじの。 みみちゃんは手をあげて言う。 「そうだね」 わたしはうなずき、泡の消えてしまったビールのグラスをかたむけた。金色の面が、ななめ にかしみ、 「あのね、実はうち、ちょっと今、あぶないの。今の部屋、出てくかも」 みみちゃんが、さらりと言った。 「どうして」 「好きなひとが、できそう」 びつくりして、わたしはビールのコップを倒してしまった。みみちゃんは、半年前から恋人 と住みはじめた。結婚したくて結婚したくて、でもなかなか恋人が結婚を言いださないことに、 みみちゃんはじれていた。住みはじめたのは、もつのすごい前進。そう言って、大喜びしてい 174