菜野 - みる会図書館


検索対象: 猫を拾いに
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1. 猫を拾いに

と一一一一口った。 その日はじめて、あたしたちはすぐに電車に乗らないで、駅前でコーヒーを飲んだ。自動販 売機で、あたしは徴糖のを、上原菜野はミルクと砂糖がたくさん人ったのを、選んだ。コーヒ ーを飲みながら、上原菜野は二回カウンター機を押した。 「あのね、これ」 上原菜野は言った。 「気持ちが動いた時に、押すの」 ふうん、と、あたしは答えた。 「今は、どんなふうに気持ちが動いたの」 そう聞くと、上原菜野は少し考えてから、こう答えた。 「うれしい、と、おいしい そのころあたしは、ちょっとややこしい恋愛をしていた。 すっとっきあっていたハルオが、よその子を好きになって、別れたのはいいんだけれど、す二 ぐにまた戻ってきてしまった、という状態だったのだ。 ごめん、許してほしい、やりなおしたい。 ハルオは拝むようにして、頼んだ。

2. 猫を拾いに

女の子は言い、カウンター機を一回かち、と鳴らした。 「それ、何を数えてるの」 あたしが聞くと、女の子は小さく笑った。何を数えているかについては答えないまま、女の 子は反対に聞き返してきた。 「わたし、日文の二年生。あなたは」 「英文。二年生」 あたしたちは、なんとなくほほえみあった。ほとんど意味のないほほえみ。でも、それ以来 あたしたちは、授業が終わった後には、一緒に駅まで歩くようになった。 女の子の名前は、上原菜野といった。 「あなたは」 そう聞かれて、あたしは少しためらった。 「島島英世 , しまじまひでよ。上原菜野は、つぶやいた。 「へんな名前でしよ」 早ロで言うと、上原菜野は首をかしげ、 「でも、あたしの、違う色の両方の瞳よりは、へんじゃないよ なの 川 4

3. 猫を拾いに

あたしは、左手の機械に白い気持ち、右手の機械に黒い気持ちを担当させていることを、告 げた。上原菜野は、首をかしげた。 「島島さんは、真面目なんだね」 「えつ、どうして」 「気持ちを、ちゃんと分類しようとするなんて、真面目だよ」 「上原さんは、白黒わけないの」 「うん。だって、いい気持ちがほんとうはいやな気持ちだったり、反対に、いやな気持ちが、 後で考えると、楽しい気持ちとつながってたりするから、わたしは、自分の気持ちをちゃんと 分類するのが、めんどくさいって思っちゃうんだ 気持ちを分類するのって、めんどくさい 上原菜野の言葉に、あたしはちょっとショックを受けた。 「でも、わたしだってやつばり、島島さんと同じように、真面目なんだね。その証拠に、こう やって律儀に自分の気持ちを数えてるわけだし。なかなか母親の言うようには、不真面目にな れないよね、わたしたち世代は 上原菜野は、なぐさめともぼやきともっかないことを言い、カウンター機を、かち、かち、 かち、と押した。 「三回ぶんのカウントのうちわけ。かわいそう。でもわかる。ちょっとしょんぼり」 108

4. 猫を拾いに

「それ、何するもの。かち、かち、って、 いい音だね」 あたしと上原菜野は、しばらく顔を見合わせていた。 それから、同時に答えた。 「ただの、おまじない」 授業の始まりを告げる鐘が鳴った。あたしと上原菜野は、カウンター機をそれぞれのペンケ ースにしまった。それから、教科書とノートを、いそいでかばんから取り出し、午後いちばん の眠くてわかりにくい授業にそなえた。 111 ー - 真面目な二人

5. 猫を拾いに

なるほど。 あたしは思った。 気持ちは、分類できない。それなら、カウンター機を二つも持ってても、しようがないんだ あたしは片方のカウンター機を、机の奥深くにしまった。 ハルオとは、今も時々会う。映画を見たり、カラオケに行ったり、たまには手をつないだり する。 「やつばり、気持ちって、分類できないね」 あたしは上原菜野に言った。 「ねえ、島島さんー 「なあに」 「島島っていう名字、わたしとっても、好き」 そう言って、上原菜野はカウンター機を、かち、と鳴らした。 「うれしい あたしも答え、カウンター機を、かち、と鳴らした。 うしろの席から、顔見知りの中文の女の子が、聞いた。 よ。 1 10

6. 猫を拾いに

ち や な っ 、嫌 て 。や っ 。方 109 あ た の 気 持 は も う ほ ん と ば ば か ば か か ば か あ あ や ば ノ、 ル い や や い や ノ、 オ つ て よ う す る に 少 も て る か ら て す ぐ 気 ち な 男 て い う 気 持 ち で っ な が つ て い る て う 可 能 性 も で も も し か す と 上 原 菜 野 の う よ う に い や な じ の 気 が 実 は ノ、 ル 大 好 事 実 だ し し、 い や っ ば り い や な 感 じ 面 の 持 ち が ル オ と っ て . る 間 に 自 然 や て き ノ、 ノレ オ を お う と し て あ ん て い 気 気持考 を ど ん ノつ の ら て た の か な そ の 数 を あ た し は そ の 夜 も う 度 て み 五 対 十 八 原 菜 野 は 真面目な二人

7. 猫を拾いに

手は、黒い気持ち。ハルオがいくら訊ねても、何を数えているのかは教えてあげなかった。 その夜、カウンター機の数字をじいっと見ながら、あたしはしみじみ思った。 十八回も、いやな気持ちになったんだ。 あんまり黒い気持ちの方が多かったので、げんなりするよりも前に、しんとした感慨深い気 持ちになった。 「こりや、だめだ」 あたしは、声に出して言ってみた。 五対十八。その数字を見た瞬間に、すでにハルオとのつきあいはやめようと思っていたけれ ど、こうやって声に出してみると、そのことはもう確定的になったような気がした。 あたしは翌日、静かにハルオに言った。別れよ。 うん。ハルオは答えた。そして、さみしそうに、 こくりと頷いた。 カウンター機を持っているあたしを見て、上原菜野は目をまるくした。 「それって」 上原菜野は言った。 「うん。上原さんの真似して、あたしも数えてみることにしたの , 「でも、二つあるー 107 ーー - 真面目な二人

8. 猫を拾いに

1 も、 あたしは、ふられて、ものすごく傷ついていた。ようやく忘れかけていたところだった。で ハルオに拝まれて、あたしは嬉しくなってしまった。よりは戻った。 けれど、ものごとは、そううまくは運ばない。せつかくハルオとっきあっても、前とは何か が違ってしまっていた。好き。でも、もどかしい。だけど、好き。 恋愛の相談は、あたしは誰にもしない。 親しい友だちにもしないし、むろん知り合ったばかりの上原菜野にもしなかった。 だけど、結局あたしは、上原菜野に助けられることになる。 カウンター機方式を、あたしは試してみることにしたのである。 ハルオといる時に、どのくらい気持ちが動くか。それを、数えてみることにしたのだ。 びつくりした。 白、五。黒、十八。 。、、ハルオと過ごした五時間のあいだの結果だった。 白は、楽しい方に気持ちが動いた回数。 黒は、いやな感じ方面に気持ちが動いた回数。 あたしは、カウンター機を二つ用意したのだ。 左右の手に一つすっ握りこんで、かち、かち、と、押していった。左手は、白い気持ち。右 106

9. 猫を拾いに

どうして名前が嫌いになったのかと、いっか女の阿部さんに聞いたことがある。 「だって、名前って、なんとなく枷になるじゃない」 女の阿部さんは答えた。 「枷 ? 聞き返すと、女の阿部さんはうなずき、 「ほら、せりなだって、せりなっていう名前じゃなかったら、こういうべレー帽とかかぶらな かったと思う」 と言い、あたしがかぶっている抹茶色のべレーのポンポンをさわった。 「それ、名前と関係ないよ」 「ううん、きっと関係あるー せりなって、かわいつぼい名前じゃない。だからほら、せりながいつも着てるものだって、 とんがったハイヒールにしやらしやらした生地のワンピースとかスカートとかじゃなく、ぼて っていう感じなんだよ。女の阿部さ んとしたチュニックに細いジーンズ足もとはスニーカー んは説明した。 「名前のせいじゃなく、あたしがそういう服装が好きだからしてるだけだよ」 「いやいや、そういう服装が好きになったのも、そもそも野に咲く花っぽい響きの、せりなっ かせ ま ラッキーカラーは黄 227

10. 猫を拾いに

マガジンハウスの本 ざらざら 川上弘美 あいたいよ。あいたいよ。 一回、言ってみる。 それからもう一回。あいたいよ。 あたしはスープをたっふりとスフ。ーンにすくって、そろそろと口には こんだ。スープは熱くて、少しだけ泣けた。そのままあたしは我慢せ すに、泣きつづけた。ふられてから初めて流す、自分のための涙だっ た。ようやく、泣くことができたのだった。 愛しい風が吹き抜ける短篇小説集。「クウネル」の人気連載、第一弾。 パスタマシーンの幽壷、 川上弘美 どば。ばりばり。 どかんと恋に陥って、 あたしは、しわしわの黒豆みたいになる。 このパスタマシーンを使うのは、いったい誰 ? あたしの胸は、大き く一つ、どきんと打った。「小人じゃないの」というのが隆司のこた ・・・あたしはすぐさま、隆司を問いただしたのだ。 えだった。 料理は下手だけれど、そのかわりあたしはものすごく率直なのだ。 深々と心にしみる短篇小説集。「クウネル」の人気連載、第ニ弾。