と一一一一口った。 その日はじめて、あたしたちはすぐに電車に乗らないで、駅前でコーヒーを飲んだ。自動販 売機で、あたしは徴糖のを、上原菜野はミルクと砂糖がたくさん人ったのを、選んだ。コーヒ ーを飲みながら、上原菜野は二回カウンター機を押した。 「あのね、これ」 上原菜野は言った。 「気持ちが動いた時に、押すの」 ふうん、と、あたしは答えた。 「今は、どんなふうに気持ちが動いたの」 そう聞くと、上原菜野は少し考えてから、こう答えた。 「うれしい、と、おいしい そのころあたしは、ちょっとややこしい恋愛をしていた。 すっとっきあっていたハルオが、よその子を好きになって、別れたのはいいんだけれど、す二 ぐにまた戻ってきてしまった、という状態だったのだ。 ごめん、許してほしい、やりなおしたい。 ハルオは拝むようにして、頼んだ。
女の子は言い、カウンター機を一回かち、と鳴らした。 「それ、何を数えてるの」 あたしが聞くと、女の子は小さく笑った。何を数えているかについては答えないまま、女の 子は反対に聞き返してきた。 「わたし、日文の二年生。あなたは」 「英文。二年生」 あたしたちは、なんとなくほほえみあった。ほとんど意味のないほほえみ。でも、それ以来 あたしたちは、授業が終わった後には、一緒に駅まで歩くようになった。 女の子の名前は、上原菜野といった。 「あなたは」 そう聞かれて、あたしは少しためらった。 「島島英世 , しまじまひでよ。上原菜野は、つぶやいた。 「へんな名前でしよ」 早ロで言うと、上原菜野は首をかしげ、 「でも、あたしの、違う色の両方の瞳よりは、へんじゃないよ なの 川 4
あたしは、左手の機械に白い気持ち、右手の機械に黒い気持ちを担当させていることを、告 げた。上原菜野は、首をかしげた。 「島島さんは、真面目なんだね」 「えつ、どうして」 「気持ちを、ちゃんと分類しようとするなんて、真面目だよ」 「上原さんは、白黒わけないの」 「うん。だって、いい気持ちがほんとうはいやな気持ちだったり、反対に、いやな気持ちが、 後で考えると、楽しい気持ちとつながってたりするから、わたしは、自分の気持ちをちゃんと 分類するのが、めんどくさいって思っちゃうんだ 気持ちを分類するのって、めんどくさい 上原菜野の言葉に、あたしはちょっとショックを受けた。 「でも、わたしだってやつばり、島島さんと同じように、真面目なんだね。その証拠に、こう やって律儀に自分の気持ちを数えてるわけだし。なかなか母親の言うようには、不真面目にな れないよね、わたしたち世代は 上原菜野は、なぐさめともぼやきともっかないことを言い、カウンター機を、かち、かち、 かち、と押した。 「三回ぶんのカウントのうちわけ。かわいそう。でもわかる。ちょっとしょんぼり」 108
「それ、何するもの。かち、かち、って、 いい音だね」 あたしと上原菜野は、しばらく顔を見合わせていた。 それから、同時に答えた。 「ただの、おまじない」 授業の始まりを告げる鐘が鳴った。あたしと上原菜野は、カウンター機をそれぞれのペンケ ースにしまった。それから、教科書とノートを、いそいでかばんから取り出し、午後いちばん の眠くてわかりにくい授業にそなえた。 111 ー - 真面目な二人
なるほど。 あたしは思った。 気持ちは、分類できない。それなら、カウンター機を二つも持ってても、しようがないんだ あたしは片方のカウンター機を、机の奥深くにしまった。 ハルオとは、今も時々会う。映画を見たり、カラオケに行ったり、たまには手をつないだり する。 「やつばり、気持ちって、分類できないね」 あたしは上原菜野に言った。 「ねえ、島島さんー 「なあに」 「島島っていう名字、わたしとっても、好き」 そう言って、上原菜野はカウンター機を、かち、と鳴らした。 「うれしい あたしも答え、カウンター機を、かち、と鳴らした。 うしろの席から、顔見知りの中文の女の子が、聞いた。 よ。 1 10
ち や な っ 、嫌 て 。や っ 。方 109 あ た の 気 持 は も う ほ ん と ば ば か ば か か ば か あ あ や ば ノ、 ル い や や い や ノ、 オ つ て よ う す る に 少 も て る か ら て す ぐ 気 ち な 男 て い う 気 持 ち で っ な が つ て い る て う 可 能 性 も で も も し か す と 上 原 菜 野 の う よ う に い や な じ の 気 が 実 は ノ、 ル 大 好 事 実 だ し し、 い や っ ば り い や な 感 じ 面 の 持 ち が ル オ と っ て . る 間 に 自 然 や て き ノ、 ノレ オ を お う と し て あ ん て い 気 気持考 を ど ん ノつ の ら て た の か な そ の 数 を あ た し は そ の 夜 も う 度 て み 五 対 十 八 原 菜 野 は 真面目な二人
手は、黒い気持ち。ハルオがいくら訊ねても、何を数えているのかは教えてあげなかった。 その夜、カウンター機の数字をじいっと見ながら、あたしはしみじみ思った。 十八回も、いやな気持ちになったんだ。 あんまり黒い気持ちの方が多かったので、げんなりするよりも前に、しんとした感慨深い気 持ちになった。 「こりや、だめだ」 あたしは、声に出して言ってみた。 五対十八。その数字を見た瞬間に、すでにハルオとのつきあいはやめようと思っていたけれ ど、こうやって声に出してみると、そのことはもう確定的になったような気がした。 あたしは翌日、静かにハルオに言った。別れよ。 うん。ハルオは答えた。そして、さみしそうに、 こくりと頷いた。 カウンター機を持っているあたしを見て、上原菜野は目をまるくした。 「それって」 上原菜野は言った。 「うん。上原さんの真似して、あたしも数えてみることにしたの , 「でも、二つあるー 107 ーー - 真面目な二人
1 も、 あたしは、ふられて、ものすごく傷ついていた。ようやく忘れかけていたところだった。で ハルオに拝まれて、あたしは嬉しくなってしまった。よりは戻った。 けれど、ものごとは、そううまくは運ばない。せつかくハルオとっきあっても、前とは何か が違ってしまっていた。好き。でも、もどかしい。だけど、好き。 恋愛の相談は、あたしは誰にもしない。 親しい友だちにもしないし、むろん知り合ったばかりの上原菜野にもしなかった。 だけど、結局あたしは、上原菜野に助けられることになる。 カウンター機方式を、あたしは試してみることにしたのである。 ハルオといる時に、どのくらい気持ちが動くか。それを、数えてみることにしたのだ。 びつくりした。 白、五。黒、十八。 。、、ハルオと過ごした五時間のあいだの結果だった。 白は、楽しい方に気持ちが動いた回数。 黒は、いやな感じ方面に気持ちが動いた回数。 あたしは、カウンター機を二つ用意したのだ。 左右の手に一つすっ握りこんで、かち、かち、と、押していった。左手は、白い気持ち。右 106
どうして名前が嫌いになったのかと、いっか女の阿部さんに聞いたことがある。 「だって、名前って、なんとなく枷になるじゃない」 女の阿部さんは答えた。 「枷 ? 聞き返すと、女の阿部さんはうなずき、 「ほら、せりなだって、せりなっていう名前じゃなかったら、こういうべレー帽とかかぶらな かったと思う」 と言い、あたしがかぶっている抹茶色のべレーのポンポンをさわった。 「それ、名前と関係ないよ」 「ううん、きっと関係あるー せりなって、かわいつぼい名前じゃない。だからほら、せりながいつも着てるものだって、 とんがったハイヒールにしやらしやらした生地のワンピースとかスカートとかじゃなく、ぼて っていう感じなんだよ。女の阿部さ んとしたチュニックに細いジーンズ足もとはスニーカー んは説明した。 「名前のせいじゃなく、あたしがそういう服装が好きだからしてるだけだよ」 「いやいや、そういう服装が好きになったのも、そもそも野に咲く花っぽい響きの、せりなっ かせ ま ラッキーカラーは黄 227
マガジンハウスの本 ざらざら 川上弘美 あいたいよ。あいたいよ。 一回、言ってみる。 それからもう一回。あいたいよ。 あたしはスープをたっふりとスフ。ーンにすくって、そろそろと口には こんだ。スープは熱くて、少しだけ泣けた。そのままあたしは我慢せ すに、泣きつづけた。ふられてから初めて流す、自分のための涙だっ た。ようやく、泣くことができたのだった。 愛しい風が吹き抜ける短篇小説集。「クウネル」の人気連載、第一弾。 パスタマシーンの幽壷、 川上弘美 どば。ばりばり。 どかんと恋に陥って、 あたしは、しわしわの黒豆みたいになる。 このパスタマシーンを使うのは、いったい誰 ? あたしの胸は、大き く一つ、どきんと打った。「小人じゃないの」というのが隆司のこた ・・・あたしはすぐさま、隆司を問いただしたのだ。 えだった。 料理は下手だけれど、そのかわりあたしはものすごく率直なのだ。 深々と心にしみる短篇小説集。「クウネル」の人気連載、第ニ弾。