僕は肩をすくめた。二度と僕に会おうとしなかった女の子二人の顔を思い出そうとしたけれ ど、両方の目や鼻がまじりあってしまって、うまく思い出せなかった。 鎮守の森は、涼しい。どんなに暑い夏の盛りでも、まわりよりも三度は気温が低いように感 じられる。 あれ以来、僕はときおり円矣さんに女について教えを乞うようになった。 そうすると円矣さんは、小さい人たちの恋愛事情の話をしてくれる。 「円矣さんたちは、どんなふうに女とっきあうの」 「きみたちと、変わりはない と言われても、まだ女とちゃんとっきあったことのな ふうん、と、僕は思う。変わりない、 い僕には、そのあたりのことは、ちんふんかんふんだ。 「女って、何考えてるのか、僕にはぜんぜんわからないや」 「それは、私も同じだ。どんなに長く女と住んでみても、女の考えることは、謎なのである」 円矣さんは、ごく真面目くさった顔である。 「そういえば、、 さい人間なのに大きい女を好ぎになってしまった変わり者が、私たちの村に はいる」 思い出したように、円矣さんは言った。 144
去年からは光史の職場に近い小さなマンションに住んでいる。 やさしい人だね。 光史に会った友だちは、みんな言う。 たしかに光史は、やさしい でも、わたしたちはもう、半年もセックスをしていないのだ。 回数が少なくなってきたのは、今住んでいるマンションに引っ越してくる少し前からだった。 最初は、光史の仕事が忙しいからだと思っていた。出版社の営業職についている光史は、その 少し前に課長になったばかりだった。帰りも遅くなったし、休日出勤も多くなった。疲れた、 がロぐせになり、 前よりも冗談を言わなくなった。 「だから、こうやって一緒に住めるのが、ありがたい」 光史は言った。そうだよね。わたしも最初は、心からそう答えていた。 けれど、次第にわたしの中には、もやもやとした何かが、たまるようになっていった。 ( 今日も、しないのかな ) 間遠になってゆきはじめてから、何回わたしはくよくよと思ったことだろう。 日曜の夜が、いちばん、つらかった。平日は、明日があるから。上曜は、たまった一週間の 疲れをとらなきゃならないから。でも、土曜日と二日つづけて休めた日曜日は : あんまりつらいので、わたしはときどき、わざと日曜日の午後に出かけるようになった。み 176
丹二さんは硬い音をたてて、しば漬けを噛んだ。 「衣世さんのことは、きぬさん、だったね 丹二さんはつぶやいた。あのひとの言いかたとは違う、「きぬさん」。 もうあのひとの声は、かすかにしか覚えていない。ただ、こうやって、違う言いかた違う声 で同し呼ばれかたをした時にだけ、思い出す。 あのひとが、わたしと丹二さんの関係に気づいたのは、関係ができてからじきのことだった。 なじられて、すぐにわたしは謝った。それから、あのひとに、別れてほしいと頼んだ。 「弟とも、二度と会わないと約東するならー あのひとは言った。 わたしは約束を守った。その一年後に、あのひとが亡くなるまでは。 嵐の日に和歌山の海辺で高波にさらわれて、あのひとは亡くなった。釣りをしていたのだ。 「釣りで死ぬなんて、まったく」 お通夜の席で、あのひとのお父さんは、そんな軽ロめいた言いかたをして泣いた。お母さん は、わたしと絶対に目をあわせようとしなかった。 わたしと別れたせいで、あのひとが亡くなったというわけではない。そんなことで世をはか こころね なんで死ぬようなひとではなかった。顔はお雛さまだったけれど、あのひとの心根は、たいそ ーーーそうげ色で、つめたくて
「丹二さん」 驚きを表に出さないようにしようとして、棒読みのような言いかたになってしまった。 前の日に会ったばかりなのに、丹二さんは、ずいぶん久しぶりに会うような表情をしていた。 「弁当、買う ? 「うん 「そういえば、衣世は昔から駅弁が好きだったな」 衣世、という呼びかたに、わたしはかばんを取り落としそうになる。関係の続いていた少し の間だけ、丹二さんはわたしのことを、衣世さん、ではなく、衣世、と呼んだ。 「どうしたの 「送りにきた 「でもいつもは、こない 「今日は、きた - 丹二さんは、人場券を手に持っていた。立っているのもなんだから、と言いながら、新幹線 のホームに上がった。 「何時」 「あと十五分くらい 発車のベルと構内放送の音のせいで、ときおり丹二さんの言葉が聞こえなくなる。 39 ・一一そうげ色で、つめたくて
「こういう色に染められるなんて、思ってもみなかったわ。知らないことって、半世紀以上生 ぎてきても、たくさんあるものよねえ」 金子さんは、カフェの中を面白そうに見回した。 「へんな絵が、かざってある カメレオンだかイグアナだかオオトカゲだか、よくわからない爬虫類が、何匹もからまりあ ったような絵が、すぐ横の壁にかけてあった。金子さんに言われるまで、わたしは全然気がっ よ、つこ。 「お昼、食べた ? 」 金子さんは聞いた。日曜日の、よく晴れた午後である。いつもは「みみちゃんに会う」など という嘘を言って部屋を出てくるのだけれど、今日はほんとうに金子さんと会うために来たの 「まだです、 「そう思った。前田さん、お腹すいてるような顔してるから」 えつ、と、わたしは息をのんだ。確かに、朝から何も口にしていなかった。けれど金子さん のその言葉は、わたしのセックスレスを見破ってのことのように感じられた。 「まだランチの時間ですよね。ぎりぎり ごまかすように、わたしは早ロで言った。 179 ビーカン
という声が隣から聞こえてきて、あたしはびつくりした。あの女の子だった。まだいたのだ。 「そうなんだ」 あたしは慎重に答えた。 「母親が言ってた。で、学生も、どんどんさぼったんだって。あんたは真面目すぎるって、よ く言われる 「そうなんだ」 あたしはあいまいに繰り返した。女の子は、あたりまえのようにあたしの横に立って、これ から先もすっと一緒にいるのだというように、親しげにほほえんでいる。 ( どうしよう、このままついてきちゃったら ) けれど、女の子はあたしの予想に反して、すぐに、 「じゃ」 と言い、あたしに背を向け、すたすたと歩いていってしまった。 途中で、かち、というカウンター機を押す音が、またした。日ざしが強かった。新緑が、目 に痛いようだった。 次の週の同じ時間、あたしはまた教室で女の子に会った。 「あっ、こんにちは」 103 ーーー真面目な二人
「わたしは : 「かわいい」に級や段があるとしたら、少なくともかわいい八段くらいはある坂上にそう言わ れ、わたしはロごもった。 「圭司さんに、こんど、会わせてね」 坂上は言った。わたしはうなずいた。でも、心の中では、 ( 絶対に会わせない ) と思っていた。 圭司と、この前、旅行に行った。圭司の部屋に泊まったことはあったけれど、何日も一緒に いるのは初めてだったので、ちょっと緊張した。 静岡の、小さな宿に行った。何もない町だった。シャッターがたくさんおりている町の商店 街を、ぶらぶらと歩いた。 圭司は、茶舗でほうじ茶を買ってくれた。 「静岡だから、ま、茶だろう」 そんなふうに言いながら。 ずっと歩いてゆくと、商店街はとぎれ、そのうちに海の匂いがしてきた。 「泳げないね、冬だから」 ちやほ 168
ヒナは大樹の手をひつばって、洗面所に人っていった。ルッとあたしは、二人についてゆく。 「これ」 洗面所の鏡を、ヒナは指さした。鏡のはしつこに、何枚ものシールがはりつけてある。 イルカ。、、 ヒーチボール。サーフポード。カモメ。ココ椰子。 「海だね」 あたしが言うと、ヒナはうなすいた。 「そうだよ、ひなはうみのそばでうまれたの。だから ルツは、故郷の鹿児島でヒナをうんだのだ。でも、実家はいろいろうるさくて。またこっち 出てきた。しばらくぶりに会った時のルツの顔を、あたしは思い出す。まだ生後半年ほどだっ たヒナを抱っこひもに人れ、背中には大きなリュックをしよっていたルツ。 「ひなちゃんのうみのしーる」 大樹は言い、嬉しそうにシールをさわった。 ルツがヒナと最初から二人きりだとすれば、あたしは途中から大樹と二人きりになった。夫一 だったケンは、大樹が生まれた次の年に家を出ていった。ほかに好きな人ができたと言って。 「捨てられたよ , ケンが出ていってしばらくしてルツにそう連絡したら、ルツは少しの間黙っていた。そして、 うみのしる 189
「前田さんは、自分の恋人のこと、好き ? 」 金子さんは聞いた。空を見上げたまま。 「好きです。すごく、好き 言いながら、鼻の奥がつんとした。セックスをしないのが、いやなんじゃないんだ。わたし の気持ちが、光史の気持ちにはじかれるのが、いやなんだ。どうやって光史の気持ちにさわっ ていいんだかわからないのが、いやなんだ。 「好きなら、しようがないわねー 金子さんは言い、ふふ、と笑った。 「もうちょっと、じたばた、したら」 えつ、とわたしは声にならない声をあげた。金子さんには、ひとことも、具体的なことは言 っていないのに。 「わかるわよ、そのくらい。じたばたしてるんでしよ、今この現在」 いまこのげんざい、という言いかたに、わたしはちょっと笑った。笑った拍子に、涙がひと すじ、つうっと流れた。でも、右目からだけだった。 ああ、わたしはこんなに光史が好きなんだ。そのことを、今この現在まで、わたしは知らな かった。いや、今この現在まで、知らないふりをしていたんだ。 「金子さんのところは、セックスするとき、どういう始めかたをするんですかー 184
手は、黒い気持ち。ハルオがいくら訊ねても、何を数えているのかは教えてあげなかった。 その夜、カウンター機の数字をじいっと見ながら、あたしはしみじみ思った。 十八回も、いやな気持ちになったんだ。 あんまり黒い気持ちの方が多かったので、げんなりするよりも前に、しんとした感慨深い気 持ちになった。 「こりや、だめだ」 あたしは、声に出して言ってみた。 五対十八。その数字を見た瞬間に、すでにハルオとのつきあいはやめようと思っていたけれ ど、こうやって声に出してみると、そのことはもう確定的になったような気がした。 あたしは翌日、静かにハルオに言った。別れよ。 うん。ハルオは答えた。そして、さみしそうに、 こくりと頷いた。 カウンター機を持っているあたしを見て、上原菜野は目をまるくした。 「それって」 上原菜野は言った。 「うん。上原さんの真似して、あたしも数えてみることにしたの , 「でも、二つあるー 107 ーー - 真面目な二人