20 守られる ずに済むのです。 しかしこと男女に関して言えば、男女は対等であるという道を選んだ私達は、間違えた り悩んだりしながらも、その道を模索していくしかないのだと思います。真の平等にたど りつくのは不可能かもしれないしとても面倒臭そうだけれど、それを探し求めてうろうろ し続けることが、時計の針を元に戻さないための手段のような気がするから。 どちらかがどちらかに従わなくてはならない、という不文律が存在することが、私達に とっては気持ちが悪いのです。そして従わない自由が欲しい、と思う人がいるということ は、従う自由があっていいということでもある。 「私は〃主人…に従っていきます」 という主婦も、それはそれで生きる道。反対に、妻が″主人 , となって夫が従う、とい うカップルもいることでしよう。関係性の安定を求めて″主人プレイ。をするのもまた自 由であると同時に、主従関係をさしはさまずにヤジロべ工のように揺れ動くカップルの存 在も、また自由。様々なカップルや家族のあり方が認められるようになった時、日本人が 長年抱き続けてきた男尊女卑感覚から、自由になる時も来るのではないでしようか。 強いサムライを支え、守られつつ生きていくのは素敵な気はします。が、どちらかがど ちらかを一方的に「守る」ことが必要な時代は、おそらく不幸な時代。互いが互いを「助 2 3 5
17 高低 になるからです。 「結婚は、男のカネと女のカオの交換とは小倉千加子さんの名言ですが、カオ偏差値が の男は、カネを持っていればカオ偏差値がの女性とも結婚することができる。男性は し」い一つよ その時、妻と自分のカオ偏差値に以上の開きがあることをまるで気にしない、 りも、その差をむしろ誇りにすることができるのです。 釣り合いがとれているものですが、カオ偏差値が 夫婦のカオ偏差値というのはだいたい 同士のカップルだったりすると、何となく寂しい気持ちになるもの。さらにはこれが 同士であっても、頭が悪そうに見えてしまうのが不思議なところで、台同士のカップル だと、安心して「美男美女」と言われやすい そして最も祝福されやすいのは、カオ偏差値が「男の方がちょっと下 , というカップル なのです。夫はもっさりしていたり野獣のようなのに妻は美人、という二人は、「あんな 美人と結婚できたとは、きっと仕事ができる旦那さんなのだわ」とか、「自分は美人なの に見た目で相手を選ばない妻も偉い」などと言われる。カオ偏差値が川程度の差であると、 このように「微笑ましい夫婦」と捉えられがちです。 しかし夫のカオ偏差値が妻より二十以上も下だと、途端にカネの匂いが漂うようになる : といった凸凹が のでした。おまけに夫の方が十センチは背が低く、年齢は二十も高く : 2 0 1
19 女子 るようです。年末の一大行事は、男女が袂を分かって歌の優劣を競う「紅白歌合戦」。新 橋の居酒屋には男しかいないし、港区のイタリアンのランチタイムは女しかいない。そし てそれぞれが、「女房と飲んでもなー」とか「夫とここには来たくない」と、思っている。 何でも夫婦一緒に、という欧米のようなカップル文化が日本になくて本当によかった、と 思っている人が多いものです。 カップル文化が無いからこそ女子会はこれほど盛んであるわけですが、そもそも日本に は、男女別文化とでも言うべき土壌があります。儒教の影響というやつなのでしよう、席 を同じゅうしなかったり三歩下がったりと、男女はいつも離れて位置していた。男女が密 着するのは、生殖活動の時くらいと思われます。 ガイジンや帰国子女は、友達同士でもハグや挨拶のチューという行為をしますが、在国 日本人にとっては、あの手の行為はどうも苦手。密着していいのは性愛の対象だけ、とい う感覚があるので、大人になってからは親子間のハグも行われなくなるのです。 そもそも、我が国で男女が席を同じゅうするようになったのは、 前にも記しましたが、 第二次大戦後。それまで共学は基本的に禁止でした。女性が男性並みの権利を得たのも同 じ時ですから、日本はまだ七十年ほどしか、男女が肩を並べて生きるという歴史を持って いません。何かというとすぐ女子だけ / 男子だけで固まりがちなのは、先祖からの習い性 たもと
14 戦争 せたわけですが、敗戦から七十余年経った今も、感覚のズレはまだ埋ま 0 ていないのです。 と言うより、感覚の差はどんどん広が 0 ているのかもしれず、そんな感覚差カップルの結 婚がどのような展開を生むのか、ちょっと覗いてみたい気もするのでした。 のぞ
ることによって、女も高い教育を受けたり、高キャリアや高収入を得られるようになって きたのです。 男性の意識も、変わってきたのでしよう。三高の条件の一つである身長が、女の方が男 よりも高いカップルは、昔より増えています。それも女が猫背になることもなく、むしろ ヒールをはいて高身長をアピールし、小男を堂々と連れ歩いているのです。そして学歴や 収入が女高男低というカップルも、全く珍しくない。 とはいえ、皆が皆、「女高男低、しし 、んじゃないですか ? 」と思っているわけではあり ません。「やつばり、女低男高の方が、何だかんだいってしつくりくる、という気分の人 は依然、多いのです。「女高男低でもいいですよ」という人はいても、「女高男低でなくち や絶対に嫌だ」という人は、男女を問わず少ないのではないか。 東大出身女性がモテの現場で苦労するというのも、その一現象でしよう。 「東大女子 ? 稼ぎそうー と大喜びで寄ってくる男性は、おそらく詐欺師の方が多い。 「東大在学中に知り合った東大生とそのまま結婚するか、ハ ーバードみたいな海外の大学 出の人と結婚するか。もしくは恋愛面での色々な辛酸を嘗めた後、偏差値という物差しの 外で生きてきたような人と、思いっきり女高男低婚をする人もいますね。もう、学歴もキ 1 9 6
酒井順子の本 中年だって生きている 中年ではあるが、「おばさん」ではない。 実は心中そう思っている、バブル世代の女たち。 美人だった同級生。数十年後に会ったら、 士絶に老けていたり激太りしていたり。 その姿に、ほくそえんでいませんか ? ( 「花の色はし、 カップルに見えていると思っているのは自分だけ。 年下男との同席は、母と息子に見えていることに 気づいていますか ? ( 「寵愛」 ) ほか、 自分のことかもしれない章。 同世代の女性読者の共感を得続けて余年の著者が贈る、 中年以上初老未満女性、必読ェッセイ。 集英社刊
1 小さな女子マネ たりする。 ある社会集団の中に上下関係があると、上下の結びつきよりも、同じ階級での結びつき の方が強くなるものです。日本においてカップル文化がどうにも薄っぺらで、それよりも 同性文化の方が強力なのは、夫婦関係Ⅱ上下関係という歴史が長かったから、という気が してなりません。 そして従来は、同じ階級ということで女性同士はどのような場でも仲良しのはずだった いかん のが、職業や婚姻の状況、子持ちか否かといった状況如何によって、女性の中にも格差が 生じ、女性同士の仲も一枚岩ではなくなってきました。 しかし「女は女同士」という感覚が、被差別者同士の紐帯なのだとしたら、それはいず れ、解けてゆくべきものなのかも。同性主義が少しずつ崩壊するとともに、日本も変わっ ていくような気がします。 ほど 0 2 9
きな原因なのではないかと私は思います。主婦の友人と話していると、夫とセックスをし ている人などまずいない。 「出産以来、何も通過していない」 といった話が珍しくありません。 若者達の話を聞いても、 「男の子が部屋に泊まりに来ても、特に何もない」 「男友達に旅行に誘われたので、いよいよかと期待して行ったら、一緒の部屋に泊まった のに朝まで熟睡しただけだった」 といった話が頻出。 欧米では、カップルとセックスは切り離せない関係にあるらしく、「セックスがなくな という気持 ったら、離婚する」という感覚なのだそう。きっと女性も男性も、「したい ちは素直に相手に伝えているのでしよう。 しかし日本の夫婦関係において、女性が性欲を相手に伝えるのは禁じ手のようです。女 性誌のセックスレス特集の体験談でよくあるのは、女性から迫っていくと、 「疲れてるんだ、勘弁してくれよ」 と拒否されるというもの。中には、 1 3 6
10 レディ・ファースト レディ・ファースト問題というものについては、いつも頭を悩まされます。洒落たレス トランにおいてカップルで来ているお客さんを見ていると、日本人は九割がた、男が先を く、というパターン。女性が遅れて のしのしと歩き、女が後ろからちょこまかとついてい しまっても、男性は我関せずで、どんどん進み、先にコートを着たりしている。 傍から見ていると、その姿はどうにもみつともないのです。レストランの通路というの はいわばランウェイ的な役割を果たしてもいるわけですが、そのランウェイを「俺の方が 偉い。俺が金を払った」とアピールしながら、男性が歩いているように見えるのですから。 それはレストランだから、という事情もあるのかもしれません。料亭の廊下だったら、 男性が先に歩く方が様になる場合も。しかしイタリアンやフレンチのレストランにおいて 「男が先」は、やはり変なのです。 郷に入っては郷に : : : ということなのであれば、皆が音を立てずにスープを飲もうとす レ一アイ・ファースト
と思うことによって「出世できない」という屈辱に耐えていたりするものです。 同じように表面的に常に「下」でいなくてはならない女性達も、外で男性からどれほど 愚妻扱いされようと、 「本当に強いのは私で、本当に実権を握っているのは私」 と一人っぷやくことによって、悔しさや屈辱を乗り越えてきたのではないか。 とはいえ、九州でずっと生まれ育った人からしたら、このような推測は「は ? 」という 感じなのでしよう。九州では、男女の関係において、ある種の「型」のような安定がある のです。家の中のことは妻が取り仕切り、対外的な部分は男の領域。博多祇園山笠は男だ : というのは単なる「決まり」であって、上だの下 けの祭り。女は男の前を歩かない。 だのといった話ではない。「車は左、人は右」というのと同じで「男は上座、女は下座」 なのだ、と。 そういえば九州のとあるお店に入った時、東京であればカップルは女性が奥に座るのが 一般的ですが、ずらりと男性が奥に座っていて、驚いたことがありましたつけ。それもま た「そういうもの」と決まっているのであり、交通法規に従うように男性が奥に座ってい るのかもしれず、それを「男尊女卑」「差別 , と言われると「ちょっと違うんだけどな と思うのかもしれない。 0 4 6