17 高低 になるからです。 「結婚は、男のカネと女のカオの交換とは小倉千加子さんの名言ですが、カオ偏差値が の男は、カネを持っていればカオ偏差値がの女性とも結婚することができる。男性は し」い一つよ その時、妻と自分のカオ偏差値に以上の開きがあることをまるで気にしない、 りも、その差をむしろ誇りにすることができるのです。 釣り合いがとれているものですが、カオ偏差値が 夫婦のカオ偏差値というのはだいたい 同士のカップルだったりすると、何となく寂しい気持ちになるもの。さらにはこれが 同士であっても、頭が悪そうに見えてしまうのが不思議なところで、台同士のカップル だと、安心して「美男美女」と言われやすい そして最も祝福されやすいのは、カオ偏差値が「男の方がちょっと下 , というカップル なのです。夫はもっさりしていたり野獣のようなのに妻は美人、という二人は、「あんな 美人と結婚できたとは、きっと仕事ができる旦那さんなのだわ」とか、「自分は美人なの に見た目で相手を選ばない妻も偉い」などと言われる。カオ偏差値が川程度の差であると、 このように「微笑ましい夫婦」と捉えられがちです。 しかし夫のカオ偏差値が妻より二十以上も下だと、途端にカネの匂いが漂うようになる : といった凸凹が のでした。おまけに夫の方が十センチは背が低く、年齢は二十も高く : 2 0 1
10 レディ・ファースト 海外でも、男性が先に立って歩き、女性が後からついていく、という日本人旅行者を見 かけますが、やはり欧米だとそれが目立つものです。年配のご夫婦では、妻に荷物を持た せたり、乗り物で自分は座って妻を立たせたりする男性すらいて、周囲からあからさまに 仰天されていても、気づかない様子。 男が前を歩くという日本文化は、男が先に立っことによって、待ち受ける危険から女性 を守る、という意味合いもあるのかもしれません。しかしその手の日本人男性は、単に自 分が歩きたいように歩いているようにしか見えないわけで、妻のペースを気にかけるとい う頭は無い。連れの女性がどんなに後ろに離れてしまっても気づかず、信号待ちでやっと 女性が追いつくようなことも。治安の悪い国では、途中で妻がさらわれたとしても、夫は わからないのではないか。 レディ・ファーストが絶対的に正しい、というわけでもないのだと思います。欧米では、 レディ・ファーストに疲れ果て、「なぜ常にレディをファーストにしなくてはならんのだ」 と疑間を抱く男性もいる模様。 ただ、体力的にも体格的にも男性の方が女性よりも勝っていることを考えると、男が前 を歩いていたら、両者の間がどんどん開くのは自明。女性を前に立たせた方が、体力的に 強い男性が女性を気遣うことができましよう。
目立っ二人の場合は、「すべての高低差をカネが埋めたのだな」ということが明らかすぎ て、どこを見ていいかわからないような状態に。 だからカオ偏差値の高い女は得だ、という話もありますが、カオ偏差値において女低男 高というカップルもまた、いるのです。夫はかなりのイケメン、しかし妻は : : : という夫 婦の妻が大変な事業家で、夫は「カネも力もなかりけり」タイプ、ということもあるもの の、中にはそういったカネの匂いが漂わない場合も。そのようなケースではたいてい、妻 の気立てがすごーくよかったりして、男性は「お目が高い」などと言われる。 やつばり女は優しさが大切なのね。 : などと思いつつも、それでも容姿の「女低男 高」という状態に、そこはかとない落ち着きの悪さを感じてしまう私。それはひとえに、 私の中に「女は容姿が良くてなんぼ」「男は仕事ができてなんぼ」という昔ながらの固定 観念があるからなのでしよう。結婚が女のカオと男のカネの交換であるならば、女は男よ りも容姿レベルが高くあるべきで、男は女よりも経済レベルが高くあるべきだ、と。 うつみけいこ 無職の夫を堂々と妻が養っていたり、また内海桂子師匠のように二十四歳下の男性と結 婚したりする女性を見ると、「すごい ! 」と、そして「私には無理だ ! 」と思う私。きっ 不は、いくら無職の夫が家事を全てやってくれても「とはいえ仕事をしていてほしいわ と思うでしようし、うんと年下の夫がどれほど若い魅力にあふれていても「自分の老 2 0 2
14 戦争 少し前までは、おじいさんがひどい態度でおばあさんに接する姿を、電車の中などで見 たものです。 「何をノロノロしているんだ、本当にお前はバカなんだから」 などとおじいさんがおばあさんのことを罵倒したり、電車でも当然のようにおじいさん が先に座る、とい一つよ一つな。 その手の老夫婦は、おそらく二人とも戦前の人。「ひたすら怒る夫、ひたすら耐える妻」 という、ある意味で安定した型が出来上がっていたのです。 対して我が家は、戦争を知る夫と知らない妻であったため、そこに齟齬が生じました。 「俺の言うことはすべて正しいのだ」 と夫がえばっていて、途中まで妻は従っていたかと思いきや、 「従えるかつつ 1 の」 と、突然出奔したのですから。 もちろん、それは両親の世代の違いのせいだけではありますまい。どの世代として生ま れても父は偏屈で母は奔放だったのかもしれませんが、我が家の家庭不和の遠因は「戦 争」ということになれば、そこに育った子供としては、少し納得がいくものなのです。 その後、すったもんだがあって結局両親は離婚をしませんでした。が、そんな家庭に育
おわりに 「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」 という考えに賛成か反対か、という調査を、内閣府が行っています。「女性の活躍推進 に関する世論調査」の中の一つが、この質問 一九七九 ( 昭和五十四 ) 年の時点では、男女ともに七割を超える人が、この考え方に「賛 成 , でした。夫は外で妻は内、というのが当時の夫婦の、一般的なあり方だったのです。 その後、「賛成」の人は徐々に減っていきます。外で働く女性が増えるにつれ、「妻は家 庭を守るべき」という考え方は、古いものになっていった模様。 1 センテー とはいえ「賛成 , の減少ペースには、男女差があります。女性の「賛成」 ジが急激に下がっていったのに対して、男性の方は緩やか。すなわち、女性は「外で働き 家庭を守るだけじゃ嫌」と思うようになっていったのに対して、男性側は「やつば り、奥さんには家庭を守っていてほしい」という気持ちを捨てきれなかったのでしよう。 おわりに 2 3 7
方だ、と。″意識高い系 , の妻達は、 「うちの嫁が」 しゅうとめ と夫や姑に言われると、カチンときているのです。 私も、「そうか」と思って、誰かが結婚した時には「お嫁さん」と言わずに「奥さん」 と言ってみたりするのですが、「奥さん」というのもまた、「女というのは家の奥に引っ込 んでいるべきもの」という感覚から来た言葉なわけで、「嫁」とどっこいどっこい。とは いえ他人の妻を「あなたの妻は」と言うわけにもいかないしなあ : 市川房枝のお兄さんも、結婚後は急に、 「とし、お茶を持って来い」 となってしまったわけで、つまり昔、「嫁」は " セックスつき奴隷〃であったわけです。 夫や妻に関しては、そんな歴史の因習を背負っていない呼び名を探すのが難しい国に、私 達は生まれたということなのでしよう。 そして私もまた、「『主人』なんて絶対呼ばない ! 」などとプリプリ考えている割に、そ の手の因習にとらわれる男尊女子であるということに気づくのは、法事の時です。私は 「嫁」ではないので、自分が生まれた家関係の法事にのみ出席するわけですが、そこでハ タと気づいたのは、親戚の男性の妻達、つまりは「嫁」達の名前を私が全く覚えていない、 0 8 4
1 6 服従 げる、といったことも特に罪悪視はされておらず、 「妻というのは、本当は夫に殴ってほしいと思っているのですね」 「ぶたずにいると、『どうしてぶってくださらないの』と妻に言われる。ぶつことが、愛 情だと思っているのです、 といった戦後すぐの男性の発言も、読んだことがあります。 時は流れ、今では夫婦間の暴力は「 Q> 」と言われ、一度でもそのようなことがあった ら、即離婚となってもおかしくなくなりました。夫に殴られた友人がかっていたのですが、 その時は彼女がとんでもなく非文明的な男性と結婚してしまったように思われ、皆がその 夫婦のことを腫れ物に触るように扱っていたものでしたつけ。 三島が「夫は妻を殴って当然」という時代の人だからこそ、「女は本能的に男こ従、 いと思っている」といった発言をしたのだろう、と私は思いました。が、次の瞬間にふと よぎったのは、「本当にそうなのか ? 」という思い。それが本能的かどうかは横に置くと して、「三島の時代よりも進んだ時代に生きている進んだ女」と信じている私の中に、「男 に従したい」という欲求は全く無いのか、としばし考えさせられたのです。 男に伍して、というよりは男を指導したり統率したりして働く立場にある女性達と、 「男性からたまに軽く扱われると、グッとくる時がある」という話になったことがありま 1 8 3
6 主人 「只言葉の上だけといえばそれ迄かも知れませんが、言葉は思想を表現するものです。夫妻 の呼称が対等にならぬ間は、妻は現在の地位を引上げる事は出来ないのではないでしようか」 と、房枝は書くのでした。 日本の女性の法律的立場が激変するまで、あと二十年近くかかることを、この時の房枝 は、わかっていたかどうか。いずれにせよ、我々は今、選挙の時は当たり前のように投票 することができるけれど、それは当たり前ではなかったということなのですねえ。 そして今、妻は夫に当たり前のようにタメロをきいていますし、結婚前と後で男性の言 葉遣いが激変することもありません。が、それもまた「当たり前」ではなかったのです。 夫に敬語で話す妻は絶滅状態となってはきましたが、しかしそんな中でも女性の中には、 「夫が上で自分は下」という感覚が存在し続けることを物語る、男尊女子的な言葉遣いを している人が少なくありません。その言葉は他でもない、夫に対する「主人」という呼称。 「うちの主人がね : : : 」 「ご主人様、お元気 ? 」 などと言う既婚女性は多いもの。 「主人」とは読んで字のごとく、「あるじ」という意味の言葉。ですから「私は夫に従属 などしていない」と任じる人は、この言葉を嫌うケースが多い。「主人」を連発する女性 0 7 9
5 言葉の女装 女一一 = 〔葉の違いがあるのみでなく、夫は妻を「おい、「お前」と下僕扱いなのに対して、妻 は夫に敬語を使うという高低差もあった。 そんな習慣が今でもフリーズドライされているのは、「サザ工さん」の中です。 「あらお父さん、お出かけですか」 と、フネさんは波平さんに敬語を使用しているのです。 が、娘のサザ工さんは、夫婦がタメロで話す世代。サザ工さんは、 「あらマスオさん、出かけるの ? 」 と言うのです。 妻が夫に敬語で話す夫婦は、その後絶滅状態に。今や八十代以上でないと、敬語夫婦は いないかもしれません。母親が父親に敬語を使用していたとしても、その娘は夫にタメロ を使うようになるのです。 しかしサザ工さんとマスオさんもまだ、完全に現代風とは言えない言葉遣いをしていま す。サザ工さんは「あなた」とか「マスオさん」と敬称付きで呼ぶのに対して、マスオさ わず んは「サザェ」と呼び捨て。波平夫婦よりも少ないけれど、そこには僅かな「女が下」の 感覚がある。夫を「あなた」と呼ぶ人も、もういませんね。 そしてサザ工さんは、「だよね」とか「だね」とは言いません。カツォくんに対しては 0 6 9
育のせいなのか、耐える力を継続的には発揮できない。そして「私ってかわいそう」「一 生耐え続けるなんて無理」という思いが募ったのでしよう、彼女は婚外恋愛をすることに よって、夫に反発したのです。 かんつう 戦前は姦通罪というものがあって、婚外セックスをした女性は法的に罰せられたわけで すが ( 男性は ) 、戦後は廃止に。若妻の婚外セックスを描いた三島由紀夫の「美徳の よろめき - が一九五七 ( 昭和三十一 l) 年にはベストセラーとなり、「よろめき夫人」とい う言葉が流行りました。婚外恋愛が法的な罪ではなくなり、戦後の混乱がひとまず収束し てきたからこそ、女性達はよろめいたのです。 我が母の「よろめき」事件は、よろめきプームよりはうんと後、そして「金妻」プーム の直前に発生しました。ちなみに「金妻」とは、一九八三 ( 昭和五十八 ) 年から放送され、 大いに話題になった「金曜日の妻たちへ、というドラマ。東急田園都市線沿線に住む夫婦 達の群像劇で、世の主婦達の不倫欲求を刺激しました。 母親の「よろめき」に対して、当時中学生だった私は、「ま、そんなこともあるでしょ うよ」程度の感想しか抱かなかったのですが、しかし大人になった今なら、わかる。父が 母に理不尽な態度で接したのも、そして母がよろめいたのも、その根っこは戦争につなが っているのではないか、と。