私は慎司の頭を手で押さえた。「こいつはまだ見習いでね。アルバイトなんだ」 「なんだ。ど、つりで若いと思った。ああ、昨夜なら、人が来てたよ。二人じゃなくて、 ーティをやってたからね もっと大勢。 「みなさん普通の客ですか ? あなたと個人的な約束があって来た人はいませんでし たか ? 」 「約束 ? ああ、約束ね。ありましたよ。絵を持ち込んでくることになってたんだ」 遇黄ばんだ壁を見上げて、「ここに絵をかけるんですよ。このインテリアに調和する ような作品をね。友達の友達のまた友達って感じのやつで、びったりのを描いてるの 遭 がいたから、持ってきてもらうことになってたんだ。喜んでてさ。自分の作品を展示 章 第できるんだからね。ましてここは、これから新進芸術家の溜り場になる店だしね」 「それが若い男の二人組ですか ? 」 「うん。でも、二人で描いてるわけじゃないよ。一人一点ずつ持ってくることになっ てたんだ。それが昨夜はあんな天気だろ ? 大事な絵に万が一のことがあっちゃいけ ないから、無理しないでいいって言ってやったんだけど、二人ともどうしてもパーテ イが終わるまでに持ってくるって言ってきかなかったんだ。昨夜のパーティには、ポ ップアートの方じゃちょっと名の知れた評論家が顔を出してたからだろうな。あんた
「じゃ、タネあかしをしましようか」いささか挑戦的な口調だった。「あいつのやっ たこと、全部合理的に説明がつくんですから」 私は彼を待たせておいて、メモとペンを取りに行った。すべて書き出して、どんな 糸かいことでも見逃さないつもりでいた。実際、思いがけない展開だったから。 「ます、マンホールの件ですけど」と、直也は始めた。「これは簡単ですよ。要する に、廩司は偶然見てたんです。赤いポルシェに乗った二人組がマンホールの蓋を開け 紋るところをね。二人の服装も、車のナンバーだって全部見てた。あなたに話すときは、 それらしく聞こえるように『川崎ナンバーだった』って言っただけで。その方が本当 波 らしいからね。もちろん、二人が『ハイアライ』ってところに行くんだってことも、 章 第聞いてたから知ってたんです」 とが 「見てたんなら、なぜその場で咎めなかったのかな」 「これほど大事になると思わなかったからですよ。しかも、相手は自分よりもでかい 男の二人組だ。普通、見て見ぬふりをしちゃうんじゃありませんか。あいつ一人のカ じゃ、とてもじゃないけど蓋を元どおりにすることなんかできないし」 私は頷いた。「それで ? 「二人が行ってしまったあと、慎司はあのひどい天気のなかでウロウロしてて、今度 159 ちょうせん
「気に入りました ? 「うん 「うれしいな。自分でも好きな作品だから 「おまえは自分の描くものはみんな好きなんじゃないか」垣田俊平がまぜかえした。 「そうだよ。そうでなきや描けないさ」 慎司がじっと私を見つめている。気づかないふりをした。 遇「君ら、二人とも大学生 ? 「ええ、そ、つですよー 遭 「芸大かな」 章 第「違います」一一人とも照れ臭そうに笑う。 「とてもとても」 「敷居が高くて」 「門前払いでした」 「二人とも教養学部にいるんです。マスコミ関係になんか絶対採用してもらえないマ イナーな大学ですよー 「昔からの友達 ? 」 113
「そうか」 「だけど、それと、スキャンで『サエコ』って名前が出てきたこととは関係ない 法廷では通用しない理屈だろう。 「フロント係の人のことだって、説明できるよ。そうだよ、あの夜、ウェイトレスさ んが遊びに来て、二人でカウンターをはさんで色々おしゃべりしてたんだろうさ。で 紋も、僕はそれを聞いてはいない。絶対 ! 僕は、フロント係が一人でいるところへ、 濡れた服を乾かしてもらうために降りていったとき、カウンターに触って、そこから 波 二人のやりとりを読んだんだもの ! だからーー」 章 に「わかった」 「わかってないよ、聞いて 、 ) 0 レいーーし 涓舌するだけだからな。ひとつだけ、肝、いな 「わかったよ。細かいことはもうしし ことを教えてくれ」 廩司は気色ばんだ。「なんですか ? 「織田直也は、どうしてわざわざそんな手間をかけて、俺が君に騙されてると言いに きたんだろうな ?
翌日遅刻したわけだ。 ほお 「高坂さん、帰ってこなかったから、佳菜子は両手で頬を押さえた。「ああ、これは 女の人のとこに泊まっちゃったんだなあと思って、それであたしも帰ったの。言っと くけど、泣きながら帰ったんだぞ 料理が運ばれてきたので、佳菜子は身体をテープルから離した。ウェイターが行っ 去てしまうと、「ごめんね」と言った。 「ご飯食べながらできる話じゃないけど、こういうふうにしないと、二人きりで話す 過 チャンスなんて、もう来ないと思ったんだ。あたしのこと、飲みに連れてってくれる 章 第ことなんか、も、つないでしょ ? 」 これまでも、二人きりで出かけたことは一度もなかった。いつもほかに誰かいた。 佳菜子の様子がどうも妙だなと思い始めてからは、そういうこと自体がめつきり減っ ている。 「自分で播いたタネだねーと、佳菜子は薄く笑った。 しか 「あの夜うちに帰ったらね、お姉ちゃんが起きてて、『あんた大馬鹿ね』って叱られ どうしてもその人のこと好きなら、も ちゃった。『一人相撲とってるだけじゃない。、 319 からだ おおばか
かもしれない。 彼ならなんでもできた。まさにオールマイティに。七恵の力になってやることが もし本当にサイキックだったなら。 だが、彼はそれを多くの人に知られることを望んでいない。だから、七恵のことを 気にかけながらも、ここを引き払っていったのだ。 稲村慎司はこのことを知っていたのだろうかーーーと考えた。もしも七恵の存在を知 っていたのなら、彼の行動ももう少し違っていたかもしれない。彳 皮も彼なりに直也を たす 救けようとして、二人いっしょに突破口を開こうとしているのだけれど、根本的なと 予 ころで二人の意見が食い違っていたのは、織田直也には三村七恵がいたからではない 章 第のか : かさ そのとき、第二日ノ出荘の出入口に、赤い傘の花が咲いた。 傘が傾くと、七恵の顔が見えた。ちょっと辺りを見回してから、歩きだす。私は身 を起こしてじっと様子を窺っていたのだが、次第に凝り固まったようになってしまっ 彼女はまっすぐこの駐車場にやってくる。 赤い傘が近づいてきた。雨で気温が下がったせいだろう、薄手のプルゾンから、ニ 353 、つかカ
第六章事件 521 「自宅で連絡がっかなかったんで、連中、あわてたんだ。それで俺にお鉢が回ってき た。そこの場所を教えたから、おつつけ刑事が行くはずだ」 「なぜ俺を ? 」 ゅうべ 生駒は大きく息を吸いこんだ。「昨夜遅く、川崎小枝子が何者かに拉致された」 今度は驚きが外に現われたのか、七恵がしゃんと座りなおした。 「俺が知っているのは、今のところそれだけだ。彼女が拉致された。で、警察はおま えを探してる。どっちに転んでも愉央な用じゃあるまい。頭をしやっきりさせて待っ てろ」 生駒が言ったとき、アパートの入り口にノックの音が響いた 刑事は二人、申し合わせたようにグレイの背広を着込んでいた。一人がしゃべり、 一人が観察し、二人で退路を塞いでいた。 説明は簡潔で要を得ていた。小枝子は昨夜十一時半ごろに自宅近くの路上から拉致 : 人とおばしき人物から最初の電話があり、ー され、それきり行方がわからなし 明男が一一〇番通報をしたのが午前一時三十五分ごろのことだった。 「我々はあんたのお迎え部隊だ」と、刑事は言った。「これから川崎家へ行ってくれ。 ふさ さえこ はち
また偽装タクシーで近づき、わざと店の裏手の方から行ったので、正面に停まる前 に、専用駐車場をぐるりと半周することになった。停められている車は三台。そのう ちの一台は明らかに改造車だ。 「ゆっくり降りるんですよ」車の前後を確認してから、運転手役の刑事が言った。 「うしろを振り返らないこと。店内には先発した捕捉班が何人か詰めています。彼ら を目で探さないこと。あとは指示にしたがってください」 この時刻だというのに、店内には客がばらばらといた。席を決めるような素振りで、 まどぎわ 眠素早く見渡した。窓際のひと組みは、あの改造車に乗ってきたらしい、崩れた服装の はティーンエイジャーたちだった。あとは中央の二人がけの席にアベックがひと組み。 龍端のポックス席では中年の男が一人、新聞を広げている。手前のカウンターには若い 男が二人、それぞれ面白くなさそうな顔でコーヒーをすすっている。そのうちの一人 が、私と同じように、左耳にコードレスのイヤホンをつけていた。 カウンターに肘をついて頭をもたせかけ、巧みにそれを隠すような姿勢をとってい る。その気で探さなければわからないだろう。 ( すぐ洗面所には行かないように ) と指示されていた。 ( できるだけ引き伸ばして行 動してください。犯人が、本当にあなたがやってくるかどうか確かめるために、どこ
古くからの友人だったのだ。 ( やつばり何か縁があったのね ) と小枝子は喜んだし、私にしても一一一一口うことはなかっ た。これがあとで裏目に出るなんて、知る由もなかったから。 当時、私は八王子支局に移って二年目だったのだが、異動がかかったときから、本 社の社会部のデスクの一人に、二年たてば必ず俺の下へ引っ張ってやるという約束を もらっていた。警察回り時代の上司で、どういうわけかウマが合い、私を見込んでく るれていた人だったし、言ったことは実行できるだけの力も持っている人物だった。 眠本社の社会部といえば、事件記者を目指している人間にとっては夢のポジションだ。 しかなくても、そこへ通じる道がはっきり開けたという はデスクの思惑通り二年でとは、 龍ことで、私は有頂天になっていた。 不満も不安も、まったくなかった。なにひとつ。 それがひっくり返ったのは、挙式の一カ月前のことだった。理由は簡単。健康診断 で、私にはどう頑張っても子供をつくることができないとーーその能力が欠けている とわかったからだった。 「だからどうしたってんだ、え ? と、生駒は怒鳴ったものだ。 おれ
自分の力をこんなふうに使うのは初めてなんだから。そしたら赤のポルシェが見えて、 二人の男が笑いながら蓋を動かしてるのが見えた。笑いながら。だから放っておけな いんだ」 ( ときどき人は致命的に無責任になる。悪意があってやったことならまだいいが ) 「お願いですー ほとんど懇願だった。 遇「お願いします。信じてくれなくてもいい。手を貸して。警察なんかへ行ったって何 にもならないことは、あなたがいちばんよく知ってるはずです。警察は組織なんだ。 遭 一人二人は珍しがって聞いてくれても、組織は僕の言葉なんかじや動いてくれない 章 第僕は追い返されるか、せいぜい病院に連れていかれるのが関の山です。あなただから、 あなたを信用できると思ったから頼んでるんだ」 かたく 自分のなかで何かが動くのがわかったが、私はそれを無視した。頑なに。 廩司は片手で額を押さえ、わずかに身体を屈めて、絞りだすように言った。 「彼らは笑ってた。水をーーきれいに流してしまうんだって。新品の車のエンジンに ハイアライ 水がかぶったらことだから。ぐずぐずしてられない、今夜中にはハイ 7 に行かなきゃならない。約東なんだから。だから急いで近道をーーー」 かが