ほば三年前ですが、真夜中の喀血がことの始まりでした。 新しい出来事が起きたのですから、ぼくも人並みに興奮し、もちろん多少は 驚いてもいました。 論 生 人 べッドから起き上がって ( 後になってはじめて、寝ていなければいけないの の 力だと知ったのですが ) 、窓辺に行ってもたれたり、洗面台のところに行ったり、 名部屋中を歩き回り、べッドの上にすわってみました。 絶血はさつばり止まりません。 でも、ぼくはぜんぜん悲しんでいませんでした。 というのも、ずっと不眠が続いていましたが、喀血が止まりさえすれば、よ うやく眠れるだろうと思ったからです。 実際、喀血は止まって、ぼくはその夜の残りを眠りました。 朝になって使用人が来て、これは善良で、まるで飾り気のない娘でしたが、 224 & ついに本当に病気になる かつけっ
まるでカナリアのようです。 かご カナリアを籠に入れて、いっしょに炭鉱などに入ると、もし毒ガスが発生していた 場合、まずカナリアに異変が起きます。 こ、カナリアは、人間がまだ気づかないうちに、苦しみ始めるのです。 毒ガス ( し ネカティ。フ・ 論 生 人 みなもと の カ 苦しみは、カフカのカの源ともなっていました。 フ カ 病気になって、ある種の救済を感じ、安らかな心でいた時期、カフカは何も書かな 人 望くなります。 絶 しかし、病気が長引き、それが普通の日常となってくると、病気の現実離脱の効果 も弱まってきます。 すると、またしてもカフカは苦しみ始めます。不眠も戻ってきます。 そして、「神経の苦しみから自分を救うため、私はまたばつばつものを書き始めま した」と知り合いへの手紙に書いています。 あきらかに、苦しみこそが、彼の書くエネルギ 1 源となっているのです。 238
までもありません。結婚は無理になったのです。 フェリーツ工とのニ度目の婚約も、病気を理由に解消します。フェリーツェが「病気 になっても、あなたを見捨てない」と = = ロってくれても、受け入れません。 イヤで仕方ない勤めを、生活のために続けていたカフカですが、病人なのですから、 もう勤めはできません。 勤め先から病気を理由に休暇をもらうことができました。それは何度も延長され、最 て 後には年金付きの退職が認められます。パンのための勤めをしなくても、勤めていたと し きの半分弱の金額を得られるようになったのです。 このように、病気によって、現実のもろもろの問題をすべて棚上げにできるのです。 絶 気「現実入門」ではなく「現実離脱」です。 前線で戦うことが恐怖だった兵士が、ケガで病院送りになったように、怖れていたこ 章 五 ととはいえ、カフカはほっともしたわけです。 十 第 現実のごたごたから解放されたおかげか、不眠に悩まされることもなくなり、頭痛も しなくなりました。「もうすっかりばくのなじみになっている肺結核は、悪いことより は良いことのほうをよけいにもたらしてくれました」とカフカは書いています。 親友のプロートもこう書いています。「 ( カフカは ) 病気は自分の決定的な敗北を意味 するというのだー しかし彼はそれ以来よく眠る。解放されたのか ? 」 227 おそ
映画『マトリックス』を思い出した人もいるかもしれません。 カフカはØLL の世界にも、強い影響を与えました。不安な妄想を作品にする方法をあ み出したためです。 たとえばフィリップ・ y- ・ディックは、「この宇宙も、じつは誰かの頭の中の妄想に すぎない」「過去の記憶はすべて植え付けられたニセモノ」「自分が本当は自分ではな というような、アイデンティティー ( 自分は何者なのか ) の不安を描いたØ LL 作品 をたくさん生み出しました。 ーグの映画『激突 ! 』の原作・脚本で知られているリチャー 絶スティーヴン・スピルバ 知ド・マシスンは、妻が消え、友達が消え、会社が消え、家が消え、ついには自分まで消 えてしまう「蒸発」という短編を書いています。 章 こういうわけのわからない話を、読者が面白いと感じるのも、そうした不安をどこか 十 第 で少しは感じているからです。 現実と思っているすべてが、じつは自分の頭の中だけの幻影にすぎないのではない か ? ・ とくに思春期にはこういう不安を持っことがあります。自分を取り巻く現実に対して、 充分な現実感を覚えることができないためです。 からた ひどくなると、自分の身体さえ、自分のものに思えなくなることもあります。さらに 199
はたして、自分が親になれるのか ? その役割がっとまるのか ? 絶 こういう不安は多くの人の胸をかすめると思います。それでもみんな、「なるように こなる」というような、一種の思い切り、あるいは何も考えないようにすることで、そこ を飛び越えます。 を 供 子 でも、カフカはそうはいきません。ちょっとでも不安があれば、それは彼の中でどん 章どんふくれあがっていきます。 十 第 177
生きていくうえで、大きいことから小さいことまで、不安や心配はっきものです。 望 でも、たいていの人は「まあ、大丈夫だろう」と考えないようにすることができます。 絶 俶それができないと、ど一つなるのか ? 身 のそれがカフカです。 自 気苦労がつい には、重い病気まで引き起こしてしまいます。 一一一もし、身体について心配しすぎなければ、健康でいられただろうに :
262 人です ) どうにも黙っていられなくて口をはさみたくなるのかもしれません。 私のカフカ。私しか分らないカフカ。 あふ この本もそういう思いの溢れた一冊です。 こご、頭木さんは、文学論をここではしていません。 小説は一行一行に象徴生、暗示、奥行きがあり、かって私は『変身』の第一行 「ある朝グレゴール・ザムザが不安な夢からめざめると、自分がとほうもなく大きな 論 毒虫に変「ているのを発見した , ( 三原弟平訳 ) という文章の「不安な夢」はドイツ語 ( ので、単数にしたとい 力では複数形なのだが、日本語でこの夢を複数形で表記しにく、 ためいき フ フ文章 ( 三原弟平『カフカ「変身」注釈』 ) を読んで溜息をついたことがあります。たし 人 望かに複数と単数では味わいがちがいます。しかし、英語ならをつければ簡単に乗り 絶 越えられる「夢」の複数形が日本語だとあれこれやってみましたが ( やってみて下さ どうにもうまく行かない。文章全体をいびつにしてしまう。むすかしいものだな、 おび はんやく と早とちりでカフカを飜訳で読むことにそそっかしく脅えたことがありました。その 間もカフカの魅力からははなれがたく、それはもつばら・ヤノ 1 ホの『カフカとの 対話』を再読再再再読することでなだめていました。 この本を手にして、目をひらかれました。
なぜ眠れないのか ? べッドでじっと横になっていると、 不安がこみあげてきて、 とても寝ていられなくなる。 論良、い、 生 人果てしなく打ち続ける心臓、 死への恐怖、 名死に打ち勝ちたいという願いなどが、 絶 眠りを妨げる。 仕方なく、また起き上がる。 こんなふうに寝たり起きたりをくり返し、 その間にとりとめのないことを考えるのだけが、。 220 さまた ほくの人生なのだ。 ーー補遺
では、なせばくは結婚しなかったのでしようか ? 結婚を決意した瞬間から、もはや眠れなくなり、昼も夜も頭がカッカし、 の 生きているというより、絶望して、ただうろついているだけ、 力とい - フ状能に陥りました。 望原因は、不安、虚弱、自己軽蔑などによるストレスです。 つまり、ばくはあきらかに精神的結婚不能者なのです。 刃結婚しなかった理由 おちい けいべっ ーーー父への手紙
絶望名人力フカの人生論 りじん そ・つしっしようこ・つぐん は、「離人・現実感喪失症候群」という病名をつけられてしまうことも。 病気すれすれの、でも誰もが少しは感じる不安を、カフカは誰よりも強く感じ、決し て安心しようとはしません。でも、病気にまで至ってしまうことはなく、苦しいままに 現実に留まります。 そういう人は珍しく、カフカのような人が他にはいないのは、そのためでしよう。