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検索対象: 絶望名人カフカの人生論
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1. 絶望名人カフカの人生論

でも、カフカはまったくそんな野心を抱いていません。あれほど勤めを嫌がりながら も、最初から「文学では食べてゆけない」と決めてしまっています。 これはなぜなのか ? 彼の書くものが、他の人たちの書くものとはまったくちがっていたからです。 プロートの小説は、ありきたりで、いかにも一般受けする内容でした。 カフカもそういうものを書く気があれば、作家として生活していけたでしよう。 でも、カフカはそういうものを書く気はありませんでした。 し 彼は作家という称号を手に入れたかったのではなく、書きたいものを書きたかったの 望 絶 です。 夢 それは一般にはウケない。だから、生活はできない 章 剏それはわかっていても、生活のために嫌な勤めをすることになっても、そこは曲げら れなかったのです。 ですから、「文学では食べてゆけない」というカフカの絶望は、いつもの彼の自信の なさの表れというだけでなく、じつは彼の自分の作品に対する大いなる自負の表れでも あるのです。 「ばくの仕事が長くかかること、またその特別の性質からして」というのは、そういう Ⅲことです。

2. 絶望名人カフカの人生論

ひどく落ち込んでいる人でも、カフカがあまりにも極端に絶望的なので、「いや、 自分はここまでは絶望していないんだけど」という気持ちになってくるでしよう。 カフカほど絶望できる人は、まずいないのではないかと思います。カフカは絶望の 名人なのです。誰よりも落ち込み、誰よりも弱音をはき、誰よりも前に進もうとしま せん。 生 しかし、だからこそ、私たちは彼の一言葉に素直に耳を傾けることができます。成功 人 の 者が上からものを言っているのではないのです。 フ カ 人 望ネガテイプを代表する作家 絶 カフカは自分のことを小さな虫のように思っていましたが、小説家としてのカフカ は巨人です。二〇世紀最大の作家と称されることもあります。 絵画で言えばビカソのように、その後の作家たちに決定的な影響を与えました。 受けずにすんでいる人は、ほとんど カフカ以降の作家で、カフカの影響をまったく いないと一言っていいでしよ、フ。

3. 絶望名人カフカの人生論

骨折への賛美ー 世の中にはいろんなものを賛美する人かいますが、これは珍しいでしよう。 なぜカフカは骨折を愛でるのか ? 罪悪感が強くて、自分を罰したいと願っている人は、無意識のうちに、自分にケガを させようとしたり、病気にかかるようにしたりします。 そうして、ケガをしたり病気になったりすると、罰せられたことによって、心か安ら しぐのです。罪悪感が減るからです。 カフカは誰よりも罪悪感の強い人です。ですから、カフカが骨折を、そして結核にな 望 絶 ったことを喜んでいる面があるのは、大きな罰を受けたことで、罪悪感が少しやわらい 病だためかもしれません。 章 それにしても「生涯でもっとも美しい体験」とまで一言うのは ? 五 十 第 心の傷とい一つのは目に見えない曖昧なもので、時間をかけてもなかなか順調にムって いくものではありません。しかし、身体の傷ははっきりと目に見えますし、ある程度ま での傷なら、時間とともにみるみる癒えていきます。 そこにカフカは美しさを感じたのではないでしようか。リストカットをする人にも通 じる心理です。 229

4. 絶望名人カフカの人生論

「他のことに気を取られていた」のは、自分が悪いのでは ? と反論したくなるところもありますが、「この非難に反論されたとしても、ほくは聞 たく耳をもたないーというのだから、仕方ないですね。 し 望 集中して耳を傾けたくなるような授業をしてくれなかったのかいけない、ということ 絶 でしょ一つ。 校 学 たしかに、退屈で中身のない授業では、集中して聞きたくても無理な話です。 章 教師にめぐまれなかったのは、カフカにとって不幸なことでした。 第 もっとも、不幸からカを得るのがカフカなので、幸運だったと一言えるのかもしれませ んが。 119

5. 絶望名人カフカの人生論

118 考えてみればみるほど、 ばくが受けた教育は、 論 ばくにとっては害毒であった。 生 非難されるべき人は多い。 フぼくがその人たちの授業を受けながら、 その当時、何か他のことに気を取られていたために 絶授業にまるつきり注意を向けなかった、 そういう人たちだ。 この非難に反論されたとしても、ぼくは聞く耳をもたない 教育は害毒だった 一三ロ

6. 絶望名人カフカの人生論

とこそ、親友としてのプロートの、驚くべき誠実な行為だったと一言えるでしよう。 なお、プロートはカフカの遺稿の出版によって、儲けてもいません。印税は、カフ 力の病気治療のせいで多額の借金ができていたカフカの両親と、カフカの最期を看取 った恋人に分けて、自分はまったくとっていません。 当時はまだほとんど無名だったカフカの本を出すことも大変でしたが、その遺稿を あ守るだけでも、大変なことでした。 カフカの死後、ナチスが台頭し、ユダヤ人の迫害が始まります。。フロ 1 トはナチス 庫がプラハに侵攻してくる、その前夜に、カフカの遺稿をトランクに詰め込んで脱出し ます。 まさに危機一髪でした。カフカの作品はナチスの「有害図書ーのリストに入ってい たので、もし見つかっていたら焼却されていたでしよう。 婚約者だったフェリ 1 ツェもユダヤ人です。 カフカと別れた後、裕福な銀行員と結婚して、二人の子供を生みました。 255 もう

7. 絶望名人カフカの人生論

カフカの父親とは対照的に、カフカは豊かな家庭に生まれました ( 父親のおかげです 子供にはちゃんと教育を受けさせたいという父親の願いで、大学も出ています。その ドイツ語の力は、小説まで書けるほどです。 し 肉体的な苦労をしていないので、身体は軟弱で、金銭的な苦労をしていないので、お 望かわもう 絶金儲けに興味がなく、もともと裕福だったので、上昇志向もなく、高い教育を受けた結 親果、小説という芸術に強い興味を持つようになりました。 章 つまり、何から何まで、父親とは正反対なのです。 五 第 カフカによれば父親には「生活と商売と征服への意志」がはっきりと見てとれました。 カフカにはどこをさがしても、そんな意志はありません。 たとえば、お金儲けのためだけに生きることは、父親にとっては生きがいとなりうる でしよう。しかし、カフカにとっては、まさに棺桶のふたとなりえたでしよう。 が ) 。 からだ

8. 絶望名人カフカの人生論

貧しかった自分とはちがって、子供たちには豊かに生活させたい。教育が充分に受け られなかった自分とはちがって、子供たちには充分な教育を受けさせたい。 親というのはそんなふうに、子供に自分と同じ道を歩ませないようにしたがります。 望 しかし一方では、自分の子供には、自分と同じように考え、同じように感じてほしい という気持ちもあるでしよう。価値観のちがいは受け入れがたいものです。 親 とくに、自分に自信があり、実際に成功した男性は、自分の息子も自分に似ていて欲 章 第しいと思一つものかもしれません。 少なくとも、「そっちの道はダメだ。こっちの道を進め」と、自分の経験から助言し たくなるでしよう。 カフカの父親もそうであったようです。 しかし、それはライオンがネスミに生き方を教えるようなものです。 ネズミは自分がライオンでないことを田い知らされ、しかもネスミとして生きること 皿さえ、うまくできなくなってしまったのです。 ぼくの未来とはなんのかかわりもなかったのです。 父への手紙

9. 絶望名人カフカの人生論

た。それらをプロートが苦労して次々と出版していった。当時はなかなか引き受ける出 版社がなかったという。 最初の日本語訳が出版されたのは昭和一五年 ( 一九四〇年 ) 。白水社刊、本野亨一訳 『審判』。六、七冊しか売れなかった ( そのうちの一冊を安部公房が手に入れていた ) 。 今では世界的に、二〇世紀最高の小説家という評価を受けるようになっている。 しかし、カフカが本当に読まれるのは、むしろこれからだ。 論カフカが死んで九〇年以上経つが、彼の言葉はいまだに新しい

10. 絶望名人カフカの人生論

この幼い頃の経験は、カフカにとっては、とても大きなものであったようです。 罪はなくても、罰がやってくる。 望罰を受けたせいで、罪悪感がわいてくる。 絶 その罪悪感は、理由がわからないだけに、 かえって打ち消しようがなく、いつまでも 残り続ける。 章 第九ニページの言葉に「 ( 父親の前に出ると ) とめどもなく罪の意識がこみあげてきま した」とあるのは、そういうことです。 たしかに、この父親のお仕置きは、いきすぎでしよう。 しかし、大半の子供なら、大泣きして、しばらく父親が嫌いになって、それで終わり かもしれません。 しかし、カフカの場合には、三六歳になっても、心の傷はしつかり残り続けているの です。 それだけの無価値なものでしかないのだ、 という想像にさいなまれたのです。 父への手紙