社会的地位 - みる会図書館


検索対象: 絶望名人カフカの人生論
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1. 絶望名人カフカの人生論

この前、ばくが道ばたの草の繁みに寝転ばうとしていると、 仕事でときどき会う身分の高い紳士が、 の さらに高貴な方のお祝いに出かけるために、 カ フ カ 着飾って二頭立ての馬車に乗って通りかかりました。 人 からた 望ばくは真っ直ぐに伸ばした身体を草の中に沈めながら、 社会的地位から追い落とされていることの喜びを感じました。 フェリ 1 ツェへの手紙 わ社会的地位にはまったく関心なし

2. 絶望名人カフカの人生論

第六章学校に絶望したー 師学校では劣等生と決めつけられた なぞ 母親にとって「ひとつの悲しい謎となった」 教育は害毒だった 何度成功しても自信は湧かず、ますます不安が高まる 第七章仕事に絶望した ! 生活のための仕事が、夢の実現の邪魔をする 会社の廊下で、毎朝絶望に襲われる 仕事に力を奪われる 仕事をなまけているのではなく、怖れている 出張のせいで、だいなしに わ社会的地位にはまったく関心なし 123 113 おそ

3. 絶望名人カフカの人生論

あなたが道ばたの草むらで寝っ転がっているとき、出世街道を突き進んでいる知り合 いか、大事な会合に出るために、べンツでそばを通りすぎていったとしたら、どうでし よ一つ ? ・ そこで、「社会的地位から追い落とされていることの喜びを感じ」られれば、カフカ なみです。 これほどまでに仕事を嫌がり、出世にもまったく興味がないとなると、その仕事っぷ レ , しい加減で、ダメ社員だったのでしようか ? し まじめ じつは、そうではないのです。遅刻こそよくしていたものの、その仕事ぶりは真面目 絶 で、上司からも評価されていました。 事 仕 たんに義務で仕事をするというだけでなく、やらなくてもいい仕事までやっています。 章 七たとえば、こんなエピソードがあります。 建築現場で左足を砕かれた老齢の労働者が、法律上の不備のせいで、カフカの勤めて いる「労働者傷害保険協会」から年金をもらえそうになかった。そのとき、名のある弁 護士が乗り出してきて、お金をもらえるようにしてあげた。しかも、その障害者の老人 から、一円の報酬ももらわずに。 この弁護士に依頼し、支払いをしていたのか、じつはカフカだったというのです。 これは仕事熱心のためではなく、彼の弱者への強い思い入れのためでしようが。 135

4. 絶望名人カフカの人生論

「ずいぶん遠くまで歩きました ( 略 ) それでも孤独さが足りない ( 略 ) それでもさび しさが足りない」 す 「ばくは真っ直ぐに伸ばした身体を草の中に沈めながら、社会的地位から追い落とさ れていることの喜びを感じました」 「いつだったか足を骨折したことがある。生涯でもっとも美しい体験であった」 いくらかムキになったカフカですが、この世の成功者が語るポジティ。フな幸福論な うそ 論 うぬぼ 生ど、大半は底の浅い自惚れか、単なる嘘か錯覚だったりすることが多く、それに比べ カて不幸の世界の、なんと残酷で広大で奥深く切なくて悲しくて美しくて味わい深いこ フ 力とだろうという感受性には共感してしまいます。 かんこどり 望芭蕉の句に「憂き我を、さびしがらせよ、閑古鳥」というのがありますが、人生の 絶 マイナスを上塗りして感じたい気持だって抑えこまなければ人生の喜びの一つなのだ と田 5 います。 「生きている中、わたくしの身に懐しかったものはさびしさであった。さびしさの在 ったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった」 ( 永井荷風「雪の日」 ) しかし、カフカはそうした個人の感慨の領域を作品ではきつばりと切り捨てていま す。 なっか

5. 絶望名人カフカの人生論

身体のことだけでなく、心の面でも、能力の面でも、カフカは自分の「弱さ」を強調 します。 「八つ折り判ノート」というのは、小型のノートで、カフカはこれに短編小説や発想の 断片などを書き連ねていました。そして、日記代わりにも使っていました。これもそう たした日記的な記述のひとつ。 望人生に必要な能力とは、仕事で成功する能力、人と交際する能力、結婚して家庭を作 る能力など、ようするに社会に溶け込んで折り合いをつける能力のことです。 9 カフカはそうした能力に欠けていて、その代わりに、弱さだけは人一倍持っていまし のこ 0 分 ・目 彼はそのことを嘆いていますが、では本当は強くなりたかったかというと、それは疑 けいべっ 四問です。父親のように社会でたくましく生きていく人間を、彼は軽蔑もしていたように 思います。同時に、あこがれ、尊敬もしていたとは思いますが、少なくとも自分自身は そんな人間にはなりたくなかったでしよう。 妙な言い方ですが、カフカは自分の弱さにプライドを持っていたように思います。 ただ、その弱さに苦しめられ続けていたことも事実ですが。 からだ

6. 絶望名人カフカの人生論

カフカの仕事の嫌がり方は激しいですが、ではそんなにひどい会社に入ったのかとい うと、そうではありません。 最初に入った民間の保険会社は、たしかに忙しかったようですが、それでも残業して 八時半とか。普通なら、自殺を考えるほどではないでしよう。 しかも、そこは一年もしないうちにさっさと辞めて、友達の父親のコネで、半官半民 絶 の「労働者傷害保険協会」に勤めます。 事 仕 ここは勤務時間が朝八時から午後ニ時まで ! あとは自由なのです。 章 七とても恵まれた職場と言えます。しかも、カフカ自身が「みんなばくにやさしくして くれます」と書いています。職場の人間関係はよかったわけです。それも、カフカです ら文句を言わないほどに。 「しかしそれでも充分にひどい状態」なのです。カフカにとっては : 127

7. 絶望名人カフカの人生論

一八八三年七月三日、当時オ 1 ストリア・ハンガリー帝国の領土だったポヘミアの首 都プラハ ( 現在のチェコの首都 ) のユダヤ人地区で、豊かなユダヤ人の商人の息子とし て生まれる ( 同じ年、日本では志賀直哉が生まれている ) 。 大学で法律を学び、労働者傷害保険協会に勤めながら、ドイツ語で小説を書いた カ いくつかの作品を新聞や雑誌に発表し、『変身』 親友マックス・。フロ 1 トの助力で、 フ カ などの単行本を数冊出す。しかし、生前はリルケなどごく一部の作家にしか評価されず、 〕 / ほとんど無名だった。 フ 一九一七年、三四歳のとき喀血し、二二年、労働者傷害保険協会を退職する。二四年 六月三日、四一歳の誕生日の一カ月前、結核で死亡 ( 同じ年、日本では安部公房が生ま れている ) 。 生涯独身で、子供もなかった。 しっそうしゃ 遺稿として、三つの長編『失踪者 ( アメリカ ) 』、『訴訟 ( 審判 ) 』 ( 夏目漱石の「こころ」 と同じ年に書かれた ) 、『城』のほか、たくさんの短編や断片、日記や手紙などが残され フランツ・カフカ Franz Kafka かつけっ

8. 絶望名人カフカの人生論

カフカが「おまえは」と一言うとき、それは「人は」ということでもありますが、それ た以上にカフカ自身を表しています。つまり、「ばくは」と言っているのと、ほば同じで 望す。それをもう少し一般化しているにすぎません。 カフカはさまざまな責任を負わされると、すぐにつぶれてしまいます。家業の手伝い 9 とか、結婚とか、長男としての責任、男としての責任、社会人としての責任 : の しかし、けつきよくのところ、重いのは責任ではありません。他の人なら軽々と抱え 分 るのです。重いのは、彼自身なのです。自分自身を抱えて生きる責任こそが、重さのす 四べてなのです。 そして、それは放り出すことができないものです。

9. 絶望名人カフカの人生論

「彼」というのは、ここでもカフカのことです。 ひとりきりでいるという、文字通りの孤独よりも、誰かといっしょにいるのに、その 人と心が通じないという孤独のほうが、より深刻でつらい孤独です。 ひとりでいるというだけの孤独なら、誰かと会えば解消されるかもしれませんが、誰 絶かと会っているのに孤独だとしたら、もう救われようがないからです。 「相手が彼につかみかかり、彼はなすすべもない」というのは、実際に暴力をふるわれ あ るわけではなく、相手とうまくやりとりすることができず、どうすることもできないと づ 人 いうことです。 章 ひとりでいると、他の人々は「世間」とか「社会」という、大きなひとつのかたまり 十 第 になります。それはより強大で、自分をおしつぶそうとしてきます。 それでも、目の前に立っているたったひとりのわかりあえない他人よりは、まだずつ とましなのです。 189

10. 絶望名人カフカの人生論

ぽ / 、はし、はしは老ノ、んました。 閉ざされた地下室のいちばん奥の部屋にいることが、 論ばくにとっていちばんいい生活だろうと 生 誰かが食事を持って来て、 フばくの部屋から離れた 地下室のいちばん外のドアの内側に置いてくれるのです。 絶部屋着で地下室の丸天井の下を通って食事を取りに行く道が、 ぼくの唯一の散歩なのです。 それからぼくは自分の部屋に帰って、ゆっくり廩重に食事をとるのです。 フェリ 1 ツェへの手紙 0 地下室のいちばん奥の部屋で暮らしたい ゆいいっ