115 やみ ち ドアを締め切ると、守は夜とはまた違う闇のなかに立っていた。この新しい闇のなかには、 あるじ かすかに甘い香りがした。主人なき部屋に、亡き女のコロンの名残り。 なじっと足を動かさないまま、今度はペンライトを取り出す。秋葉原で見つけてきた強力な 不指向性のあるもので、スイッチをオンにし、三段切り替えの光量を最大にすると、自分の立 くっぬ 章っている場所が見えた。そこは、玄関というよりは、ささやかな靴脱ぎのスペースだった。 第右手に薄い下駄箱があり、その上に空つぼの花瓶。後ろの壁に、小さな額に人ったマリー・ ローランサンの複製画がかかっている。 ほの白い少女の顔に見おろされて、守はかなりどきんとした。真紀もこの女流画家が好き そろ で、画集もひと揃い持っている。ロマンティックな色調だが、暗がりで見る絵ではない。こ きら れきり嫌いになりそうだなと、守は思った。 かさた 足元を照らしてみて、うかつに動かなくて正解だったと思った。金属製の細い傘立てが、 右足のすぐそばにあった。知らずに踏み出していたら、両隣の住人の白河夜船を邪魔する音 急ごしらえの合鍵をポケットに人れ、鍵穴からふっと息を吹き込んでーー誰も気づく人は こんせき いないだろうが、念のためーーベーキング・パウダーの痕跡を飛ばすと、守は立ち上がって ドアを開いた。 げたばこ かびん ひと
「こことここに名前を書いて : : : 印鑑は持っている ? 」 和子の前に座っている二人連れの若い娘は、そろって首を横に振った。一人は、血色が悪 ち あぶらけ く、垂れ下がる脂気のない長い髪をしよっちゅう顔の前からはらいのけている。もう一人は 女はだ な肌に吹出物がひどい。和子は、自分自身のしみひとつない肌が効果的に見える角度を考えな 不がら、二人に話しかけていた。 章「そう。じゃ、指が汚れるので申し訳ないんだけど、拇印を押してくれる ? 」 第二人は素直に言われたとおりにした。和子は、彼女たちが拇印を押し終えるのを待って、 にえ ー。ハーを渡す。そして励ますように徴笑んだ。 なめらかな手触りのティッシュ 「どうもありがとう。これで契約は終了よ。こうしてまとめて金額を見ると高いような気が するけれど、これで丸一年使えるのよ。割算してみれば、普通の化粧品一そろいと同じぐら いだってわかるわ。銀行引き落としだと、ひとっきに一万円ぐらい、知らないうちに払っち ゃうものよ」 、・ハッグのなかから薄緑色のチケットを取り出して、二 それからこれは特別サービス、と 157 「坊ずと同じさ。女房が出ていっちまったからな」 外へ出ていく守を、下卑た笑い声が追いかけてきた。 ないん
んだろう」 「そりやたぶん、僕が横領犯の子だからさ」そっけなく、守は言った。陽一の優しそうな顔 を見ていると、今までの我慢の反動がきてしまったのだ。「君だってそう思わないか ? メ ンデルの遺伝の法則ってやつじゃないか」 陽一は目をしばたたきながら守を見ていた。泣き出すんじゃないかと、守は危ぶんだ。 だが、意外にもしつかりした声で、彼は言った。 「『つるさんはまるまるむし』って、知ってるかい ? 」 「なんだって ? 」 や さ「『へのへのもへじ』みたいな落書きだよ。僕が子供のころ、父さんはよくそれを描いてく はれた。僕は面白いと思った。でも、もっとほかのものも描いてほしいってねだった。電車と か、花とか。そしたら父さんは、僕を近所の絵画教室につれていった。父さんは絵が本当に 下手くそで、〈つるさん〉しか描けなかったんだ」 陽一はにつこりした。「僕、将来画家になったら、〈つるさん〉をサインがわりにしようと 思ってる。だけど、〈つるさん〉を描くと、どうしても父さんの顔に似ちゃうんで困るんだ な」
110 えんだ」 しばらく口をつぐんでから、じいちゃんは続けた。 おやじ 「お前、じいちゃんには一度も、親父さんの話をしたことがなかったな」 「なにも言わなくっても知ってるじゃないか」守は困惑した。 「今でも、親父さんのことでとやかく言う連中はいるかい ? 」 「ときどきね : : : でも、昔ほどじゃないよ」 「そうか。時間がたてば、世間の連中だって昔のことは忘れるもんだ」 「僕だって親父のことなんか忘れてるよ」 や さ「守、錠前破りを習うのは楽しかったか ? 」 は「うん」 術 「どうしてだ ? 」 ちょっと考えて言葉を探してから、守は答えた。 「ほかのみんなにはできないことだからね」 じいちゃんはうなずき、守の手を見つめた。 「それを使って、どこかから何かとってこようとか、誰かを困らせてやろうとか、そんなこ とを考えたことはあるかい ? 」 「全然ないよ ! 」守は目を見はった。「じいちゃん、僕がそんなことをするとでも思ってた のかい ? 」
ばや 流行りも、先鞭をつけたのはあの会社だわ」 「その会社がどうかしたんですか ? 」守は訊いた。 よしたけこういち 「名乗り出てくれたのは、その会社の副社長なんだよ。吉武浩一さんて言ってーー」 「ホント ? その人なら知ってるわ ! 雑誌に『書斎拝見』っていうェッセイを書いていて、 それが単行本にまとまって出たの。見たことがあるわ」 「それなら知ってる。大型の、写真人りのやつでしよう ? 」 「そうそう。作家とかジャーナリストとか建築家とか、有名な人の書斎ばっかり載っている 翻わ」 「あれ、よく売れたんだ」と、守。 「有名人なんだねえ」より子が考え込んだ。「なかなか名乗り出られなかったの、無理もな 章 四いよ : : : 」 「どういうこと ? 」 せき より子は大造を見やった。ひとっ咳ばらいして、大造は言った。 「吉武さんは、父さんの事故を目撃したとき、愛人のマンションに行く途中だったんだそう だよ」 守も真紀も、ちょっと言葉が出なかった。 「警察も、あとから出てきた目撃者だからね、ずいぶん慎重に調べたらしいんだよ。言って いることにおかしな点はないかって。吉武さん、事故のちょっと前に菅野さんと話もしたん せんべん
妥協することを知らない顔が現われてきた。 「坊ずはバカだった。世間知らずで無防備だった。下心を持った報いを受けた。そして彼女 ノ力をみたのは坊ず一 は、坊ずと同時にほかにも何人も坊ずのような男たちを操っていた。ヾ ひとよ 人じゃない。そのとおりだ。だが、どんなにバカで無知でお人好しでも、夢を見る権利はあ る。そして夢は金で買うものじゃない。まして売りつけられるものでもない。わかるか ? 坊ずにしなだれかかってきた女は、その最低限のルールさえ無視していたんだ。彼女の頭に あったのは、坊ずが。ハ力でお人好しで、寂しいということだけだった。ある程度までは彼女 ち 尠を満足させられるだけの金は持っているということだけだった」 な軽く息を切らしながら、橋本はウイスキーを注ぎ足すと、ぐいとあけた。 不「本当なら、あの座談会の記事は『情報チャンネル』なんかに売りたくなかった。タイトル 章だって、あんな安つぼい扇情的なものじゃなかったんだ。『情報チャンネル』の連中は、雑 第誌の編集のことなんて、おむつをとる前の赤ん坊と同じぐらいしかわかっちゃいなかった」 だけどな、と、橋本はまた守に向き直った。 「あの座談会で、集まった四人の女どもがしゃべったことには、俺は一言半句も手を加えち ゃいない。どんな汚い一一口葉も、嫌らしい言い回しも、何一つ付け加える必要なんかなかった。 あれはみんな彼女たちの口から出た一「ロ葉だ。全部がそうだ。隅から隅まで、一かけらの誇張 も修正もない。女の子たち。きれいな顔をしていい服を着て、虫一匹殺せない。けっして貧 まじめ しくない家庭で、真面目な親たちに育てられ、ほどほどにいい学校でちゃんと教育を受け、 153 いや すみ
143 「そいつは壊れてるよ」 ぶしようひげ 驚いて見回すと、ドアの脇の小窓から、無精髭に包まれた顔がのぞいていた。 「電気屋が修理に来ないんだ。ふざけた話だろう ? 」 とろんとした声で、まぶしそうに目を細めている。もうタ暮れだというのに、今起きてき ふい たという風清だった。 「鍵はかかってないから、人ってくれ。ハンコが要るんだろ」無造作に言って、顔は引っ込 んだ。 ち 守はドアを開け、狭い玄関に立った。 げたばこ きげん な作り付けのまがいマホガニーの下駄箱に、ひどい傷がついている。誰かが機嫌の悪いとき 不に、何か重いものをカ任せにぶつけたらしかった。たとえばーー・酒瓶を。廊下にもごろごろ 章している。七、八人で乱痴気騒ぎをしたあとのようだった。 第「荷物はどれだ ? 」男が戻ってきた。 「橋本信彦さんですね」守は気を落ち着けて切り出した。 「そうだよ。ほら、 「宅配便の配達じゃないんです。この記事のことで教えていただきたいことがあってうかが いました」 「情報チャンネル」を見せる。橋本のまぶたがピクリとした。 「突然ですみません。でも、どうしても知りたいことがあるんです」 かぎ トル
り向いた彼女の顔は、今日一日で十年の歳月を経たかのように疲れ果てていた。 言葉をはさまず、しつかりと三田村の手を握りしめたままの和子に、守は語った。そうす ることで自分の気持も整理できるように思って、できるだけ詳しく、原沢老人がなぜ四人の 女性たちを殺そうとしてきたのか、老人を代弁するつもりで語り続けた。 守が語り終えると、暖かな「ケルべロス」の店内に冷ええとしたものが漂った。 「あたしーーー」和子は手で頬を押えた。「あたしたち、ひどいことをしてきたわ」 守は黙っていた。 男 「ひどいことをしてきたけど : : : でも、これはあんまりよ」 の 法 ( ひどい、ひどい、あんまりだ ) 「殺すことはないじゃない」和子はすすり泣いた。「殺されるほどのことなんかしなかっ 章 た」 第 「もういいよ」三田村が静かに言った。和子は激しくかぶりを振り、守を見あげた。 「ね、あんたはどう思う ? あんたもあたしたちは殺されても仕方ないと思う ? あんた、 ハラ。ハラになっちゃったのよ。 三田敦子がどうなったか知ってる ? 首がとれちゃったのよ。 かんおけ 加藤文恵だって、お葬式のとき、棺桶を開けてお別れすることができなかった。彼女、顔が なくなっちゃってたのよ」 和子は守にしがみつき、ジャケットに涙を落としながらゆさぶり始めた。 「あたしにはわからない。どうしてそこまでしなきゃならなかったの ? 教えてよ。あたし 373
「いいえ。ただのいたずらだと思いましたし」 「話したほうがいいな。いたずらにしてはたちが悪いし、異常じゃないか」 「うん : : : ただその電話については、僕はいまいち、自信がない」 「どうしてだい ? 」 「こういう事件のときって、信じられないようなことをする連中が出てくるんですよ。僕の まこと おやじ 親父のときにもあったんです。電話や投書で、真しやかな嘘をついてくるんです。親父が失 とくめい そう 踪したあと、居所を知っているといって、詳しく場所や名前まであげてある匿名の投書があ ったんです。調べてみたら、地名や人の名前以外は全部デタラメでした。そうかと思うと、 横領の件は日下氏がやったものではない、真犯人は別にいて、彼はぬれぎぬを着せられたの だ、とかね。もちろん、それだって全部嘘つばちですよ」 二守はちょっと肩を揺すってみせた。親父にかかわる話はどうも肩がこる。 「だから今度の場合も、その電話はあてにできないって気がする」 「そうか : : : 」 「でも、現場にほかに誰かいたかもしれないというのは考えられますね。話してみます」 高野一は、守が父親の事件を自分から話した数少ない相手の一人だった。 未成年だから、アルバイトの採用には一応保護者の許可が要る。その際に守は、両親が亡 くなったので伯母のもとに引き取られたのだとだけ説明していた。 だが、ここで働き出して高野と親しくなるにつれて、守の持っている少しひねくれた一面 しつ
今回は吉武一人で、仕事の帰りに寄ったということだった。そっと玄関前をのぞきに行っ た真紀が、さすが、いい車に乗ってるわと感嘆しながら戻ってきた。 「外車 ? 」 「ううん。あのね、吉武さんはスノップじゃないのよ。どこかでエッセイに書いていたわ。 世界には、ある国が他国にむかって胸を張って提供できるほど素晴らしいものがたくさんあ る。日本の乗用車もその一つだ。だから私は国産車にしか乗らない、って」 初めて会う吉武浩一の実物は、守の目に、それまで雑誌などで見かけていた写真よりもは いるかに若く、健康そうに見えた。むらなくきれいにゴルフ焼けしており、その肌色がワイシ えャツや背広の色合いとよく釣り合っている。 目撃証言をしたために彼がやっかいな立場に立たされたことも、それを揶揄する向きが多 章 五 かったことも、浅野家全員が知っていた。特に守と真紀は、大造に「うちの娘の真紀と、息 第 子の守です」と紹介されたとき、どういう顔をしたらいいのか戸惑いを隠せなかった。 だが、吉武本人はそんなことなどまったく意に介していないように見えた。 「どんなものを出したらいいかね ? 口に合わなかったらどうしよう」と、より子が悩みな がら出した家庭料理を誉め、大造の就職を喜び、真紀の舵取りに調子を合わせて、海外出張 時のエピソードから、インテリアの流行の動向、最新のファッション事情まで語り尽くして も、豊富な話題はっきることがなかった。 しんちょう せいたいこうしきんじよう 彼が初めてサザビーのオークションに参加し、清朝末期に西太后が紫禁城で愛用していた 269 はだいろ