どうしたのさ ? 」 「ちょ、ちょっと待った えり 守のシャツの襟をつかんで、真紀はただ泣いているだけだった。そこ ( より子もやってき た。顔の半分を包帯で隠しているが、残った左目で笑っていた。 「佐山先生から電話があってね。目撃者が名乗り出てきてくれたそうなんだよ」 真紀は守のシャツで顔をぬぐった。 「証人が出てきたの。お父さんの信号は青だった、菅野さんのほうが車のまえに飛び出して はねられたんだって、そう証言してくれる人がね」 立ちすくんでいる守の腕をゆさぶりながら、真紀は繰り返した。 や さ「わかってるの ? いたのよ、見てたのよ。目撃者が出てきてくれたのよ ! 」 は 術
263 すりぬけると、後ろ手に閉めた。 「どうしたの ? そんな顔して。おなかでも痛い ? 」真紀は小首をかしげた。 追い出すわけにもいかない。守は曖昧に笑い、頭を横に振った。 「ね、どう思う ? いい話よね ? 」 「どうって : : : 何が ? 」 「何って、決まってるじゃない。さっきの話よ。おかしいわね、聞いてなかったの ? 今日、 吉武さんがうちを訪ねてきたって、お母さんが話していたでしよう」 いそういえばそんな話が出ていたような気もした。守も真紀も留守の間に、吉武浩一が新日 え本商事の部下を連れてやってきて 「わたしはいい話だと思うな。どのみち、もうタクシーの運転をやめるんだったら、新しい 章 五仕事を探さなくちゃならないんだもの。お父さんの年齢になると、なかなか求人もないもの なのよね。せつかく吉武さんがああ言ってくれるんだから、甘えてみればいいのに」 どうやら、吉武浩一が、大造に就職話を持ってきたらしかった。 「なぜ、吉武さんが ? 」 「だから、あの人としては罪滅ぼしのつもりなのよ。自分が逃げ出してしまったために、お 父さんに辛い思いをさせた。だから、おかえしをしたいのよ」と、笑う 「少し考えさせてくれって答えるなんて、お父さんもお母さんもどうかしてるわ。新日本商 事ならお給料だっていいんだし。わたしも説得してみるから、守ちゃんからもそれとなく話 あいまい
「決まってるじゃないか。橋本さんの爆死と、『情報チャンネル』の座談会に出席していた 四人の女の人のうち三人が死んでいることだよ」 そにく 「ほう」声は素朴に感嘆した。「君はもうそこまで調べていたのか。驚いたよ。今日君に連 絡したのは、橋本が死んだことを知らせ、あわせて女性たちのことも教えるためだったんだ が、その必要はなかったんだね」 「なぜだ ? 」語尾がヒステリックに裏返るのをこらえることができなかった。「どうしてこ ねら んなことをして、それを僕に教えようなんて言うんだよ。あんたの狙いは何だ ? 」 い「その理由を話すのはまだ早い」 な え 思いがけず、優しいとさえ言っていい口調で、相手は続けた。 「時期がきたら話してあげよう。今はただ、あの三人の女性も、橋本信彦も、私の命令に従 五つて死んだということだけ覚えておけばいいよ」 「命令 ? 馬鹿言っちゃいけない。正気の人間に命令して自殺させることなんかできるもん か」 明るい笑い声がした。教室で不覚にも生徒の冗談に笑い出してしまった教師のような。実 際、聞こえてくるその声には、目下の者に教え諭すような響きがあった。 「そう、まだ信じられないかもしれない。君には信じられないようなことが、この世には山 ほどあるのだ。無理もない、君はまだほんの子供だ」 自転車を押した女性が二人、電話ポックスの前を通りかかった。そのうちの一人と、一瞬、 249 ばか
第章発端 タオルで顔をぬぐうと、彼はコーヒーの香りのするキッチンを通り抜け、階段をあがった。 かぎ 書斎に人り、きっちりとドアをたてきると、デスクのいちばん下の引き出しの鍵を取り出し て、開けた。 引き出しの奥に、プルーの表紙のアル。ハムが一冊しまいこんであった。彼はそれを取り出 し、。ヘージを開いた。 そこには三枚の写真があった。 一枚は、学生服を着てディ。ハックを肩にかけ、自転車のペ ダルに足を掛けている、十五、六歳の少年の写真だった。もう一枚では、同じ少年が二十歳 ぐらいの若い女性と並んで歩いている。三枚目の写真には、ダーク・グリーンの乗用車 個人タクシーだーーを掃除しているがっちりした体格の中年の男が写っている。そしてやは り同じ少年がいる。写真の端の方で、水の吹き出すホースを手に、今にもそれを中年の男に 一向けそうな様子をしている。二人とも笑っていた。 男はアル。ハムの。ヘージを繰った。 一つ前のページには、一枚しか写真がなかった。かつぼう着に似た白い作業着を着て、頭 にも白い布をかぶり、左手に木製の盆を、右手に刷毛を持った、三十代後半の女性の写真だ った。 ) 急にカメラを向けられて驚いたのか、ちょっと笑い、まぶしそうに目を細めている。 美人ではないが、ふつくらした頬の線が優しかった。 男はじっと、その女性の写真をながめた。それからページを戻し、少年の写真に目をやっ ほお
254 術はささやく こた 女が君に見つけられるような場所にいるとも思えないし、君の呼びかけに応えて現われると も思えない。彼女だって、今はもう充分すぎるほど怖がっているはずだから」 残されているのは彼女一人だけであることを、高木和子も知っているということなのだ。 むだ 「もう一つ、最後に言っておくよ。君が私を探し出そうとしても無駄なことだ。手掛りは何 もないし、この電話番号の場所にも、もういないつもりだからね。私の方から君に会おうと するときまで待ってもらうしかないのだ」 何かからの引用のように抑揚をつけ、最後にこう言って、電話は切れた。 「私は返事をしないし、二度と帰ってはこない。そのときが来るまではね」 ざんがい 高木和子が橋本信彦の死を知ったのも、彼の家の残骸の前に立ったときだった。 彼を訪ねようと思い立ったのは、耐え切れなくなったからだった。毎日毎日、笑顔をつく って化粧品を売りつける仕事をしながらも、和子の内側で確実にある種の侵食が進んでいた。 家具で隠したカー。ヘットのしみのように、どうごまかしてもそれはそこにあった。 動かない。あの四人のうち一二人が死に、残ったのは彼女一人だけだという現実は。 橋本なら、何か知っているかもしれない。そう思うといてもたってもいられなくなった。 座談会に出たときには、あんな不愉快な男とは二度と顔を合わせるまいと決めたものだった
310 っこ。 そんな思いが守の顔に出ていたのか、吉武は面白そうに訊いた。 「思い出し笑いかね ? 」 「ああ、いいえ、すみません。なんでもないんです。ちょっとおじさんのことを考えていた だけで」 「おじさん ? 」 守はあわてた。「ええ。うちのおじさん、新しい仕事にも慣れたみたいで、毎日楽しそう だな、なんて。吉武さんのおかげです」 や 言ってしまってから、これでは話が妙であることに気がついた。 は「あれ : : : すみません。もっとヘンですね」 術 吉武は、そうだね、と笑った。 「実は、僕は浅野家の養子なんです。それもまだ正式なものじゃなくて、名字も違います。 本当は、僕と真紀姉さんは従姉弟どうしなんですよ」 「君のご両親は ? 」吉武はゆっくりと訊いた。 おやじ 「母はもう亡くなりました。親父はーー」ちょっとためらった。「死んだようなものです。 ずっと行方不明だから」 新日本商事に勤め出してまもなく、大造が意外そうに、「会社で聞いたんだが、吉武さん も枚川の出身だそうだよ」と話していたことがある。ひょっとしたら日下敏夫のことを知っ いとこ
第章不審 「そうね。まあ、ビニールでできた紅葉を飾りつけるよりはずっと気が利いてるわよ。お客 さんのうけもいいみたい。だけど、お金かかったらしいわよ」 「そうでしようね。全階にあるのかな ? 」 「モチよ。一階の奥に集中管理室をつくって、専門のオ。ヘレーターがつめてるわ。そのスペ ースをあけるのがたいへんな騒ぎでね。おかげで、あたしたちの女子更衣室がまた狭くなっ ちゃった」 「気をつけろよ。『ビッグ・プラザー』の登場だぜ」 たな 棚を整理しながら、佐藤がしかめつつらをして見せる。守と女子店員は顔を見合わせた。 「そら、また始まった」 佐藤は放浪の旅と同じくらいが好きなのだ。俺の・ハイプルはオーウエルの「一九八四 二年」だと公言してはばからない。 「笑ってる場合じゃないぜ。あのビデオはさ、俺たち従業員をひそかに監視する装置をカム フラージュするためにつけられたものなんだ」 「佐藤さん、ついこの間までは、女子トイレには盗聴器がしかけてあるから、上役の悪口を しゃべらないほうがいいぞなんて言ってたのよ」 「嘘じゃないって。マネージャーは、今年の。ハレンタイン・デーに、女の子の誰と誰が高野 さんにこっそりチョコレートを渡したかまで知ってるんだ」 「・ハ力。全員であげたのよ。お金出しあって。佐藤さんだってもらったじゃない」 おれ
恥こ 0 今度は作り話でなく、最初から順序だてて事情を説明した。ここへ来るきっかけとなった ぎわ 正体不明の若い男からの電話の件も、菅野洋子の死に際の言葉も、全てを。 守が話し終えるまで、橋本はひっきりなしに煙草を吸っていた。一本一本、指先が焦げそ あきかん うなほど短くしてから、灰皿がわりの空缶のなかに落としていく。 「そういうことか」一人ごとのように言った。「菅野洋子が死んだか」 「新聞にも載ったんです」 そう意識したわけではなかったのだが、守の口調には ( 物書きのくせに新聞も読まないん や さですか ) という非難が混じっていたらしかった。橋本はにやりと笑った。 は「実を言うと、ここんとこずっと、新聞はとってないんだ。ろくな事件はないし、近ごろの 新聞記者はみんな文章が下手くそで、腹が立つだけだからな」 「菅野洋子さんを知っているんですね ? この写真は確かに彼女なんですね ? 」 一三ロ 己事のなかで、四人の女性の名前は伏せられ、子、子というふうに呼ばれている。 橋本はしばらく、窓のほうに顔を向け、守の存在など忘れてしまったかのように放心して いた。 「ああ、そうだよ」 やがて向き直り、低く答えた。 「坊ずの言うとおり、菅野洋子はあの座談会に出ていた。俺の取材を受けた。間違いないぜ。
いないのに必死で逃げていく菅野洋子をこそ見ていたはずなのに。彼はありえない話をして いる。なぜだろう ? なぜそんな嘘をついているのだろう ? 」 守は目を閉じ、ドアに寄りかかった。 おやじ 「あいつが僕の親父だからだよ」 初めて、老人の顔に驚きが走った。 「あの男が君の父親だと ? 」 「そうだよ。知ってるんだ。あいつは十二年前行方不明になった僕の親父で、今は吉武浩一 と名乗ってる。僕と浅野さん一家を助けるために、あんな嘘の目撃証言をしたんだ」 や さ「君はどうしてそれを知ったのだね ? 」 は守は説明した。結婚指輪。 ( 捕まるぞ ! ) というサプリミナル・ショットにひっかかった 術 こと。それにもう一つ 「あいつは、僕に『日下君』て呼びかけた。そんなふうに呼べるはずはなかったんだ。浅野 さん一家は、僕を『息子です』って紹介したんだからね。今考えてみれば、そのとき気づか なかったほうがどうかしてたんだ」 しばらくのあいだ、老人はじっと床を見つめていた。 「坊や、しかし、彼の身元ははっきりしている。目撃証言のとき、警察で洗いざらい調べあ げたのだからね。生まれや経歴、戸籍を偽ることなどできないよ」 「僕もそれは考えたさ。だけど、あいっから聞いたんだ。昔、一時期ドャ街にいたことがあ
214 それで納得して、待っとるから。これ以上勝手な自主休校を続けておったら、俺が承知せん ぞ」 げんこっ ホカリとやられたあと、しばらくのあいだ、 予期せぬところでいきなり拳骨が飛んできた。。、 守の世界は上下左右に揺れていた。 「今のが、四日間の自主休校を認可するハンコだ。痛いと思ったら、もう勝手なことはする なよ。だいたいお前ってやつは、一度言い出したらテコでも動かんからな」 「たぶん、先生と似てるんです」 や「願い下げだ」 岩本先生はふんと鼻を鳴らしたが、目は笑っていた。 は「それで、部費の盗難の件はどうなったんですか ? 結局、僕が犯人だってことに落ち着い たんですか」 教師は目をむいた。 「馬鹿たれ。俺は最初からそんな話は信じとらんぞ」 「でも : : : 」 たくら 「三浦たちが何か企んでしでかしたことだ、ぐらい、ちゃんとわかっとったよ。ただ、なん うそ の証拠もなしに嘘と決めつけるわけにもいかん。効き目もないしな。で、盗難があってから ずっと、俺は毎晩繁華街をうろうろして、とうとう昨晩、三浦や佐々木が十八歳末満お断わ りの映画館から出てくるところを押えたんだ。連中、酒までくらっていやがった」 ゅうべ