術はささやく い 「真紀姉さん : : : 今、なんて言った ? 」 「何ってーーーさっきの話 ? 吉武さんのこと ? 」 何も覚えていないのだ。 「やつばりおかしいわよ。守ちゃん、どうしちゃったの ? 」 いいんだ、気にしないで。言い訳をして部屋に戻った。べッドの端に腰を降ろし、両手で 頭を抱えた。 階下で、「真紀、あんたに電話よ ! 」と呼ぶより子の声がしている。 「誰から ? 」と、真紀が階段を降りていく。その足音も軽く、なにひとっ変わったことはな 今の守にできることは、心底怯えることと、途方にくれることだけだった。 4 それからの毎日、守は悪夢を循環製造して生きているようなものだった。手を触れるもの すべてが黄金に変わってしまい、富に埋もれて飢え死しなければならなかった童話の王様の ように、誰にも近寄ることを避けて暮した。 食いとめなければならない。自分だけで。誰にも話さずに。これ以上、ほかの誰かを巻き 込むわけにはいかないのだ。 おび
警告するために。 電話が見つからなかった。気がちがったように走りまわって、一区画先の電話ポックスに あせ 飛び込んだときには目が回りそうだった。焦るあまり、とっさに家の電話番号さえ思い出せ なくなった。 受話器を握り、金属的な接続音を聞いているとき、もうすべて手遅れではないかと思えて きた。家の電話もまた、ツー ツーという通話中音を繰り返すだけになっていたら 「はい、浅野です」より子の声が出た。 「おばさん ? 早く家から出てください ! や さ「へ ? 誰よあんた」 は「守です。説明してる時間がないんだ。いいから黙って言うとおりにしてください。早く家 から出るんです。なにも持たないで。おじさんも、真紀姉さんもいっしょに。今すぐ ! 」 「ちょっと守、どうしたのよ ? 」 「頼むから僕の言うとおりにしてください ! お願いだから」 ねな 「あのねえ」より子の声がとがった。「なにを寝惣けてるんだか知らないけど、あんたの留 守の間にまた電話があったのよ。橋本さんて言って、折り返しかけてくれってーー」 「知ってます、だからーーー」 「電話番号、聞いてあるんだよ。教えようか ? 」 声が出なくなった。電話番号を教えてきたって ? 246
良之」と書かれている。 「あの、そちらは水野さんのお宅ではないですか」 「はい、水野でございますけど ? 」 かわい 可愛らしいと言ってもよさそうなトーンの ~ 局い声が、ちょっとびつくりしたように答える。 「水野良之さんはいらっしゃいますか ? 」 「うちの主人ですけど」 守は大きく息をついた。 ち 「以前、水野さんが発行していた『情報チャンネル』という雑誌の件でお話があるんです」 なちょっと間があいて、相手の声が笑いを含んだ。 不「あらまあ : : : 何かしら」 : うかがったらいけませんか。僕、日下守といいます。学生で、怪し 章「電話だとちょっと・ 第いものじゃありません。あのーー」 「いいわよ。いらっしゃいな。場所はわかる ? うちは『ラブラ。ハ』って喫茶店なの。ちょ っとメモして。道順を教えるから」 「ラブラバ」は、道順など教えられなくてもわかる駅前の一等地にあった。南欧風の窓と日 除けの張り出した白壁の店で、天井では大きなファンがゆっくりと回っている。 日曜日のことで店内はこんでいた。一見して若者ばかりだ。軽快なが流れているが、 137 よしゆき
見つけたよ。可哀そうだけど、逃げ回ったって無駄だよ。じゃあ、またね」 ピー。録音はそこで終わっていた。 あいつだ。 表に出て、ゆっくりと交差点まで引き返しながら、守の頭のなかにあの電話の声が繰り返 しよみがえってきた。確かにあいつだ。うちに電話をかけてきたのと同じ男が、菅野さんに も電話していた。 いつのことだろう ? 彼女がなくなる前の、どの時点だろう ? 彼女が死んでしまったか や さら、今度はうちにかけてきたんだろうか。 は 逃げ回ったって無駄だよ。 術 引っ越し。どうやら電話番号を変えたらしいこと。逃げ回ったって 「情報チャンネル」ってなんだ ? それがあの高収人に関係あるのだろうか。 くぎ 片足を釘で床に打ちつけられたように、考えは同じところでぐるぐる回るだけだった。 とりあえず、今夜はここまでだ。とにかく手掛りが出てきた。あの電話の男の言っている ことには、何か意味が隠されているのだ。 ひもにど 階段の下でせわしなく結んだので、途中でシューズの紐が解けてしまった。かがんでしめ なおし、顔を上げると、シル。ハ ー・グレイの車が一台、ゆっくりと交差点にさしかかり、児 童公園の前で停止するのが見えた。 124 かわい
はずだ。「誰か」は、キャビネットの中身まで始末したかったがために、ガソリンをまいた。 そして火をつけた。 どうやって ? この有様だ。「誰か」もその場にいたなら、けっして無事ではすむまい。 だからこそ、警察も自殺と判断しているのだ。 いったいどうやったんだ ? 橋本さんは僕に何を伝えたかったんだろう。またそれを思い出した。 今朝の電話だ。あれで何を話したかったのだろう。三人の女性の死が連続殺人であること るだけか、それともその方法までつかんで 今朝の電話。そこで思考が止まった。 っ この焼け跡はもうえている。爆発があったのはいつだ ? 四時計は二時十分で止まっていた。今、午後四時三十分を過ぎたところだ。あれは今朝午 ( 二時十分ということなのだ。 あれは橋本さんじゃなかった。橋本信彦の名前を借りて「誰か」が電話してきた。 突然、どやしつけられたように守は悟った。 たった一冊だけ残った「情報チャンネル」だ。もう一つの輪だ。四人の女性をつなぎ、三 わき 人の死亡の偶然性を否定する唯一の証拠だ。脇の下を冷たい汗が滑り落ちた。 あれはうちにある。そして僕は、橋本さんに、うちの住所と電話番号を書いたメモを渡し てあった。「誰か」はそれを知っている。知っているから電話してきたんだ。 245 ゆいいっ 月い
電話に頭をつけ、守は目を閉じた。 「さよなら、坊や」 ゆっくりと受話器を置く音が聞こえた。 私は返事をしないし、二度と帰ってはこない。 家への長い道のりのあいだ、守はおぼろな夢を見ていた。狂った地軸の上に立ち、出てく うさぎ るあてのない兎を待ってステッキを振り続ける、老いた魔術師の夢だった。 や は浅野家の玄関で倒れ、それから丸十日間、守はべッドから出ることができなかった。 術 肺炎を起こして、一時は人院を勧められる状態だった。高熱でうとうとと眠り続け、とき どき寝返りをうって何かつぶやいたが、そばについている浅野家の人たちにも聞き取ること ができなかった。 意識がまったくなかったわけではなかった。周囲の様子も、人の顔も、ぼんやりと見分け がついていた。大造、より子、額に触れる真紀の白い手。どうかするとそばに母がいるよう な気がして、起き上がろうとすることもあった。 むな 父親の顔は見えなかった。思い出そうとしても、指で砂をすくうように空しかった。 まくらもと 長い眠りのあいだ、枕元で交わされている真紀とより子の会話を聞いた。
「そうよ。事故の様子はどうであれ、娘さんが一人亡くなってるんだからね」より子は口元 を引きしめた。「示談のこともあるし」 むつつりと食事を終え、三人が帰宅すると、明りを消してある家の奥で電話が鳴っていた。 かぎ より子があわてて鍵を開け、真紀が走って受話器をとった。 「もしもし、はい ? 浅野でございますが」 こわば 瞬時に、顔が強張った。それで守にはわかった。 「姉さん、代わる ! 」 嶽う それより先に、真紀は受話器を放り出した。 や さ「いたずら電話だね」守はぶらさがった受話器を拾い上げた。もう切れている。 は「なんて言ってきたの ? 」より子は怖い声を出した。 「人殺し野郎って。女をひき殺したやつは死刑だって。あとは聞かなかったわ。酔っ払って たみたい」 「放っておきなさい」より子は背を向けて座敷に人っていった。まだ電話を見つめたまま、 真紀は訊いた。 「お母さん、昼間もこんな電話があったの ? 」 より子は返事をしない。 「お母さんたら ! 」 黙ったままだ。守はどうしようもなく二人の顔を見比べた。
しばらくためらってから、守は電話に近づいた。本体のカバーをあげると、マイクロカセ ットテープが人っている。 何か残っているかもしれない。 ペンライトで照らし、ボタンを押してテープを巻き戻すと、頭から再生した。 「森本です。急に旅行にいくことになっちゃったので、明日のゼミに出られません。帰って きたらノートを見せてね。おみやげ買ってきます」 ピー。次の声。 ち 神「もしもし、由紀子です。またかけ直すけど、このごろ留守ばっかりね」 女 な ピー。また別の声。今度は男性だった。 じゅくさかもと 不「橋田進学塾の阪本と申します。先日はアルバイト講師の募集においでいただいてありがと 章うございました。えー、一応、採用ということになりましたので、来週からおいで願えれば、 第と思います。お帰りになりましたらお電話ください」 ピー。また、男性の声。ひどく明るい調子で 「電話番号を変えたの ? 」 あの男の声だった。 間違いない。菅野洋子を殺してくれてありがとう。あの声だ。守は驚いて耳を澄ませた。 「たいへんだったでしよう。だけど、住所だって電話番号だって、その気で調べればわかっ ちゃうんだよ。。 こくろうさま。それと、つい最近、また古本屋で『情報チャンネル』を一冊 123
「でも、親父の事件が起きたときは、僕はまだ小さかったからね。何を言われてるのか、意 味もわかんなかったよ」 それから一時間ほどの間に、もう二本、電話があった。最初のものはヒステリックな女の 声で、交通戦争がどうのこうのとわめいていた。 二本目は、ちょっと変わっていた。若い男の声だった。 「菅野洋子を殺してくれてありがとう」 いきなり、そう言ってきた。せきこむような浮かれているような、うわずった声だ。 「本当にありがとう。あいつは死んで当然だったんだ」 や 驚きで返す言葉もないうちに、一方的に電話は切れた。 はなんてやつだ。しばらくの間、守はあっけにとられて受話器をながめていた。 術 十一時過ぎに、もう一本電話がかかってきた。 けんか 「いつもそんな喧嘩ごしで電話に出てると、女の子にふられるんだからね」 あねごだった。守は笑って謝った。 「今日はどうもありがとう」 「切り抜きを捨てたこと ? あんなの当然よ。それより、あたしさ、あとで三浦をとっちめ てやりに行ったの。そしたらあいつ、馬鹿にしてんのよ。アリ。ハイがあんだって」 「アリ。ハイ ? 」 「そうよ。あいつ、毎度のことだけど、今朝も遅刻して来たじゃない ? 教室に人る前、正 おやじ ばか
235 「どういう発想してるんですか」 そこへ、高野を欠き、現在は書籍コーナーの事実上のチーフになっている女史がやって来た。 「ごくろうさま。交代するからお昼にしてね。午後からは倉庫で検品をお願い」 あみださま 「阿弥陀様、お助けを」と、佐藤が言った。 佐藤と二人、カフェテリアで昼食をとったとき、守は橋本に電話をかけに立った。抽選コ ーナーにいるときより子から電話があったそうで、伝一一口をもらっていた。 「今朝、日下君が家を出るのと人れ違いに、橋本って人から電話があったんですって。かけ ななおしてくれるようにつて」 橋本信彦が、何の用だろう ? 章 四電話は話し中だった。時計を見ながら二分おきに三度かけ、ツー しに、守は受話器を戻した。 「すぐ会いに来てくれないと絶交よ ! 彼女か ? 」佐藤はにやにやした。 「そうです。でも平気ですよ、何度も絶交してるから。あとで仲直りするのが楽しいんで 「ヒャヒヤ、おみそれしました」佐藤は深々と頭を下げた。「いいよなあ。そこへいくと俺 なんか自由人だから、旅から旅の風まかせ。とめてくれるなカワイコちゃん ! 」 「今度の正月休みはどこへ行くんですか」 ツーという音の繰り返