スーパーカー - みる会図書館


検索対象: CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号
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1. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

、いマ 小中学生かこうしたスーパー・スポーツ・カーを買えるはずもなく て言ってるの ? これからは xx だよ′ハ、いつまでも〇〇だと笑われるせ プームを彷彿とさせるように威 風堂々と並んだ、ポーラ、メラ この時期イ共達にモテたい ( ? ) 一部の大人達か、こうしたクルマを などど、まだ渦中にいる人を引き出してしまう人、またそういう振舞 クの 2 台のマセラティとフェラ 購入したこともあり、ランポルギー いをすることに生きがいを感じている人まで存在するから、プームか フェラーリ、マセラティとし、 ーリ 365BB 、ポノレシェ 930 ター ボの各スーバーカー ったクルマ達の輸入台数も異常に増加した。当初はこうしたエキゾテ 下火になってから、冷めるまでの勢・いは並みではない。 ィック・スポーツ・カーがその対象であったか、末期になると何でも この、、プーム・シンドローム″はクルマの世界にもしつかりと巣く っており、、、 BMW プーム′′、、ハイソカー・プーム′′といったものか拵在 かんでもスーパーカー扱いとなってしまい、当時予供達の間て大人気 するか、 , このところのクルマ界の最大のプームと言えば、今から 12 だったスー / く一カー・カードの中には、 MG ー B やモーガン、 BMW633 年ほとなに日本中を巻き込んだスーパーカー・プーム′′に止めを刺 CSi 、ビュイック・スカイホークなどまでが含まれてしまい、スーパー すだろう。この不思議な日本的造語によるプームの火付け役となった カー、イコール外国車といった月さえ漂ってしまうに至った。 のは、 ' 74 年から週刊少年ジャンプに連載された、池沢さとしの、、サー さて、その頃、プームの只中にあった青少年達も現在では 2 30 才 前後になり、多感な時代にそのようなエキゾティック・カーの洗礼を キットの狼′′だった。このマンガが小中学生の間て爆発的な人気を得 それを煽るかのように、自動車染観志のなかにその類いのクルマを特集 受けた影響は少なからず残っているはすだ。今でも、その類いのクル するものも出てきた。そして、街を走るスーパーカー達はまさに銀幕 マに乗ることを夢見ている人、また財力が付き既に自分のものとして 所有し、さらに深く趣味を堀り下げている人、あるいは現代のスーパ のスターになってしまった。そんなエキゾティック・カーに憧れた少 ーカーとも言えるフェラーリ 2 8 8 G T 0 、 F 4 0 、ポルシェ 9 5 9 などへと 年達は、週末ごとに外車ディーラーにカメラを持って押し寄せたもの 志を変えている人、さらにはそれを起点にヒストリックあるいはヴ である。 インティッジへと移り、病膏盲のクチと、スー′く一カー・プームはさ これに目を付けた大人達は、スーパーカーの写真集をはじめ、レコ まざまなクルマ趣味を派生させて現在に至っているように思える。 ニチュア、プラモデルなと布場に次々と導入し、火 ード、カード、 その時代を通ってきたわれわれも、御多分に洩れず、今この種のク に油を注ぎ、日本国中一丸となってプームに走った。デパートなども ルマに出会っても、一種の憧景を覚えてしまう。今回は、そんなとき これに便乗し、スーパーカーと呼ばれるエキゾティック・カーを屋上 等に展示するといった客集めを行ったり、ついには後楽園球場で、、ス めきを再ひ誌上で感じ、スーパーカー・プームとは一体イ可だったのか、 ー″なるイヴェントまでが開催されるほと嚀態はあ またスーパーカー・プームの残していったものは何なのかを探ってみ ーノく一カー・、 / ヨ よう、ということになったのである。 っという間に発展してしまった。 所百ⅲ

2. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

R C A R P S C Y N D R 0 M E 我々のスーノヾーカー・フム考 自動車生産国としては今世トップを行く日本だかその歴史はまだ浅い。さら ーにか紹介してあるので、懐しんでいただきたい。 に文化面になるとまだまだ欧米に比して遅れているといわねはならない。その趣 さて、われわれ CAR MAGAZINE のスタッフも御 昧性はになってようやく社会的に認められつつあるぐらいなのだ。そんな発 多分に漏れすスーパーカー・プームを多感な時代にく ーの文化の中で、スーノヾーカー・プームのは何んだったのだろうか。 ぐり抜けてきた世代が多く、やはり各々がそれなりの いつのころからスーノヾーカーなどというイく思、言義なこ 2000GT やスカイライン GT ー R までもが、読む少年達 景彡響を受け、自分なりに消化しながらクルマから離れ とばが日本で生まれ、小中学生の間に蔓延したかは、 にとっては、まさに現在で言えばアイドル・スターの られすに今日まて生き続けてきている。 今となっては定かではない。 ' 74 年に確かに少年ジャン ような存在だったのである。スーノヾーカーということ 例えば、とくにその頃そんなクルマには興↓床がなか プで池沢さとし氏の、、サーキットの狼〃の連載が始ま ばもそれがアイドル化されるとともに普及し始め、少 った、というへソ曲りもいるか、、実際にはそれはど詳 ったのか、きっかけといえは、きっかけだったようだカゞ、 年達の、、オッカケ〃か始まった。カメラを胸にプラ下 しく知る機会がなかったエキゾティック・カーに対す やはり、それが全国的に燃え上がる背景は確かにあっ げた少年の群れが、ユースト・カー・ショップや輸入 る知識をそのおかげで数多く得ている、という者もい た。 60 年イ弋後半、生活にも少しつつ余裕が見えてきた 車ディーラーの店先に出現し、社会風俗としてマスコ れは当時カメラを持ち歩いた音頁で、いまだにそのテ 経冫用青勢のなかで、日本のメーカーはそれまでエンジ ミて取り上げられることもしばしばだった。 のクルマを見るとうっとりとしていれあげ、欲しくて ニアか、ひとつの夢として熟成させていたスポーツ・タ この頃、プームに乗って糸冓数多くのエキゾティッ たまらなくなる、という厄介な者までいる。さまざま イプ・カーを次々と現実のものとしていった。つまり ク・カー達が入って来た。そしてそれらは、カメラを ではあるが、大きな意味でのクルマに対する感情の中 スカイライン GT ー R 、セリカ、三菱ギャラン GTO な 持った少年達ばかりでなく、エンスージアスト達の目 に、多かれ少なかれそのプームの波紋は残っている。 どが出現し、自動車先進国といわれていたヨーロッパ にももちろん魅力的に映ったはすだ。そして、そんな ・・プーム〃というと後から落ちついて考えてみる や合衆国のスポーツ・カーに影響を大いに受けつつ、 人々に引き取られていったクルマ土は幸せだった。 と浮き草のようで後世に大したものも残さす、かえっ それまでの完全な贅沢ともいえる高価あるいは実用性 て悪い印象て、い起こされることが多いカゞ、スー / ヾー のあまりないクルマではなく、より身近なスポーツ・ カー・プームはコマーシャル・ , ヾースに乗り過ぎた軽 タイフ。か現れ、若者達の人気を得たのである。それま 薄な部分ももちろんあるにはあったが、その景彡響は意 での父親の借りもの的ファミリー・カーから時代の趨 外にも大きく、発展途上といっても良いわが国の自動 勢はスポーツ志向へと少しすっ転換していった。そし 車産業にもある程度のショックを与えたことは事実で て、雑誌などて紹介され始めた、アルフア・ロメオや あった。 - 今、世界的にもノ、一ドの面ではトップ・クラ B 、ハ、ポルシェ、フェラーリといったクルマに憧れ スになりつつある日本の自動車界において、文化面で つつ、国産のスポーツ・ヴァージョンて若者達は渇き の成熟がとりざたされているが、スーノ、一カー・プー を癒していた ムはそんな文化に対する考え方かオ上会的に現れてくる ところが、 70 年イ弋に入ってますます厳しくなるエミ 以前の重要なェポックだったのではないだろうか。そ ールに、国産スポーツ・ユニット ツン - ョン - ・コン - トロ 各自動車雑誌や少年雑誌では、そうやって輸入され れを期に、クルマをとりまく環境が少しづっ変わって は牙を抜かれ、スポーツ・モデルの存在さえ危ぶまれ たクルマでグラビアを飾り、専門誌ではそれらの最高 きたことは否定できない。 るようになってきた。それまで、最高速や加速性能な 速や発倒川速を競ってテストし、そのパワーをひけら それほど、日本の自動車界を社会をも引き込んて揺 ど、動力性能に楽しみを見出だしていたマニアと呼ば かしていた。動力性能があたかも金字塔のようにその るがしたクルマ達の正体はどんなものだったのだろう。 れる人々は少しつつ行き場を失いつつあった。再び、 クルマの評価を決め、子供達はカタログ・データを暗 もう一度、スーパーカー・プームを作り上げたスター ヨーロッパの高性能車への思いか募りはしめ、輸入ス 己することを争ったものだった。わが国には勺な 達を見直してみよう、というのが今回の企画の発端で ポーツ・カーか、異次元のスターに見えるようになって スピード制限があるにもかかわらすパワー、トルク、 あった。いつものように冫静に 1 台 1 台を紹介すると きたのである。 最高速が、国産車においても重要な位置を占めている その魅力も個々について様々で、ヒストリーもスペッ そこに、件の、、サーキッ のは、この時イ弋の景彡響が今なお尾を引いているのでは クもパフォーマンスもそれぞれに素晴しいものを持っ ないだろうか。現在、各メーカーか、そのテクノロジー トの狼〃が出工ルロータス・ ているに違いない。しかしここではそれは重要ではな を誇りながら次々と出現させているスポーティ・カー ヨーロッノヾ、ポノレシェ 911 カ い。スーノヾーカー・プームの主彳殳だった、というひと やスペシャルティ・カーなどの購冗層の多くがこの時 レラ R S に始まる輸入スポ つのアイテムで区切り、何がそれほど日本国中を沸き 代のスーパーカー少年達と少なからす一致しているの ーツを中心にした夢牛吾が 立たせたのかを思い出してみたかったのである。 がその大きな要因のように思えてならない。さらに 始まり、実際に持てるはす 登場する、、スーノヾーカー〃は、ランポルキ、一 ・カ ボディにカタログカイ寸いているように もないクルマ達が、自分達の良く知っている道路を走 4 ノヾノレプだの ウンタック L P 400 、ランポルキ、一 ミウラ、フェラ インタークーラーなどの文字がべタベタと貼ってある りまわるのを毎週毎週かたすを呑んて言売みふけってい ーリ 365B B 、マセラティ・ポーラ、マセラティ・メラ たものである。池沢さとし氏は実に巧みにクルマを使 のもそのひとつかもしれない。 ク、ポルシェ 930 ターボの 6 台である。われわれの世イ弋 い分け、そのイメージをふくらませることに成功した。 そしてまた、フェラーリ 288G T O やポルシェ 959 な が強く印象に残っている代表選手を選んだつもりだ。 彼自身かオ目当クルマに対して詳しかったこともあり、 どという世界的なレベルでのトップ・クラスの性能を 現在のオーナー達は、それがスー / 、一カーと呼ばれよ 吾自身が全く荒唐無稽のものではなく、現実とから 持ったクルマの市場が日本に確実に存在し、事実何台 うカ剛乎は、れまいカゞ、各クルマに文ナす - る熱い思い入れは めて進んだストーリーは、、、少年ジャンフ”の部数を驚 もか輸入されるような状況も、スーパーカー・プーム 変わらないだろう。しかし、全員がそのプームを経験 異的に延はすことになったはどうけたのだった。 で花開いたひとつの日本クルマ文化の残影か現在に続 してきた人々で、当時のことはしつかりと記億の中に そこに、各々うまく組み合わされた個性を持ったド いているのではないだろうか。 ある人か殆どだった。現在、そのオーナーとなるに至 ライヴァとともに出演した、フェ とにかく、さまざまな現象がスーパ った糸は様々だろうけれど、少なくともスーパ ラーリ、ランポノレキ、一 ーカー・プームが引き金となって起こ マセラ ・プームがそのきっかけの一部ではあったという人 ティ、ランチア、デ・トマソ、ポ り、世の中にはそれに便乗した商売が もいるに違いない。やはりそれはクルマ「文化のひとつ ルシェ、ロータス、そしてトヨタ 多く現われた。これは、第 3 章にその の始まりを意味するものだったのではないだろうか。 LAMBORGHINI 一三ロ

3. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

ト -0 。 000 今、スーパーカー・プームを振り返ってみて、現在の日本のクルマ 文化あるいはクルマの世界に生き続けているその波紋の大きさを あらためて思い知らされた。クルマ社会の隅々にまで浸透し、現在起 きているさまざまな現象の方向性のいくつかはその時代に確立してし まったものさえあるような気がする。そのひとつは、ランポルギー カウンタックやミウラへの現在の人ヾしめすように、当時童景か 現在の趣味へ移行し、実際にそのクルマと生活をともにできるように なった人々か実に存在することである。イタリアン・エキゾティッ クをそれなりに評価し、そのクルマの良さを理解し、独自のスーパー カーの世界を展開しているのだ。プームの日 t に闇雲に輸入されたク ルマ達も現在そんな人とともにあれば幸福この上ない余生あるいは本 来の人生を送っているはすだ。また、スーパーカーに当時全く興味を 示さなかった人々にとっても、日本にその類いのクルマが少なくはあ れ残っているという彳あを症の恩恵にあずかって、再ひ触自のエキゾテ ィック・カーの世界を築き上げているエンスージャストも居る。そし てまた、さらに大きな範囲で考えるならば、現在の国産車市場に見ら れるスペック重視、主義にも結びつけられるのではなかろうか。これは 市場からのフィードバックとしてメーカーにまで影響を及ほ、し、カタ ログ・データがそのクルマ面値を大きく左右するかのような傾向が あり、ボディに誇らし気にそれを描き入れるクルマさえ現れている。 一方、この晰忙は純粋にクルマをひとつの趣味あるいは実質的な走る こと以外のアイテムとして一般的に位置づけられた最初の時代だっオ 今、凄じい勢いでわかのクルマ文化の歴史は刻々と作られている。 その文化の開花としては寂しい部分もあるが、最初に書いたように 大事にしなければならない工ポックだったことも確かなのである。

4. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

スー / ←カーを集めて当時を偲ぶ A R C Y N D R 0 M E スーバーカー・プームの風に多かれ少なかれ当てられたわれ われか、当時に思いを馳せて選んだ 6 台のクルマを紹介する。 ここに登場するクルマ達はどれもが皆オーナーに愛され、今 も元気で走っているという晶者はかりである。昔は気づか なかった弋のクルマにはない魅力か辛羊に迫ってくる。 0 Ⅷ淤 0 今見ても充分に未来的なカウンタックはや はりスーバーカー・プームのスーバー・ス ターといえるランボルギーニだ。大きなド アを祉けてとカウンタックに乗る 自分を夢見た少年はどれだけいただろう。 スーパーカー・プームにおける文字ど むには相応の慣れを必要とするから、 おりのスーノヾー・スター的存在だったの れはどめだっクルマで街中に乗り出し、 , 、に登場するランポルギー ・カウ スマートに乗り降りするためにはかなり ンタックである。同しランポルギーニ社 の練習をせねばならないだろう。また、 の尖兵、ミウラの跡を継ぐミドシップ・ サイド・ウインドーなどは高速道路のト スポーツとして華々しくデビューした ール・ゲートて料金を支払うための最少 とでセンセーションを巻き起こしたこと 限のみしか開かす、実用性は殆ど無視さ も事実だが、そのスーパーカーとしての れているといってよい。 大きな人気の秘密は、何といってもカロ ホイール / タイヤの太さも、その頃の ツツェリア・ベルトーネによる近未来的 スポーーツ・カーの基準からしても恐しく なスタイリングにあった。如何にも前衛 太く、フロントは 7 . 5 J のホイールに 205 的で、鋭く薄いボディには、フラットで VR14 、リアが 9 J のホイールに 215 / 70 大きな面積のウインド・シールド、ボデ V R 14 サイズか驃準仕様というものだっ ィ各部に配置された様々なデザインのェ たのだ。 ア・インテーク、そして直トに跳ね上が フェルッチオ・ランポルギーニカヾ何故 る大きなドア、などなど数々のスーパー 自らスポーツ・カー・メーカーを設立し な部分か光っていた。 たか、という逸話はよく知られているが L P400 の L (longitudinal) カぐ示すよ ランポルギーニの対向と目するフェラー ミウラと異なり、縦置きに ドシ リに最高速で果敢に挑戦し、世界最速の ップに搭載された 60 。 V 型 12 気筒の 4 カム ロード・カーを狙ったが、僅か 2km / h の シャフト 4 ュニットは 375H P を絞り出 差でフェラーリ 365B B にその座を奪われ - し最高速は 300km / h に達した。サスペンシ 涙を呑んだことは有名な話だ。 ョンはミウラと同しく当時のレーシング・ スーノヾーカー少年としては、これらの マシーンをも彷彿とさせる四輸ともダブ エピソードはまさに初歩的知識として、 ル・ウィッシュポーンとコイル・スプリ 彼らの頭にたたき込まれていた。 ングというレイアウトで、四輪べンチレ 今回取材したカウンタック L P 400 は、 ーテッド・ディスク・プレーキを持つ、 1977 年式で、ファクトリー・オプション というそのスペックはエンスージャスト のタイプ 1 というエグゾースト・システ をも充分に了させたものだった。 ムが装着され、 L P 500 用のフロント・ス ローラやフォード G T のようなレーシ ポイラーカゞ付いていた。 LP500 にはこの ング・スポーツのツイン・チュープ・フ 他、リアに V 字型の大きなウイングか 3 旦 レームを思い起こさせる幅の広いサイド・ 加され、さらに ; 第未を加えているが、当 シルをまたいで低いコクピットに潜り込 時の L P 400 のオーナーの多くは、より新 MB RGHIN

5. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

0 ・ 70 / ランポルギー ミウラ S ・全長、全 幅、全高 : 4360X ロ 60X 田 55mm ・ホイールペ ース : 2500mm ・車重 : 田 40kg ・エンジン形 式 : 水冷 v 型に気筒 DOHC ・総排気量 : 3929 cc ・最高出力 : 370HP / 7700r. p. m ・最大トル ク : 39.5kg - m / 5500r. p. m ・最高速度 : 280 km / h 以上・価格 : に 00 万円 ( 発売当時 ) ランポノレギーニ・カウンタック L P 400 と共に、スー / ヾーカー・プームの際にそ 両者のマキシマム・スピードが実際に の頂点に立ったのカゞ、フェラーリ 365GT 出る出ないは別としても、 2km / h の差と 4/B B ( プーム途中で弔ト気量をアップ し、うの一ま、クノレスアのコンテ・イション - や天 し、 512BB へと発展している ) であった。 候、気温、 . 卸向きなどの要因で、いとも カウンタックのように、宇宙的なスタ たやすく逆転する可能性がある、事実上 . イルや、派手な跳ね上げ式のドアといっ は無意味や値と言えるはすだ。しかし、 た少年達をワクワクさせるようなギミッ それにこだわり、たとえ 1 km/h でも良い クには少々欠けたかもしれないが、その から、ライノヾルを上回わりたい、という マキシマム・スピードの 30 m / h は、カウ あたりにフェラーリのスポーツ・カー ンタックのそれを上まわり、世界で一番 メーカーとしての意地が感しられる。 速いロード・ゴーイング・カーの名を欲 その名称に付く B B ( ベルリネッタ・ しいままにしていた。 ボクサー : クーべと水平対向の意 ) が示 当時の本やカード、レコードといった すように、風洞でのデーターにうらづけ ものを見ても、その主役はこの B B とカ られた空力を重視したクーベ・ボディに ウンタックであることか解るし、スーノヾ 搭載されるのは、それまでの V 型を開い ーカー・プームにそれ程ドップリとひた たとも言える、水平対向 12 気筒 DOHC フ っておらす、スペックなどには見向きも ニットで、ボア・ストロークや総ト気量 しない少年であっても、世界一まいクル は V12 ユニットと共通の 81X7 蚯 m 、 マの名前イ立は覚えていたはすだ。 4390CC だカゞ、ノヾワーはデイトナの 352H P 常に世界のトップに自らを置いておき から 380HP へとアップしている。他のス たいフェラーリと、それを越えたいラン ーパー・スポーツ同様、ミドシップ・レ ポルギーニとの争いは、そのスタート時 イアウトも採用された。 の話もさることながら、その後も熾烈を サスペンションはフェラーリ得意の 4 極め、ミウラに対抗すべく出した 365GT 輪ダフつレ・ウィッンユポーン十コイノレの B/4 デイトナが、 ' 71 年春のジュネーヴ・ 独立懸架だカ { 、リアのコイル・ダン / ヾー・ ショーでべーノレを脱いだカウンタックに ユニットか左右に 2 本すっ与えられてい 打ち負かされたことを知ると、密接な関 る点が目新しい。 ミドシップ・レイアウ 世界→いクルマとして、スーパーカー 係にあったピニンファリーナとその風洞 トと相俟って、マキシマム・スピードだ プームの際にトップ・スタ—O 地位を得た の手助けを借り、半年後のトリノ・ショ けでなく、その操性も一級のパフォー ーに、わすか 2km / h ではあるがカウンタ 365GT 4 / BB は、フェラーリの歴史に残 マンスを誇るものとなっており、名実と ックを上まわるマキシ・マム・スピードを もに、スーパーカーの名に恥しぬ内容を るエボック・メイキングな 1 台であった 発揮する BB をデビューさせたのであっ 6588

6. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

を O, ) , 朝 先に述べたようにイタリアン・エキゾ ティック・カーの中でも、言わば玄人好 みのマセラティは、スーノヾーカー・プー ムの渦中にあっていささカ寸末な存在だ ったカゞ、ランポノレキ、一 ・ウラッコ、フ ェラーリ・ディーノ 308GT4 に対・抗する モテフレカゞ、このマセラティ - 最 / トのメラク であった。 ェクステリアを一見しただけではマセ ラティ・ポーラとの区別はつけにくいカま それもそのはすメラクは、ポーラに搭載 されていた V 8 ェンジンを同社で開発を 行ったシトロエン S M 用 90 。 V 6 、 D O H C 工ンジンに積み換えた事実上 . の兄弟車 である。工ンジンを小型化したことによ り生したスペースには、リアの十 2 シー トが置かれたほか、ジウジアーロ・デザ 基本的にシャシー、ボディがポーラと共通のメラ インのボディには僅かに手かカロえられて クのミドには、 V 8 工ンジンに換えて V 6 工ンジ いる。 ンと十 2 シートが置かれる。メラク S S は、圧縮 今回登場原頁ったマセラティ・メラク S 比を高め、ひとまわり口径の大きなウ工ーバー 44 DCNF を 3 連装したシリーズ最走モデル。 S は、スーパーカー・プームの初期にあ たる 1975 年のジョネーヴ・ショーでデビ ・ 79 / マセラティ・メラク S S ・全長、全幅、 全高 : 4335 x ロ 68 X Ⅱ 34mm ・ホイールペー ューした高性能版で、圧縮比を高め、キ ス : 2600mm ・車重 : ロ 50kg ・エンジン形式 : ャプレターの口径を拡大したことにより、 水冷 v 型 6 気筒 DOHC ・総排気量 : 2965CC ・ シリーズ最高のノヾワーと、マキシマム・ 最高出力 : 220HP / 6500 「 . p. m ・最大トルク : 27.5kg ー m / 4500 「 . p. m ・最高速度 : 250km/h スピード 248km / h を得た。しかし、耳年 ・価格 : 田 80 万円 ( 発売当時 ) 増となりつつあった少年達は、 リアにガラスの入ったポーラは : 一本にオ 細いデーターには驚くはど詳しく、たと ットリとした印象を見る者に与えるが、 えばメラクとメラク S S 、そしてポーラ のノヾワーの差、ボディ・テ。ザインの違い ピラーだけのメラクは工ッジか第力いて戦 闘的なイメージを持つ。このボディの中 などを実によく嗅ぎ分け、お気に入りの に 2 十 2 のシート ( もちろん決して広く スーパーカーを追求していた。 取材当日は実際にポーラと並べて、そ はないカ { ) か納まっているとは、俄には のデサインの差を見ることが出来たが、 信しられない程、そのスタイルはきれい にまとめられている。 2 十 2 モデル中最 一見似て見える両者も、斜め後方から見 も魅力的だと考えるのは僕だけだろうか。 ると大きく異なった印象を持っている。 今日の目で見ても充分に魅力的なテサインのボテ ィには、プラス 2 名分の座席カする。走りと 実用性を兼ね備えた 2 十 2 の中では、最もスタイ リッシュで魅力的なかこのメラクだった。

7. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

S U P E R C A R C Y N D R 0 M E 6 、摩 3 引 ち 82- ・ ' 78 / ポルシェ 930 ターボ・全長、全幅、全 スーノヾーカー・フ。ームの′く一スはあく 見ているだけで、いかにも血沸き肉躍 高 : 42 引 x ロ 75X ロ 20mm ・ホイールべース : までも一殳公道上で、そのスタイリング る派手なイタリアン・エキゾティック・ 2272mm ・車重 : Ⅱ 95 kg ・エンジン形式 : 空 と性能を競うものであったが、一音 ; では カーに代表されるスーパーカーの中にあ 冷水平対向 6 気筒 SOHC + ターポチャージャー ・総排気量 : 2993CC ・最高出力 : 260HP / レーシング・フィールドにも・屮床を見せ って、比較的地味な押し出しながら、そ 5500 「 . p. m ・最大トルク : 35. Okg ー m , / 4000r. p. つつあった。そうなると当時、グループ の圧倒的なスポーツ性能で、確固たる地 m ・最高速度 : 250km / h ・価格 : 田 30 万円 4 、グループ 5 などてツ王倒的な強さを見 位を築いていたのか、ポルシェである。そ ( 発売当時 ) せていたポルシェか、人気の対、となって の最高峰に位置するのがポルシェ 930 ター 久し振りに乗った 930 ターポは、田年の歳月を全く くる。それまでも、わが国ではポルシェ 感しさせないパワーとフットワークを見せた。 ポだった の名は何故かポピュラーで、ディーラー もしつかりしていたから数多く走ってお り、より身近なスーパーカーとして少年 達の目にも映っていたのかもしれない。 その頃のポルシ工といえはやはり 911 だ った。そして、世界中のツーリング・カ ・レースを荒らしまわっていた 934 や 935 がそのイメージ・リーダー的存在となっ ていった。ターポチャージャーでフラッ ト 6 を武装し、太いレーシング・タイヤ を収めるために大きなオーヴァ・フェン ダーを張り出させ、フロント・スポイラ ーにはオイル・クーラーか取り付けられ た、レーシング 911 の姿は、レースに . 屮床 を持ち始めた少年達には最強のマシーン として頼もしい存在だったに違いない。 20 m / h を経験でき、ホットに過ぎない そのレーシング 911 を公道用にフィード・ 若干クールな魅力が、あまりに派手にな ノヾックさせたのか・ 930 ターポだったといえ ってきたイタリアン・エキゾティックに よう。したか・つて、 930 ターポは、ノーマ 文ナる一服の清涼剤でもあった。 ルの 911 とは異なったポルシ工として、充 ポルシェの人気は、スーノヾーカー・プ 分にスーパーカーに太カ打ちできるクル ーム以前も、それ以後も根強く、連綿と マだったのである。 続いていることが、ポルシェの性格を表 まだ市販車にはターポチャージャーが わしている。その反面、プームでの盛り ーヨ殳的でなかった頃、 BN ハ V2002 ターポ ーヒカ { りは、ランポルギーニやマセラティ、 に続く 930 ターボのデどューは強烈だった。 カレラ 3.0 にさらに 60HP の / ヾワーを 1 緲川 のようなわけにはいかなかった。 久し振りに 930 ターボに乗ってみて感し し、 260HP から引き出される動力性能は たのは、 70 年イ弋から全くといって変わっ もちろん、ノーマル 911 よりさらにひとま ていないスタイリングとインテリアとと わり太いホイール / タイヤを履くために もに、そのフィーリングカ見在のターポ 934 のイメージをオーヴァラップさせるか と同しで、まさにエヴァグリーン 911 とい のように大きく膨らんだフロントとリア うことだった。それは、裏を返せば当時 のオーヴァ・フェンダーと大きなリア・ のクルマとしては驚くはど進んでおり、 スポイラーが大きな魅力となって、少年 派手なルックスではなくメカニズムで勝 達の目を奪ったのである。 負というところに、今も昔もポルシェに それまでのポルシ工と同様、 930 ターポ 何となくスーパーが漂う所以なのだ。 も実に無表情ながら、呆気なくオーヴァ 上は今も殆ど変わらない 930 タ ーボのコクヒットとリアに搭載さ れたターボ・ユニット。当時のカ レラより高い 260HP を発揮し、ーを若干越えるボデ イを 250 / , まで引っ張った 930 す URBO イタリアン・エキゾティックのように表肩は豊か ではないか、実にクールにオーヴァ 20 m / h 界に引でくれる朮レシ工と 93 ー朮寺 の鋭さを感じさせるスーバーカーだった。

8. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

A R C Y N D R 0 M E ま 第 今、あの小物たちは何処に・・・ プームは自然に起こるものではなく、造り上げられるものである。 少年マンガ誌でまかれた種は、雑誌やテレビによって大きく育てられ、日本中の 少年たちをまたたくまに飲み込んでいってしまった。 ここではプームの種とその成長を助けた品物等を紹介していこう。 絵より写真を / 文字より音を / とエスカレート。 プームの火に油を注いだのはや はり、卆隹え志やテレビといったマス 三 : トー ってスーパーカー特集を組み、ひ とたひ売れると解れば、後はもう 雨後の筍のごとく次から次へと増 刊号、写真集、カード、ポスター と各社から発行され、少年誌など も積極的に巻頭カラーで採り上げ ることとなる。 一方、テレビではスー / ヾーカー・ファ ンの子供達を解答者として集め、クルマ のエグゾースト・ノートを聞かせたり、 ー 5 分を見せて車名を当てさせる、、スー バーカー・クイズ〃なる番組も登場、番 組の後半ではスーパーカーが筑波サーキ ットを走る姿などをおりませた、解説コ ーナーなども用意されていたのである。 本やテレビだけではなく、スーノヾーカ ・カードも人気グッズのひとつだった。 オモチャ屋や駄菓子屋の店頭に、袋に入 ってヒモで束ねられていたこのカード ( お 店のオバチャンにお金を払って袋を引き 抜くが、中に何が入っているか解らない ところがミソ ) 、大当りラッキー・カード が入っていた土昜合にはそれを入れるミ アノレヾムがもらえるといった点し子供 の心をくすぐった。 コレクションしたり、交換したり、裏 面に書かれたスペックを当てたりと、そ の楽しみ方は様々だったが、この人気に 目をつけたのか製菓会社で、スーバーカ ・カード入りのスナック菓子なども出 現、世界の GT カー・スナックなるもの まで登場している。 しかしながら、ランポルギー フェ 行音を聞きたい人のために、スーバーカ ラーリ、マセラティ、ポノレシ工といった ・レコード ( シングル / L P ) 、カセッ メジャーどころが、そう多いはすもなく、 トといったものも数多く発売された。 おのすと車種は拡がりを見せ、ショー 日本国内でのサーキット走行音や、ェ モデルやモーガンやフィアット XI / 9 、ェ ンジン音だけでなく、中にはイタリアで クスキャリノヾーといった、、スーノヾーカー ランポノレギーニやフェラーリの - 工土昜・やモ の定義っていったいなんなの ? 〃と言い ーター・プールでの録音を取ってくる本 たくなるようなクルマ達までが含まれる 格派も存在し、 LP の多くは特製ポスタ ようになってしまった。 ーの付録つきであった。サーキットの狼 一方、そうしたビジュアルな面だけで の著者である池沢さとし氏もマンガと同 はなく、そのエグゾースト・ノートや走 名のレコードを発売している。 写真集・カード・レコード サ・スーバーカー " 第 3 SUP ER AR これがのス・ - バーカーだ〃 ランポルギーニ vs フェラリ ~ ←カー 3 世界の自動東総力タログ ? 77 年版 秋田書店 ! 第価ー円 震ーー旧 - △ 5 をヨ。議 N

9. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

スーバーカー・プームを引き起 ク、デ・トマソ・バンテーラ、ランチア・ を こすキッカケを作った、と言われ ストラトス、ジャガー E タイプなどなど、 ているのがこの、、サーキットの狼〃 およそ考えっく総てのスーパー・スポー である。池沢さとし氏のべンによ ツ・カーか誌面を駆け回わる。 、、逆ドリフトハ匐の多角形コーナリング〃 るこのマンガは、 ' 74 年から週刊少 年ジャンプに連載され、小中学生 といった運動力学を本艮底からくつがえす に絶大なる人気を得た。 ようなテクニックの登場、 20 m / h オー 物語は、ロータスの狼と呼ばれ ヴァで走行するクルマのドライヴァ同志 る一匹娘の走り屋、主人公の ) 鄭欠 が会話してしまう、クラッシュしたクル 裕矢が、彼に勝負を挑むライバル達と熾 マが必要以、上に爆発炎上してしまう、と 烈なバトルを繰り広げつつ、数々の公道 いったいかにもマンガらしいところを見 レース / / 公首グランプリ、ノレ・マンとモ せる反面、クルマの紹介、メカニズムや ナコ G P を模した長距離面寸久の流石島レ ドライヴィング・テクニック、用語など ース、ヨーロッパの F3 などを経て、最 の解説が入ったり、ロータス・ヨーロッ 終的には F 1 日本グランプリてイ憂勝する パはスタビライザーを打ちやすい、ラン という内容で、単なる街道レーサーから ポルギーニはワークスとしてレース活動 一流レーサーへのサクセス・ストーリー に参戦したことがないから、実戦でトラ と言えるものだ。素晴しい性能を持った プルが起ってもしかたがない、といった スーパーカーを意のままに繰つり、思い マニアックな表現も登場し、ある程度高 切り駆ける、という少年達にとっては正 年令の人力売んでも、異味を持てる内容 に夢カ疑縮された世界であった訳だ。 となっていた。 また、登場するクルマ達の顔振れもす また、公道レースてイ憂勝した主人公に 義兄でプロ・レーサーの飛島ミノルが、 さましい。主人公の最大のライバルであ る早瀬佐近がポルシェ 911 カレラ R S/ 公道て飛ばすことのこわさ、おろかさを 教え、サーキットて本当の狼となるよう 930 ターボ、悪役のヒ。ーターソンがトヨタ 2000GT / BMW3. OC S L 、主人公の に諭したり、物第吾と平行して実祭にライ センスを取得する方法などの紹介を載せ 師であり、義兄でもあるプロ・レーサー るなど、読者 ( 特に実際に免許を持って 飛鳥ミノルカゞランポノレギー ミウラ、 そのイ也、、マの黒ヒョウ″の黒いカウン いる人間 ) にモータースポーツへの参加 タック、フェラーリの女豹〃のフェラー を呼びかけるような部分も存在している リ 308G T B 、マセラティ・ポーラ / メラ のカ寺 f て、あった。 フムの火の手は少年マンガ誌から上った。 3 自動車界空前の大ブームとなっ ルをウリにしてたがいに競い合った。ま たスーノヾーカ = ・プームをプラモ た、他社にない車種を、ということで、 通常ならます製品化されないショー テフレ・メーカーやオモチャ・メー ・モ カー、「丈房具メーカーが . すは デルなどまで登場している点が面白い。 すはない。 文房具についてもかなりの種類か製品 プラモデノレ・メーカー各ネ土は、 化されている。スーバーカー下敷、スー 熱むにスーバーカーをモデノヒし、ドア・ バーカー色鉛筆にはしまり、筆入、ノー オープン / リトラクタブル・ヘッドラン ト、メモ帳 etc. カードのように数多く集 フ。上爿 . 、点灯 / デタッチャプル・ルーフ める訳にもいかす、皆自分の一番好きな etc. といったメカをウリにしたり、デカー クルマのそれを選ひ入したのである。 中でもユニークだったのはスーノヾーカ ー消しゴムで、これも各モデル作られ、 なかなかのプロポーションを持つものも あって楽しませてくれた。使用している うちにスタイルか変ってしまうのは御愛 敬といったところか。 手おいのの巻 波紋はスーノヾーカーよ りも素速く加速する。 文具・プラモテル

10. CAR MAGAZINE(カー・マガジン) 1988年2月号

R 0 M E C Y N D S U P E R C A R できる。レーシング・カーのように前後 えるほどに無駄を省いたボディをまとっ レーシング・カーの世界でこそ大ノヾワ ェルッチオの演出か、はたまた実際に て出現したときは、前年にも増して話題 をヒンジにして大きく一一イ本で開くフロン こドシップが大活躍をしていたが、 の時点でまだボディ・デサインが決まっ をさらってしまったものである。 トとリアのカウルを開け、その中に美し ていなかったかは、定かではないカまと 本当のロード・ゴーイン ZCJ T としてミ ドシップ・レイアウトを採用した最初の ミウラは、スーパーカー・プーム以前 く仕上げられた横置きの V12 気筒を見た にかく 1965 年のトリノ・ショーに訪れた とき、ミウラの力は最高潮に達した。 人々を惑わせたことは事実であった。当 の 60 年代中頃にデビューしたスポーツ・ クルマということで注目を浴びたのがラ カーで、すでに当時はカウンタックがそ ミウラだった。正式にデ 時、ランポノレギーニ社もついにレーシン ンポノレギー の跡を継いでいた。従って、そのルック グ・シーンに打って出る、というまこと ビューする 1 年前にポックス・セクショ しやかな噂まで流れたこともあった。そ スはカウンタックに比べるといくらかク ンのスティーノレ・ノヾイフ。て、系且んだフレー ラシカルな一面を持っていたか・、かえっ ミドシップ・レイアウトは実 ムに、ダフつレ・ウィッシュポーンとコイ れはどに てワイルドな性格 ( これは日本では殆ど 用化の入口にあり、またランポルキ、一 ルの四輪独立懸架のサスペンション、そ の人か経験したことがなかったから、ワ の 4 カム V12 気筒がコンペティテイウた、 して、 4 基のトリプル・チョーク・ウェ イルドそうに見えるとでも言った方が良 ったということだった。 ーを備えた V12 気筒ユニットを横置 いかもしれない ) を誇示するようで、そ その翌年の同しトリノ・ショーで、若 きに搭載したべア・シャシーのみで、ラ れカ鮖更派の 1 台として人気を博する要因 き日のジョノレジオ・ジウジアーロの手に ンポルキ、一ニは人々の前に登場させて驚 なる、これまたレーシング・カーとも思 ともなったのだ。 かせるという手法を取った。これが、フ この性能とセミ・レーシング・カー的 なシャシーを生かして、ランポルギー はミウラのレース仕様を 1 台造り出した。 そのクルマは、、イオタ〃と呼ばれ、もち ろんわか国では実物を見ることができな い幻のレーシング・ミウラとして、少年 達の憧れをさらに増長したのだった。 西ドイツのランポルギー ・丁。ィーフ ーが 8 台のイオタ・レプリカを造ったの は有名で、世界各国のエンスージアスト の手に渡り、現在も何台かか生息してい る。また、その後もミウラをベースに数 多くのイオタのレプリカが造られ、スー バーカー・プーム時代、わカ魍にも何台 かのイオタ仕様か現われ、驚かされたの を覚えている。 ここに登場してもらった 1969 年生産の ミウラ S は、さるところに眠っていたも のをランポルギーニの愛好家が見つけ、 美しく仕上げたもので、オリジナル・コ ンディンヨンの貴重な 1 台といえる。 のクノレマも、スーノヾーカー・フ・一ムとい う流行に乗ってわが国に一日陸し、破れて いくエキゾティック・カーが少なくない なかにあって、幸福な 1 台ということが V12 をミドシップに横置きにし、無駄のな いレーシング・カーに近いボティを持つミ ウラは、クラシカルな一面とともにワイル ドな性格を漂わせる爪の 1 台だった。 [ い瓸 0 月 左はアイシャドーを持つ救的な可倒式ヘッドランプ。上 はイタリアを強く感じさせるコクピットと横置きの V ー乙