ほくてき 虜として北狄の国に連れ去られて、漢人官僚として生きることを余儀なくされてきた人間 の深い処世哲学が、『顔氏家訓』のいたるところににじみ出ていて、家訓というたてまえ をはるかに超えて、読みごたえのあるエッセーとなっている。とりわけ『顔氏家訓』にみ える学間観、文学観は、きわめて厳しい批判精神に満ちている。秕山康についても『顔氏家 訓』の勉学篇に、こんな批評文がある。 あわこうどうじん わざわ 秕山叔夜は俗を排して禍いを取る。豈に和光同塵の流れならんや。 あれほど老荘の学を好み、老子の哲学を身につけて、養生術に打ち込んだ秕山康が、「俗 を排して禍いを取る」結果を招いたのてある。岱康は自分にたいして潔癖すぎるぐらい潔 癖てあった。それだけに他者にたいしてもそうてあったのて、権力者に憎まれ、刑死とい う悲惨な運命をたどったのてある。こうした生き方をした秕山康を、顔之推は「和光同塵の 流れ」にある老子流の生き方を体認していたとはいえないと、批判したのてある。ありあ まる英智と聡明さをそなえていた康だが、自分の英智や聡明さを内につつんてやわら げ、世塵に生きている俗人衆人のなかにとけこみ、その人々と苦楽をともにする老子流の 思想が彼にはいまだ会得されていなかったのだと、顔之推はみていたのてある。 192
孫子と老子の用兵思想 中国の古代の兵法家てある孫子も、水の柔弱なる特質にたとえて、用兵の極意を説いて そもそも戦さの態勢は、水のあり方に似ている。水の流れは高い所を避けて、低い所 すき へとおもむく。戦さの態勢も、充実した敵を避けて、隙のある敵を撃つ。水が地形に よって流れを決めるように、戦争は敵情によって勝ちを決める。だから、水に一定の 戦争にも不変の常態はありえない。敵の態勢に応じて変化しなが 形がないよ - フに、 ら、勝利を収めてこそ、絶妙な用兵ということがてきる。 これは『孫子』第六虚実篇のことばてある。これを見るかぎり、『老子』の水の特質を 説くところと、ほば共通する論理展開をみせ、その思念のかたちに同時代性があるように みえるが、老子と孫子の思想には、決定的なちがいがある。孫子は用兵の術をもつばら説 く兵法家てあるが、老子は用兵の術そのものに否定的な思想家てある。老子が不戦主義の 思想家てあったことは、『老子』の書の随所にみえるが、とりわけ用兵について説いた第
は、平和外交に徹して、極力軍事行動を抑制することになる。人間関係に適用すれば、 「不争」の徳は、自分を活かすことより、他者を活かすことを重くみる。他者を先にして 自分のことをあとにする。そうすることて、巧みに人を役立てて、結果的に他者から押し 上げられるかたちて、自分が上に立っことになる。だから「不争」の徳は、人間関係に置 き換えると、謙譲・謙遜の美徳となる。 老子は水の固有の質として、先を争ってみずからを押し出すことをしないて、おのずか らなる流れに身をまかせていく姿のなかに、「不争」の徳を取り出しているか、もう一つ の水の特質として柔弱さに注目している。老子は水ほど柔弱なものはないとみる。そのく せ強いもの、堅いものに打ち勝つものとしては、水に勝るものはないとみるのてある。そ こに老子好みの逆転の論理がある。強いものが強いのは当たり前てある。堅いものが堅い のはこれまた当たり前てある。べつに不思議なことても、奇異なことてもない。 逆転の論理が成立する余地はない。水の柔弱の質に、老子は逆転の論理があるとみている 、弱いものこそが重視される。そういう思考の世界があ のてある。柔かいものこそが尊く 柔弱だから、謙虚てあ って、逆転の論理が成立可能なのてある。柔弱だから、争わない。 る。柔弱な水は、争うことなく、おのずからなる流れに身をまかせて、低きへ低きへと流 れて いく。しかも人が厭がる低湿の地に居ることも平気てある。その水の特質のなかに、
ここて、漁父のいう「世間の流れとともに生きて、清濁に超然としている聖人」のあり 方こそ、老子流のタオの会得者てあり、「和光同塵」の心構えを体認した者の境地てあっ 屈原はそうてはなかった。彼は清らかな自分の心が世間の汚れをこうむるよりは、みず からの命を絶っほうがましだという気持ちが強くはたらいていた。それを知った魚父は自 分の舟を漕ぎ出しながら、屈原に歌いかけている。 も そうろう す わえいあら 滄浪の水清まば、以って吾が纓を濯うべし 滄浪の水濁らば「以って吾が足を濯うべし 「纓」は役人の冠についている結びひもを指すが、この歌の大意は、ものにこだわらず、 世の清濁の推移とともに生きてはどうか、そのなかてはじめてあなたの清らかな心が、さ めた心が生かされるのてはないかと、重ねて「和光同塵」の生き方を示唆して、屈原に翻 意をうながしたのぞある。 ーし力に生きるべきかという人生論として提起されてし ここて滄浪の水の比喩は、人間よ、、 るが、老子はさらに水の比喩を使って、政治論にまて展開させている。老子はまず大河と ほん
父性の「仁」と異なっている。感性のうえてのみずみずしさとあふれるような心のやさし さをたたえたことばのひびきが「慈」にあり、老子はそれに魅せられていたのてあろう。 やはり老子は天性の詩人てある。 老子は父性の強さを認めなかったわけてはない。むしろそれを認めたうえて、あえて母 性の弱さに徹しようとしたところがある。母性を女性と言い換えてもよい。女性の弱さを 水の弱さに置き換えてみてもよい。母性の弱さ、水の弱さに徹することて、父性の強さを 超える寛容の哲学、許容の哲学が形成されると老子は考える。彼女らが水のようにその弱 さに徹しきることがてきれば、もろもろの流れを集めるあの谿谷のように、すべてのもの を呑み込み、受け入れることがてきるようになると、老子はみている。『老子』第二十八 章のことばが、そのことに実に簡潔にふれている。 そゅう てんかけい つねとく 其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の谿と為る。天下の谿と為れば、常の徳離れ えいじ す。常の徳離れざれば、嬰児に帰す。 この章句のなかに、老子好みの比喩語が使われている。それは「雌」てあり、「」て えいじ ひんぼ あり、「嬰児」てある。「雌」は、牝母と同じ意味て、柔弱てあるが、ものを生み出し、は し、
〇信言は美ならず。美言は信ならず ( 第八 + 一章 ) まことのあることばには飾り気がないが、飾り気のあることばにはまことがないとい - フ 意味てある。 がくじ こうげんれいしよくすくな じん 『論語』の学而篇にある「巧言令色、鮮きかな仁」というのも、「美言は信ならず」に近 たんこ い表現てある。『老子』第三十五章に、「道のロより出ずるや、淡乎として味無し」という のは、「信言は美ならず」に限りなく近い。タオを会得した者のことばは淡白て、うまみ のないものだという。「信言は美ならず」は、真情のこもったことばは、飾りたてること がないのて、格別にうまい味はないというのだ ここて老子がタオにかなった人間について語ったところを要約すれば、飾り気のない素 朴なことばてまことを語ることがてきる者、博学ても多識てもなく、ものの本質を見透す ことがてきる知恵をもっている者、寡黙てあるが、善意に満ちている者などが、それにあ そう 莫し。言に宗有り、事に君有り。夫れ唯だ知ること無し。是を以って我を知らず。我 まれ のっと かっきぎよくいだ を知る者は希なれば、我に則る者は貴し。是を以って聖人は、褐を被て玉を懐く きみ たっと われ 126
ところが、老子のいわゆるすぐれた治者は、むしろ下降志向が強いほど立派な資格を有 することになるのてある。万物を潤すことをして、なお汚濁、低湿の地に身を置くことを こたいして、謙虚て、ヘり下り 辞さない水のような存在が、最高の治者てある。人民 ( っして指導者づらをしないのて、彼が治者として上に座っていても、人民は重いと感じな いし、彼が治者として先に立っていても、人民は邪魔だと思わないのてある。 江海、すなわち大河と海洋が百谷から流れ下る川の王者てある理由は、低い所に位置 してもろもろの川の流れを受け入れるからだ。だから百谷の王者てありうるのだ。そ れと同じように、人民の上に立って、これを統治しようとすれば、謙虚な態度て人民 にヘり下らねばならぬ。人民の先に立って、これを指導しようとすれば、自分のこと はあとにしなければならぬ。だからタオの聖人の統治のもとては、人民は少しも抑圧 を感じないし、聖人の指導のもとては、人民は少しの束縛も感じない。だからこそ、 天下の万民は、聖人を推戴して楽しんて厭わない。 それは、聖人が誰とも争おうとし ないから、天下の誰一人として、彼と争おうとしないのだ ゆえん よひやくこく 江海の能く百谷の王たる所以の者は、其の善く之に下るを以ってなり。故 、」うかい これ ゆえ ( 育く百
いのしし 文帝は 親外交て臨み、辺境の守備を堅固にして、遠征をせず、国力をたくわえることに、 っとめた。 文帝は、老子の田 5 想に共鳴し、「無為にして化す」という政治理念にしたがって、治世 につとめたまててあるが、その謙虚の美徳が民衆に落ち着いた暮らし向きの流れをつくる 一」 -AJ にたつこ。 えんこせい 十ノー、 文帝の皇后の竇氏も老荘的な生き方を慕っていた。晩年、竇太后が儒者の轅固生に これかじん して、老子のことを質問したところ、彼は「此れは是家人の言なるのみ」といって、老子 は下僕のことばにしかすぎないとけなしこ。 ナこれに激怒した竇太后はさっそく轅固生を ちょうさ まおうたいぼ 猪の入っている柵のなかに放り込んている。ほば文帝の時代の長沙の馬王堆墓から、 はくしょ 『老子』の帛書、すなわち布地に書かれた『老子』の写本が出てきたが、それが出土して も、少しもおかしくない時代てあった。 この文帝の政治をみても、「無為にして化す」とは、なにも政治的行為をしないのては なく、てきるだけ不必要な出費をせすに、民衆の生活がてきるだけ安定するようにみちび く政治のあり方をいうのてある。 老子は生きている とうし こ 8
「百谷の王」とは、多くの谷川の水を集めて、それを治める水の王者の意味て、老子が慣 たと お なせんこく 用する比喩語てある。『老子』第三十二章にも、「道の天下に在けるを譬うるに、猶お川谷 」もも 、」うかい の江海に於けるがごとし」とあるように、江海、つまり大河や海が、百の小川や谷の水を 集めて、その王となることがてきるのは、江海が、百谷より低きに居て、ヘり下り、争う ことなく水の流れを受け容れるからてある。 それてなくても、老子の場合、「水」は常に、「不争の徳」をもつものの比喩として使わ ここいして、もちろん下流にある。これ れている。位置関係からみても、江海は、百谷 ( は、老子の思想の中核に、不争の徳Ⅱ下降志向が存在していることを意味している。江海 カ百合こたいしてその王たる資格を保証されているのは、この下降志向が抜きがたく存 在しているからてある。 せいか 儒教の考え方は、そうはなっていない。修身・斉家・治国・平天下の目指すものは、修 身から始まり、斉家の低きを経て、治国・平天下の高きにいたるまての上昇志向にある。 個の人間が賢者、智者として、仁義礼智信、あるいは忠孝の高いモラルを身につけること によって、はじめて修身・斉家がてきる。それが基礎としてあって、そのうえに治国・平 天下が実現可能だとする上昇志向てある。この上昇志向なくして、儒教が現実のものとし て実体化することはない。 タオのことば
この秦の始皇帝の全体主義的な政治体制を壊して、天下を掌握したのが、漢の高祖劉邦 てある。劉邦はそもそもが庶民の出身て、秦の圧制のもとて重税と賦役の苦しみを体験し てきただけに、 秦の政治に反感と憎しみをいだいていた。劉邦は粗野て教養はなかった が、ふところの深い寛容な性格てあった。だから、官吏が法の執行者としての権威をふり かんちゅうおう かざして、人民に酷薄な行政を迫ることに、 我慢がならなかった。劉邦が漢中王になっ たとき、領国内に通達した「漢中三法」が示すように、法律を簡素化して、法による強制 てはなく、人民の意欲の自発的な活性化をめざし、自然の流れにまかせて、経済活動を活 発化させる方向に導いた。その政治方針は、漢王朝の創始者として天下を統一したのちも 変わりはなかった。 これは、秦の時代の法治主義、全体主義的な政冶にたいして、自然に流れる方向に向か かじ って時代を進め、あまり規制を加えす、人民の欲するところに向かって、政治の楫取りを 進めていくやり方てあった。現代風にいえば、こうしたいやしの時代が始まったのは、高 祖劉邦の時期からてあり、つづいて二代皇帝の恵帝、三代の文帝、四代の景帝とほば六十 年間にわたって、それは引き継がれた。外国との戦争を極力避けて、内政につとめたの て、漢王朝の国庫は豊かになった。 こうろう、じゅっ このいやしの時代を支えた政治の思想があるとすれば、それこそ「黄老の術」ともいわ 1 ろ 7 タオに生きた人々