すが、 Be ( 接頭辞 ) 十 wußt ( 「知る」という意味の動詞の過去分詞のようなかたち ) 十 se 一 n (be 動詞にあたる ) と分解できます。ですから、「知られてあること」というほどの意味だとい うことがわかります。つまり、自分が何かについて知っていること、ということですね。 たとえばここにコップがあるわけですが、白いとか透明だとか底が丸いとか、私はここに コップがあるとわかっている、そしてコップを見ているということを記述すると、それは 「意識」です。 「意識」にはいろいろありますが、その中に「自己意識」というものがあり、これは「自 分が存在することを意識する」ということです。コップは自分ではありませんから、それ を意識してもコップに何の変化も生じません。それに対して、自分は「対象」ではありま せん。自分というあり方とはじつは「意識」であると考え、何かを意識しているなという ことを意識する。これが自己意識です。「私はここにいる」というような感覚です。自己 意識がなければ意識だけしかなく、それではいろいろな意識 ( 対象意識 ) がばらばらにな ってしまうわけです。自己意識があるからいろいろな意識を関係させ、束ねることができ ると考え、そういう意識を自己意識という。そういうことが、『精神現象学』という本の なかで、長々と説明されているわけです。 1 「心」はどう論じられてきたか 0 21
「意識」は「心」のことなのかなと考えてみたのですが、結局、そうではないと思いまし た。少し似てはいますが、違うものです。日本人の考える「心」とは違うような気がしま す。「意識」は、何についての意識かということがはっきりしていなければならず、レン ガのようにいくつも組み合わさって、人間の「精神」を構成します。それに対して「心」 は、もっともやもやしていて、つかみどころがない。 それから哲学でよく話題になるのは、「心身二元論」という問題です。 心身二元論では「心」があり、「身体」があり、そのつながりはどうなっているのかと 考える。ですからこの議論では、「心」があるのは当たり前になっています。 しかし、「心身二元論」は私の直観で言うと、キリスト教から哲学が分かれ、分かれた けれどもキリスト教に遠慮がある、という時代の産物のような気がします。哲学は、無神 論ではありません、と最初のうち言い訳をしていたわけですが、「心」があるというのは その言い訳です。本当は神などはないし、霊魂もないし、「心」もないかもしれない。 そのいい例がデカルトです。デカルトは機械論者ですね。人間はぜんまい仕掛けの機械 のようなものであり、動物ももちろん機械であり、その意味では動物の身体も人間の身体 も同じ機械である、そう考えていたわけです。でも言い訳として人間の場合、どこかに 022
キリスト教 ( カトリック ) には告解の制度というものがあります。教会に行くと告解室 といって、小さな箱のようなところに入り、まん中が仕切られた反対側には神父さんがい て、この一週間、どんな悪いことをしたか告白するわけです。そこで告白すると神様が聞 もてくださったことになる、そういう制度です。 そうすると、自由意志があり、神様にそむいている私というものがあることになります。 告白を義務づけられることで、今週は何を告白しようかといろいろ考え、その結果、主体 性というものが本人に意識され、近代的な主体が形成されたのではないか、というのがフ ーコーの考えです。 告白の内容は、自分の罪です。罪とはどのようなものか。人間が自由意志を持っている から罪が生まれる。なぜ人間は自由意志をもつのか。人間は身体を持ち、手や足は神様に コントロ 1 ルされるのではなく、自分の自由意志に基づいて動くからです。自由意志に基 づいて自分の身体を動かした結果、どういう罪を犯すかというと、性に関する罪を犯しま す。告白の内容は性的なものです。性は自分だけに開かれた秘密の場所である、というの がフ 1 コ 1 の考えた仮説です。 ここから、個人という主体は「心」を備えた実体としてあるわけではない。それは、告 148
ヴィトゲンシタインによると、言葉は、世界について述べているときに意味があり、 そうでないときには意味がないのです。そこで言葉は、言葉自身について述べたり、まし て、世界と一言葉の関係について述べたりすることはできないはずである。 この点をよく考えてみましよう。言葉と世界は対応している、とこの本は主張します。 でも、言葉と世界は対応している、ということそのものは、言葉でもないし世界でもない のではありませんか。ところがこの本は、そのように主張する。つまり、本来語りえない ことを、この本は語っているのです。ヴィトゲンシタイン自らが、命題 7 の戒めを破っ ている。明々白々にそのことを意識していたはずの彼が、なぜこの本を書いてしまったの か、不思議です。不思議だと言う以上に、その先を考えてみることもできるでしようが、 とりあえず不思議だということを確認しておきます。 何 ↑言語ケームのアイデア と ム ところがヴィトゲンシタインは、、 もま確認したことと関係があるのかもわかりません語 が、一〇年くらい経ってから、せつかく『論理哲学論考』で展開したこのアイデアを自分 で壊し始めます。
キリスト教徒には、霊魂の考え方があるので、日本人が考える「心」があるようにみえ ますが、私はどうも違うような気がします。 プロテスタントの神学者にカルヴァンという人がいます。カルヴァンが確立した学説 ( 救済予定説 ) によれば、人間の自由意志は存在しないということになるのですが、これ はたいへん大胆な説で、大論争になりました。自由意志がないのなら、こういうことがし たいと思うことすらできないことになりますから、「心」はないということになります。 つまりキリスト教が、「心」の存在を認めているかというと必ずしもそうではない。 次は仏教ですが、仏教は、自我は存在しないという考え方をします。「私」とか意識と か、私たちの感覚とか、そうしたものはすべて幻影で、実体がないという考えです。当然 「心」もないと考えます。 ノラモン教は、 仏教は、当時優勢だったバラモン教に対抗する、革新的な思想でした。ヾ 「梵我一如」、すなわち真実の自己に目覚めて、宇宙と一体化し、最高の境地に達すること と主張し を目標とした。それに対して、仏教は、「真実の自己」などというものはない、 たのです。自分があると考えること自体が、錯覚である。それなら、自分の「心」がある と考えることも、錯覚だとい、つことになります。 026
不動点定理は、経済学で、市場均衡の存在証明をするのに使うのですが、なかなか興味 ぶかい定理だと、私は思います。言葉の意味するところが本当からズレているのが嘘です が、それを仮に連続写像と考えることができるなら、不動点、つまり本当のことを言うこ これをヒントに、 とが避けられない。 嘘をつくという行為を、すべての場合に貫き通すの は無理だと考えてみたのですね。 す約束はなぜ守るべきか 約束とは、当然、これから起こることについてなされるものです。ですから、約束を口 にしたときにはまだ本当か嘘か決まっていない。 「そこに机がある」と言ったときには、机があるかないかどちらかです。「明日、銀座の 和光の前で会いましよう」と言うのは、明日のことですから、まだ実現していません。事 理 実の報告ではなく、自分の意図、自由意志があり、行かなくてもよいのだけれども行きま 倫 すよという約束です。言ったら、これは守らなくてはなりません。言葉に合わせて現実を葉 作り出すのが、約束の特徴です。自分も約束に縛られますが、相手も縛られ、明日はやっ て来るという相手の行動が予測可能になる。
組んだテーマは確実性の問題で、最期に取り上げるのにふさわしいものだったと私は思い ます。彼は、懐疑を乗り越え、自分の人生の確かさを検証しようとしています。 懐疑論者が、すべてのものは懐疑できるというような議論を展開していた。ヴィトゲン シタインの友だちにムーアという学者がいて、ある会合で演説をするのです。懐疑論が 最近幅を利かせているが、そんなものはデタラメである、この世のなかには確実なものが とうだ文句があるか、 存在する。たとえば、私に右手がある、このことは疑いようがない、。 と。その話をもとに、ヴィトゲンシタインはいろいろ考察を加えていきます。 結論。ムーアの気持ちはよく分かった。ムーアは正しい。たしかにこの世のなかに確実 なことがある。たとえば、自分の右手は確かに存在するだろう。けれども、「自分には右 手が存在する」と、わざわざ主張する必要はなかった。そのことによって、確実なことが もっと確実になるというようなことはないからだ、とヴィトゲンシタインは言います。 製疑とは何か。懐疑とは、ものを疑うことである。ものを疑うためには、これは確かだ ろうかと疑問文を発することができ、その疑問文の内容を理解し、いまこれを疑っている という意識が持続しなくてはならない。疑問文の意味すら理解できない人には、そもそも 懐疑は実行できない。 124
こういう背景を考えてみますと、愛情とは単なる「心」の状態ではなく、一連の行動、 文化の一種であり、そういう行動を人間は習得するわけです。その反作用として、自分の 「心」の中に愛情というものができてくると感じられる。そういう順序になっているので はないかと考えたわけです。 す性別は社会の基本となる言語ゲームだ もうひとつ「心」の中にあるのは、男女の性別です。みんな誰でも自分は男だとか女だ とか、性別を意識しています。いっから意識したかと言うと、たぶん思い出せないと思い ます。人間が自分のことを自分だと意識するのとほば同時に、自分を男だとか女だとか意 識している。ですから、いつ自分の性別を意識したかと考えても、記憶していないんです ね。それほど人格の深い根本的なところに、性別はある。 る え これにはいくつか証拠があります。人格が解体していく、精神病というものがあります。考 いろいろな精神のはたらきが解体していくのですが、男女の性別が解体していくという例と は、私が見た限りではありません。ですから人格にとって、非常に深くて古いものではな 生まれてきた子どもが、家族のなかで自分を理解す いかと思います。なぜなんでしよう。
約東が発達すると、契約になります。働いてくれれば月末には給料を払います、という のも契約です。ということで満員電車に毎日揺られ、働きに出ることになりますが、月末 には給料がもらえます。お互いに束縛しあうことによって、束縛されることによる損失も あるが、相手を束縛することによる利益もあ 0 て、利益の方が大きいわけです。だから契 約を結ぶ。契約を結ぶかどうかは自由だが、いったん結んだら契約は守らなければならな そういう約束によって社会は出来上がっている。自由意志があるからこそ、言葉と自 由意志を組み合わせて、約東をする。 約東は守らなくてもいいのです。守らない自由はある。しかし、約束をしては破り、と いうことをずっと繰り返すことはあり得るだろうか。これは先ほどの嘘とは違って、ある ような気もしますね。こんどこそまじめに働くぞ、といって競馬場に行ってしまうとか。 でも、ある人の約束がすべて実現しないということはありうるけれども、世の中のすべて の約束がすべて実現しないということはありえません。誠実な人がこの社会でかなりの割 合で存在しないと、ちゃらんぼらんな人も生存できないのです。 人びとの意図や意志が現実となっていくのが、約束です。約束するということは、そこ に意図や意志があり、自分は誠実であると宣言していることです。それは「心」のあり方
です。 す「心」の存在に懐疑的な哲学者 ではほかに「心」を研究しているのは何かと言えば、哲学です。 哲学は哲学者の数だけ流派があり、心理学のようには簡単に整理できません。けれども 結論は簡単で、哲学者は「心」の存在について概して懐疑的です。 私が読んだ範囲で、「心」の問題をしつこく考えているのは、ドイツのヘーゲルという 哲学者です。私は学生のときにマルクスを読んでいたのですが、これが難しくてさ「ばり わからない。 これは私の頭が悪いのか、あるいはプチブル的で階級意識がそなわっていな いからわからないのかと悩んでいたところ、あるとき先輩が、ヘーゲルを読まないでマル クスがわかるはずはないと言「ているのを小耳に挟み、ああそうか、とへーゲルの本を急 マ いで買ってきた。そして読んでみたら、マルクスに輪をかけてヘーゲルはわからない。 ルクスのことをわかるようにはならなか「たのですが、少なくともへ 1 ゲルは難しいとい 、つことがわかった。 ヘーゲルは「意識」という言葉を使っています。ドイツ語では、 Bewußtsein といいま 020