た。がっかりした。 でもそのかわり、ある強い感情が立ち上がってきた。それは、この世にたったひと りずつの個人と個人の、私と、嵐の間にたった一種類しかないなにか、他の誰との間 にも起こりえず、今ここにあって手にとれるほどリアルななにかは、決して消えない という真実の感触だった。だから私はただ、 「そうね。」と笑った。「ねえ、秋が深くなるとこの庭で紅葉が見物できるの ? 」 ア 「うん、きれいに色づくよ。」 チ と言って嵐は庭に千代紙のようにちりばめられた赤を指さした。その頃には彼はこ さび / こにいないんだなあ、と私はばんやり思った。気が、遠くなるような淋しさがゆっく た かりと胸に満ちてきた。 数日後の夜、自宅で > を観ていたら、突然さゆりという友人が訪ねてきた。 彼女はいわゆる幼なじみで、私の住むマンションの上の階に住んでいた。子供の頃 はよく母が留守の時に、さゆりの家に泊めてもらったものだ。さゆりの家は普通の三 だんらん 人家族だったが、誰もうちの母の境遇に眉をしかめたりしない。だから、よく団欒に うれ 混ぜてもらって嬉しかった。やさしい両親に偏見なく育てられたさゆりは快活で背が まゆ
高く、目がばっちりしている。よく夜、ひまだと急に訪ねてくるのだ。玄関に立った 彼女は。ハジャマの上にジャケットをはおって、サンダルをはいていた。 「おじゃましまーす。」 」一一一一口、つさゆ・りに、 かっこ・つ 「いつも、そんな恰好で来てたつけ ? 」 し J 一一 = ロ、つと 0 「そう。変 ? 」 と家に上がってきた。 た「団地妻の浮気みたい。」 と私は笑った。久しぶりにさゆりに会ったら、嵐に会う前ののどかな生活の実感が 突如よみがえってきて明るい気持ちになった。嵐のことでかなりふさいでいたのだ。 私はさゆりを和室に通してお茶を運んでいった。 和室は母の部屋で、母はかなりいろいろなものを向こうへ持っていってしまったの で、結構がらんとしていた。私が人って行くとさゆりは目を丸くして私を見上げ、 「人魚、おばさん、本気だったんだね。」 」一一一一口った。
嬉しそうに楽しそうにさゆりが言った。 「すごい、すごい もう、めちやめちゃよ。絶対、一緒には住めない。やつばり。」 私も笑ってそう言った。 「一緒に住まないで初めて成り立つっていうのが、すごいね。」 さゆ・りは一一 = ロった 0 「なりゆきよ。いつの間にかね。」 私は言った。なぜか嵐の顔が浮かんだ。ああ明日会いに行ったら、とりあえず二人 は離ればなれになるのだ。あさって、嵐は発つ。 「あっ、これ誰 ! 」 さゆりは勝手知った態度でをつけようと手をのばした姿勢で床から写真を拾い 上げた。見ると、焼きつけを失敗してぼいと捨てたはずの嵐の写真だった。彼の家の 庭で撮ったもので、濃く茂る草木をバックにして、しかめ面をした嵐が写っていた。 そうして見ると妙に彼は存在感があり、孤独な目をしている、全く知らない人のよう に見えた。 「それ、恋人。」 私は照れ笑いをしながら言ってみた。
まゆ 思い切って私はそうたずねてみた。母は返事のかわりに眉をしかめて、ものすごく ′いやな顔″をした。 「どうして ? まさか、もうお父さんに失望してしまったの ? 」 私はそれこそこわくなって聞いた。母が、 「まさか。」と言ったので私はほっとした。母は続けた。 「ただ、お父さんには、あんまりにもネパールが似合って、楽しそうで、毎日山に出 たかけたり、飲んだり、食。へたり、ものすごくのびのびとして : : : あの人、本当に、も かう帰らないかもしれない。 日本に。そう思ったらね。でもお母さん : : : あそこには住 めない。 つん、今、少し混乱しているの。」 「とにかく食事にしましよう。」 私は言った。母はしぶしぶはしを取った。 「食べて、元気になったら冬服でも見に行こう。ね。歩きたくなかったら車椅子に乗 せてあげるからさあ。」 私が明るく言うと、母はにこり、と笑ってすき焼きを食。へはじめた。 前日さゆりに母の様子を話したら、さゆりは真剣に考え込んで、 「無理な人生の無理がまとめてでちゃったのかしら。」 くるまいす
るくせに、大っころみたいに無邪気な感じでかわいく笑っちゃってさ、なあんだ、そ 、つ、つ↓ま / 、 いってるのね。」 さゆりは微笑んだ。 ひとみ いろいろなことがなんとなく心細く思えていた私の瞳にはその笑顔が、私たちの初 めの瞬間を目撃していてくれたさゆりの、耳に小さく光るビアスが、長いまっげが、 赤いくちびるの笑ったかたちが、まるで女神様のように力強く見えた。 た「うん、なんだかこの恋は、時間や気持ちをとっても費やしそうな気がするの。」 と私は言った。 た「がんばろうね ! 」 と、いつも元気で前向きな彼女は胸のところでこぶしを握るという、くさいポーズ をしてそう一言った。 私は嬉しかった。こういう瞬間に、はっとわかる。確信できる。私の人生が動きは じめている、絶対に動いている。今までよりずっと多くのことが飛び込んできて、揺 れが止まらない。 きっと、私はわかりはじめている、この見方でもっとたくさんのも のを見たい、と私は思った。良いものも、汚いものも、過去も未来も、なんでもかん でもきちんとこの目で見てみたいと生まれて初めて心の底から思ったのだ。 ほほえ
「あら、まあ、そう。」 私の今までの恋愛のあらかたを知っているさゆりは品定めするように写真を見てか らいこ、つ一言った。 「きびしい感じの、人だね。」 さゆりの目を通して出会う嵐は、私の初めて見る嵐で、瞬間私はまた彼に恋を する。失望も欲望も、あらゆる角度から彼をくり返し発見して、くり返し恋をする。 、そして、こういう恋はもう後戻りできないことを、くり返し知る。 チ ク「ああ、あたし、あんたたちを見かけたことあるわ。」 サ さゆ・りが一一 = ロった。 た いっ ? 」 た 、つ 私はびつくりして言った。 「ええと、あれは : とにかくタ方、急に雨が降ってきた時よ。ちょうどあたしも デートしてて、となり町のさ、裏通りにある小さいレストランさあ、ガラス張りの。 あそこにいたのよ。雨の中をダッシュしてくるバカみたいな女がいるわ、と思って見 てたら人魚でさ、ああっー とか言ったとたんこの写真の男の人が人魚を呼び止めて。 そうそう、ものすごく優しい顔で人魚のことを見てたよ。人魚もさ、ふだんすまして
「部屋が、そのまま外国に行っちゃったみたいじゃない。」 「そうなのよ。」 ちゃぶ台にお茶を出して私はうなずいた。 : まあ、すごい勇気だね。人魚、もしおはさん帰 「やる時はやる、と思ってたけど : ってこなかったら、どうするのよ。それとか、帰ってきたら親子三人で暮らすとか言 い出したりしてさあ。」 ア さゆりは笑ってそう言ったが、私は″そうか、もとから家族は四人なんだ″と思っ チ ほうぜん て茫然としてしまった。今さらながら私と嵐の位置は運命的なものだと、思う。おと / ぎ話のような運命ではなく、出会わないはずのないという意味でだ。 「お母さんがお父さんを本当に愛してるみたいなのは、昔からだものね。仕方がない と思うわ。私も養ってもらっているし、決定権はお父さんにあるのよ、ずっと、多 そういう意味では家は立派なような気もした。家父長制度だわ、と私は初めて考え た。今までどうして、父と母と私と、会ったことのない嵐との関係を考えたことがな かったのか、我ながら不思議だと思った。 「人魚のお父さんって、すごいんでしょ ? 」
117 夫の浮気か、それとも結婚前の失恋か、やつばり見当もっかなかった。ただ、 「気候が本当にいいわね、どこまでも歩けそう。」 すっかり元気そうに言う彼女は、とても良かった。 「ねえ、もっとずっと先に、うちがあるんだけど、梅ジュース飲んでいってくれな い ? あのね、なれなれしい感じだけれど、なんだかすごく懐かしい人に会ったよう で、もう少し、話がしたいのよ。」 恥ずかしそうに赤くなりながら、髞は言った。 ア 「いいけど : : : 。梅ジュースってなに。」 チ ク「実家から山のように梅をもらってきて、 いつばい作ったんだけれど、ひとりじや全 サ然飲み切れなくて、ここのところ、みんなに飲ませてるの。」 さらり、と彼女は言った。 「おひとりなんですか ? 今。」 びつくりして智明は言った。 / 彼女は微笑んで、 「ええと、夫とは死別してしまったの。」 と言った。まるで智明のほうを傷つけまいとするような言い方だった。 「そうだったんですか。」 ほほえ
、と田 5 った。 . し . し 私は、そういう礼儀正しさはとても、とても、 「うん、 いくら兄妹とはいえ変かなって、私も思った。」 私はふざけて言った。そうしたら、 「いや、兄妹じゃないんだよ。」 と、風はさらりと一一一一口った。 「知ってる。お父さんに聞いたの。」 ア と私も言った。それで二人は、二人の持っていた特ダネが同じものだと納得した。 チ ク二人が同じことを気にしていたことも。そして私は、嵐の差し出したもう一本のかさ サ を開いてさして、ゆるやかにカープする坂道を登って行った。白いセンターラインも、 た ガ ードレールも雨で光っていた。私たちは同じように幸福な気分だったと思う。 父の家は幼い頃にも増して、ものすごかった。玄関ははずれかけていて開ける時、 思い切りきしんだ音を立てたし、家の内装は茶とダークグレーに品良く統一されてい : と思わせたが「好きな所で好きなこ て、もとはきれいな家だったのかもしれない : とを」した跡が雑な感じで家中を覆っていて、床があまり見えなかった。 「片づけよう、とか、直そう、とか思わないの ? 」 うれ と私はバスタオルで頭をふきながらたずねてみたら、嵐は嬉しそうに、